書籍・雑誌

2018年2月16日 (金)

素晴らしいジャンプを

平昌オリンピックの男子ノーマルヒル決勝、日付が変わる頃テレビをつけた。風が強く吹く中、選手はスタート位置については戻り、位置については戻りを繰り返していた。深夜の寒い中で何度も待て、を繰り返す状況をライヴで見ていて、本当にすごいなと思った。おそらく10分くらい待った後で彼は(待ちきれない様子だった)見事なジャンプをした。スイスのシモン・アマン。そして後続のロベルト・ヨハンソン(髭の人です)も素晴らしいジャンプで銅メダル。驚くほかない。この人たちはいったい何だろう、と思った。凍える寒さの中で、その上自分の思い通りにならないタイミングを待つ、でも素晴らしいジャンプをする。

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2月16日の日経新聞に掲載された三浦知良さんの記事はやはりオリンピックに触れていた。その中から

『・・・例えばスキージャンプ。4年に1度、何秒間かの踏み切りや飛躍に全てをかける。それでいて、その一瞬が必ずしもいい環境に恵まれない。気まぐれな風。寒さ。悪条件。過酷というか、不条理にさえ思えてくる。
 色々な条件がピタリとかみ合わないと、自分のパフォーマンスを出し切れないときは僕にもある。・・・』
『考えてみればストリート育ちのブラジル選手は、どんな条件でサッカーをさせてもうまい。いい芝生、硬い地面、ぬかるみ。様々な状況でやってきて、本当の意味で使える技術を持っている。僕自身もブラジルに渡った10代にはあらゆる悪条件でサッカーをした。「こういう場でもプレーできなければ、本物じゃない」と言い聞かせながら。
 経験とは、いろんな条件の下で戦い、生きてきた幅のことだ。そして生き残るということは、状況に順応できるということ。理想の条件ばかりは望めない。言ってみれば、僕らには泥沼しか与えられない。それでも合わせていく。それを「力」とも言い換えられるのだろうね。』

2018年1月15日 (月)

1月14日、日経新聞に掲載された大田弘子さんの記事から

『鹿児島の伝統校、鶴丸高校には知識よりも知性を育む校風があり、学んだことは「ずしんと染みついている」。特に記憶に残るのは、化学の先生の「教養とは、はにかむことである」という言葉だ。半可通がとうとうと正論を述べ、知識をひけらかすのは慎まねばならないと諭された。』

2018年1月13日 (土)

レイモンド・チャンドラー

雑誌「MONKEY」vol.7掲載の対談の中で村上春樹さんが

『僕は比喩に関しては、だいたいレイモンド・チャンドラーに学びました。チャンドラーってもうなにしろ、比喩の天才ですから。たまに外してるものもあるけど、良いものはめっぽう良い。』

と語っているのを目にして、なるほどそうだったのか、と膝を打ちたくなった。確か「ロング・グッドバイ」の中にあった僕の大好きな比喩を思い出した。サンドイッチの中の乾いてぱさぱさになったレタスをたとえに使っていたような。続けて村上さんは

『比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはある程度そういうサプライズが必要なんです。』
 ー ここに落差入れようっていうのは、学んで、書いているうちにここだなとだいたい目星がついてくると。そこに入れる比喩は自然に思いつく。
『自然に思いつきます。さっきも言ったように、比喩みたいなのは自然に出てこないと意味ないと思っているから。』

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この対談を読む前にいくつも村上春樹さんの長編を読んでいて(一度読んだものが多かったけれど夢中になって、電車を乗り過ごしたりした)、彼の比喩はいつも楽しかった。物語の大きな流れには関係のない、実に気の利いた箸休めのようだった。この対談を読んだ後、久しぶりにチャンドラーを読んでみようと思った。それで年末に読んだのが村上さん訳の「大いなる眠り」。巻末の解説も訳者によるもので、この文章がまるで仕事を離れたかのように生き生きしている。その中から

『この作品の映画化にあたったハワード・ホークスが、原作者チャンドラーに電報を打って、「スターンウッド家のお抱え運転手を殺した犯人は、いったい誰なのですか?」と尋ねた逸話はあまりにも有名だが(「私は知らない」というのが著者の返した電文だった)、そのように思わず著者に真相を問いただしてみたくなる部分は、この本の中に何カ所かある。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールド君は「本を読み終えて、その著者に電話をかけたくなるような本は素晴らしい本だよ」みたいな意見を述べているが、そういう意味では(ちょっと意味合いは違うけれど)『大いなる眠り』も「素晴らしい本」のひとつに数えられるかもしれない。
 しかし「すべてはロジカルに解決されているけれど、話としてはそんなに面白くない」小説よりは、「うまく筋の通らない部分も散見されるものの、話としてはなにはともあれやたら面白い」小説の方が、言うまでもなく読者にとっては遙かに魅力的であるわけで、もちろんチャンドラーの小説は後者の範疇にある。というか逆に、多少「わけがわからん」というファジーな部分があるくらいの方が、小説としての奥行きが出てくるのではないか、と断言したくなってくるくらいだ。』

年が明けて1月4日と5日の日経新聞にチャンドラーの長編7作の翻訳を終えた村上さんの文章が載り、ふむふむと読んだ。今読んでいるのは「高い窓」。僕が感じるチャンドラー作品の魅力はやはり、主人公フィリップ・マーロウだ。

2017年12月29日 (金)

「出発の地に」

12月28日、日経新聞夕刊に掲載された森田真生さんの「偶然の散歩」という文章から

『気づけばあれから半年が経ち、この連載もついに最終回を迎える。最後の原稿に取りかかる前に、またあの公園に出かけたいと思った。「すべて私たちの旅の終わりは、出発の地に辿り着くこと」 ー エリオットの詩の一節が、僕の頭にはあった。』
 ・・・・・
「すべて私たちの旅の終わりは、出発の地に辿り着くこと、そしてその地を初めて知るのだ」。エリオットの詩の続きを、僕は心の中で聴いた。』

今年の新聞記事切り抜きを整頓した。それまで知らず、だからいっそう毎週新鮮で素晴らしい発想を頂いたのが独立研究者、森田真生さんの文章だった。やはり知らなかったけれど、言語学者、黒田龍之助さんの文章も楽しかった。切り抜いて取っておかなかったのが悔やまれるのが、パスタのゆで具合(アルデンテ)についての文章。僕のあやふやな記憶でものすごく乱暴に要約すると、好きなゆで具合で食べればいいじゃないか、という痛快なものだった。この夕刊のエッセイは、何度も書いた多和田葉子さんは言うに及ばず、ジェーン・スーさんも素敵だった。
スポーツではベンチプレス、児玉大紀さんの記事が強烈だった。信じられない思いで読んだ。他には三浦知良さん、為末大さんの切り抜きが多かった。音楽ではなんと言っても庄司紗矢香さんの読書日記がよかった。大切な示唆だった。そう、夏限定で読む信濃毎日新聞にも毎年素晴らしい記事がある。
心引かれて切り抜いた記事に共通するのは、とらわれない発想、アイデア、気持ちの持ち方、そうしたものだった。貴重なことを学ばせて頂いた。

昨年の夕刊のコラムで、切り抜いておかなかったことを残念に思うのが漆間巌さん。肩書きからはすぐには想像できない音楽の話が何度も出てきて楽しかった。子供の頃、オイストラフの演奏を体育館で聴いてヴァイオリンの虜になったこと、ソ連駐在中にチャイコフスキー・コンクールを予選から聴いたこと、など。オイストラフの音、どんなだったのだろう。

ところで、今日29日から夕刊は休み。あぁ実につまらない。

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2017年11月29日 (水)

11月28日の日経新聞に掲載された元サッカー日本代表、北澤豪さんの記事から、

『日本ではスポーツのステータスが低いといわれることがある。なくなっても困らないもの、と考えている人もいるような気がする。
 いや、なくてはダメですよ。世の中でテクノロジー化が進み、何でもオートマチックに行われるような味気ない時代を迎えたら、人の感情を動かすもの、心を揺さぶるものがますます必要になる。
 ・・・・・
 サッカー界(スポーツ界)はその構造をピラミッド型にして描く。優れた選手にピラミッドの頂点を目指して縦に動かしていく。しかし、違う捉え方もあると感じている。サッカー界をいわば平面で捉え、網の目の構造で考えてもいいのではないか。
 それぞれの網の目(地域)の中にプロサッカーも子どものサッカーもシニアサッカーも障がい者サッカーもある。その小さな網の目の中でそれぞれが交流し、選手や指導者が行き来し、つながっている感覚をつくる。そういう横の関係を築いていくと、互いに心を動かされ、相手を称賛する文化が育まれる。
 子どものサッカーでもシニアサッカーでも障がい者サッカーでも、すごいと思う瞬間がある。底辺にいる選手であろうが、そのすごさをしっかり評価し、称賛してあげたい。そういう価値観を確立していくことでスポーツ界は変わっていくだろう。』

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2017年11月20日 (月)

雑誌「MONKEY」


本屋で雑誌「MONKEY」vol.13を立ち読みしていたら、ボブ・ディランのノーベル賞受賞講演が掲載されていてとても興味深かった。http://www.switch-store.net/smp/item/MO0013.html
ボブ・ディランを聴きたくなり、昨日「The very best of Bob Dylan」というCDを求め、聴いている。(本屋ではさんざん迷った結果、村上春樹さんと川上未映子さんの対談が掲載されている「MONKEY」vol.7を買いました。こちらも大変興味深かったのです、すみません)

先月仙川に散髪に行った時、学生時代から担当してくれているKさんが、「長谷部くんは小説とか読む?カズオ・イシグロって知ってる?」と尋ねるので、読んだことがある(「日の名残り」は読んだことがあった)と答えたら、「本当?二百人以上のお客さんに聞いたけど初めて」と驚いていた。Kさんはノーベル文学賞のニュースの後、カズオ・イシグロさんのことを知らなかったので、慌てて最新作を読んだそうだ。せっかく読んだのに、彼のことを知っている客はなかなか現れず、ということだったらしい。僕もその話の後、「忘れられた巨人」を読んだ。今はずっと村上春樹さんの長編を読んでいる。

2017年11月16日 (木)

新聞が好き。コーヒーを飲みながらゆっくり新聞をめくる時間のある朝は幸せだ。晴れていればもっといい。休刊日や夕刊のない祝日は手持ち無沙汰でちょっとつまらないし、もともと朝に強くない僕はそんな日はなかなか調子が上がらない。広い紙面から宝物のような記事を見つけるのは楽しく、そうした記事は古風に切り抜いてとってある。僕が読んでいるのは日経新聞、でも大事にしまってある記事は経済面や社会面より、スポーツ面が多かったりする。あとはエッセイ。今年前半に掲載された多和田葉子さんの文章は毎週本当に楽しみだった。(日経新聞が今月から値上がりしたのは残念ですけれど)
11月14日の朝刊に掲載された為末大さんの文章から、

『心理学の実験で、難しい課題に取り組ませて、あきらめやすい人間の特性を調べたものがある。結果へのリアクションが大きい人ほど諦めやすい傾向にあった。
 リアクションの大きさは期待の裏返しだ。もう何回もやったからそろそろ成功させたい。そんな期待をしすぎる人は過去を振り返り、未来を見すぎる。だから失敗するたびに落胆し、諦めやすくなるのではないだろうか。
 不条理耐性がある人は、今ここを生きることができるのだと思う。物事は思い通りには進まない。いちいちショックを受けていてはやってられない。臨機応変に対応するには、目の前の瞬間に集中することが必要だ。
 スポーツ選手の多くが成功より失敗から学んだというのは、この不条理耐性を得られるからではないだろうか。』

2017年11月14日 (火)

日経新聞連載、「読書日記」は10月19日からヴァイオリンの庄司紗矢香さん。当日の記事は池澤夏樹さんの小説「スティル・ライフ」に関してだった。ちょうどその頃僕も「スティル・ライフ」を読んだばかりだった。庄司さんの文章から、

『・・・山の写真を撮るのが趣味の男性が、大きく広げたシーツにプロジェクターで次々と写真を映し出し、主人公に見せるシーンがある。
 「ただの山の写真だ。だから見方にちょっとこつがある。」と男性はささやく。「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない」
 すごくわかる気がした。なんだか、演奏するときの心境に似ている。演奏会に向けて音楽家は何百時間も練習を重ねる。作品の歴史はもちろん、ありとあらゆることを勉強し尽くす。そのうえで実際に観客の前に立ったら、一旦、リセットする。なぜなら、音楽はすべて意味を説明できるものではないから。説明できないものを表現するところに神髄がある。本番でどこまで無心になれるかが勝負なのだ。』

11月9日の記事から、
『じつは演奏を「仕事」だと思ったことがない。誤解をおそれずに言えば「趣味」のひとつ。もちろん打ち込んできた時間はほかの趣味に比べて圧倒的に多いが、あくまで楽しんで弾いている。』

2017年9月 3日 (日)

9月1日、日経新聞に掲載された三浦和良さんの連載「サッカー人として」から。

『不思議なもんでね。それが大観衆の国立のピッチに立つと、スッと心が落ち着いていく。移動の車中や控え室での方が「勝たなきゃいけない」「ゴールをどう取るんだ」「負けたらどうしよう」と色々考えて。ところが通路を渡りピッチへと踏み出せば、理由は分からずとも自信が湧いてくる。大歓声を、自分の力として受け止めることができる。』
『巡り巡る大勝負で求められるのは何か。「ノン・テン・セグレード」とブラジルの人は言う。体と心をいい状態に、いい準備をする。特別な秘訣(セグレード)などはない。そう心からスッと思えるなら、少なくとも乗り越える準備はできているんだ。』

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2017年7月 9日 (日)

須賀敦子さんの本、続けて「トリエステの坂道」を読んだ。以前は文章の心地良さを読んでいたところがある、今は身に沁みる。

登場する様々な人たち、豊かな境遇にあるとは言えない多くの人たち、裕福な、名の通った人たちも、同じように共感を持って描かれている。この須賀さんの視点にすっと心をつかまれるのかもしれない。生きることはどの人にとっても決して軽くない、ということに心動かされる。

同書でもナタリア・ギンズブルグの「ある家族の会話」が言及される。もしかして「トリエステの坂道」は須賀さんにとっての「ある家族の会話」ではないか、と思った。「ふるえる手」から。

『しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だって思った。
こうして、「ある家族の会話」は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。イタリア語で書くか、日本語で書くかは、たぶん、そのときになればわかるはずだった。』

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