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2025年5月

2025年5月18日 (日)

ショスタコーヴィチの5番

2日間のサントリーホール公演(5/16定期B、5/17都響スペシャル)、多くの方々にお越し頂き、本当にありがとうございました。

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16日の開演前、この曲(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)が好き、というスタッフと話しをしていました。読書好きでもあるその方と、言葉は使っていないけれど、交響曲は物語のようでもありますね、という話しになりました。
いくつかのモチーフや主題があり、それらは旋律やリズムなどで現されているのですが、驚くほど多彩な手法で(ショスタコーヴィチの書いた和声進行をたどっていくのは、何度経験しても、素晴らしい時間でした)展開されていく。

ショスタコーヴィチの5番は楽しい曲ではなく、もちろんハッピーエンドも訪れない。明確な言葉にはすることができない様々なことがこの音楽には書かれていて、それは作曲家の苛酷な人生が投影されたものと思いますが、それを聴いたり、演奏したりすることで通り抜けると、自分の中で何かが変化する。浄化されるのかもしれない、と感じます。そして、曲は毎回違う姿で現れる。
様々な演奏を聴き、様々な指揮者でこの曲を弾いてきました。でも今回、これまで知らなかった曲を弾くようでした。指揮はクシシュトフ・ウルバンスキさん。
2日目、17日の舞台には途切れることのない集中があり(おそらく客席もそうではなかったか、と思います)、印象深いものとなりました。

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プログラム前半はショスタコーヴィチの2番のピアノ協奏曲、演奏機会の多くないこの曲の音を出すのが待ち遠しかった。(ピアノはアンナ・ツィブレヴァさん)
5番の交響曲も、2番のピアノ協奏曲も、緩徐楽章の深い音楽に心が捉えられます。興味深いことに、どちらも3声体で始まります。なぜ作曲家は安定した響きとなる4声で書かなかったのか。もろく、はかない何かを表現したのだろうか、と僕は思います。

交響曲の第3楽章、低弦楽器が弾く運命の動機の後、ヴァイオリンのピアニシモのトレモロを伴ってオーボエがたった1人で第3主題を吹き始めます。舞台に100人近いオーケストラと、客席には2000人近くの人がいるのに。この部分に来るといつも、濃い霧がたちこめて行き先も方向も見失った人が、サーチライトを照らして手探りで進もうとしている、そんな光景が浮かびます。
このオーボエの主題はクラリネット、フルート、チェロに受け継がれ、悲痛な叫びとなって大きなクライマックスを迎えた後、再び第1、2、3主題が思い出され、最後は嬰ヘ長調の穏やかな、救われるような響きに包まれて楽章は終わります。

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5番の交響曲の3年前に書かれたチェロ・ソナタは、チェロを弾く者にとって大切なレパートリーです。同じ音程で構成される8分音符二つと4分音符一つのモチーフの使われ方や、やはり緩徐楽章が深い内容を持つことなどから、交響曲との関連を思います。
ショスタコーヴィチがロストロポーヴィチと共演した録音を久しぶりに聴いています。作曲家はピアノの名手でもあり、素晴らしい演奏に心打たれます。

2025年5月 9日 (金)

ゆるやかに

少し前、楽器職人のS君が、この日記を読んで下さった方(ありがとうございます)からエンドピンについて尋ねられた、と教えてくれた。そして楽器のセッティングは一つに決めるのではなく、二つ三つ選択肢を持っている方が良いのでは、という話しになった。

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僕は何本か弓を持っていて、どの弓も個性的だ。軽く固く、ふわっと倍音が伸びるもの、少しこもった音が魅力的なもの、散るように音が広がるもの、どっしりとしているもの、・・・。
人間と同じように、楽器も日によって違い、その時フィットする弓も違う。どうしてそうなるのか、いつも不思議なのだけれど、その弓と楽器の蜜月は大体4,5日で過ぎ、短所が目立つようになり、他の弓の登場となる。

その弓の個性に少しずつ楽器が引っ張られていくのだろうか。例えば低音が出やすい弓をしばらく使っていると音が暗い方に変化していき、そんな時に軽く音が出る弓を使うと、魅力的に感じられる。

弦の種類を変えると、弓との相性は違うものになってしまうことも興味深い。他にも気候など、様々なことが影響する。そして、楽器の調子に加え、自分の体と心の変化にも耳を澄ませておくことも大切と思う。
(もし高価なエンドピンを使うなら、エンドピンの接する床やストッパーも気にした方が、と思う。様々な材質や構造のものを試してきた。硬く、密度の高い材料ならどれでも良い、とはならず、音は本当におもしろいと思う。)

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最近一緒に弾かせて頂いた優れた奏者の中に2人、長い期間弓も楽器も同じもので、という方がいた。早い段階で素晴らしいものに出会い、それを使い続けている、ということだろうか。
常に変化する状況の中で、良い選択を探し続けている僕にはとても新鮮に感じられた。

ヴァイオリンもチェロも、実用的な音域は4オクターヴ程と思う。(もちろんさらに高い音を出すことはできる)チェロの特徴は、Ⅳ番線の低音と、Ⅰ番線のハイポジションで出る高音は、まったく性質が違うことと思う。
低音は和声のバスを充分に支えることのできる低さで、音の指向性は少なく周囲に広がりやすい。Ⅱ、Ⅲ番線の中音域はくぐもった魅力があり、一方高音は多くの倍音を含み、直進性があり、輝かしい。
一つの楽器でこの幅を充分に実現するのは、100m走とマラソンのように相反する要素を両立させる難しさがあるかもしれない。

今使っているチェロとは30年以上の付き合いで、ほぼ全てのことに手を入れてきたけれど、結局どこかを変えても楽器の基本的な性格は変わらない気がする。何かをいじるより、その楽器を(そして自分を)理解し、長所を生かすように使うことが大切と思う。

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多くの優れた奏者に接してきて、楽器を扱う上で最も大切なことの一つは、体の柔らかさではないか、と思うようになった。
火事場の馬鹿力、と呼ばれるように、人間はとっさの時に大きな力が出るようにできている。あるいはお化け屋敷でおどかされた時、手は握りしめてしまうと思う。一方、楽器を扱う時に体が硬くなると、音はきつくなり、飛ばなくなる。
本番の緊張の下で、良い演奏をするためには、普段からどう体と心を使ったら良いのか、今そのことに興味がある。個人差があると思うけれど、緊張すると体はかたくなりやすく、指は開きにくくなり、ふわっとした柔らかいアプローチは失われやすい。緊張したときに自分の体がどのように、どのくらい変化するのか、知っておくことが大切と思う。

恥ずかしながら長い間、かたい心と体で楽器に接してきた。かたくアプローチするか、やわらかくアプローチするかは、異なる結果をもたらす。そもそも心が強張っているか、しなやかであるかで世界の見え方、音楽の感じ方は大きく異なると思う。
ある時そのことの重要性に気付き、それまで充分に弓や楽器を使えていなかったことに思い至った。一つの弓や楽器から教わることは本当にたくさんある。

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先月の都響公演(4/19名古屋、20大阪、22東京)、前半にショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番があった。
最初の名古屋公演、第3楽章の長大なカデンツァを弾いている時にソリストのアリョーナ・バーエワさんは弦を切り、すかさずコンサートマスターの楽器を借りて、ほぼ中断なく最後まで弾ききった。
最後のサントリーホール公演では、(この曲のテンポ表示は可能と不可能のぎりぎりの線上にあるのだけれど)彼女の方から終楽章のテンポをさらに速く、という要求があり、本番は見事な緊張感があった。ライヴ演奏の魅力にあふれた舞台だった。

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この協奏曲を準備するにあたり、いくつも録音を聴き、改めて素晴らしさに圧倒されたのはダヴィッド・オイストラフの演奏だった。
これほど奏者の負担が大きく、緊張感の高い曲でも、力まず悠然と進んでいく彼の音楽に、目を開かされるようだった。

以前にもこの日記で紹介したかもしれないけれど、フリッツ・クライスラーがオイストラフを評した言葉がある。
「オイストラフは、すべてのヴァイオリニストの中で、もっとも大切なものをもっている。それは、彼がゆるやかに演奏することだ。このすべてがスピード時代に生きているわれわれにとって、これは非常に稀であり、かつ貴重なことだ。」

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