書籍・雑誌

2021年8月17日 (火)

8月

今月、1995年に製作された番組「映像の世紀」がまとめて放映され(https://www.nhk.jp/p/ts/BPWL46L6R2/)、いくつも観た。映像の持つ力は圧倒的で、特に第1次、第2次世界大戦を映したものには、胸がつぶれるようだった。

今の我々は、その年その国がどのような状況で、次の年にはどのようになり、どの戦いがターニングポイントで、どのようなことが起こり、いつ終わったのか、知っている。ではもし自分が1945年初めの東京にいて、空襲を生き延びていたとして、8月に戦争が終わることを予見できただろうか。

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大きな戦争とウィルスの感染拡大を比べることはできないけれど、経験のないことに直面している、ということでは似ていると思う。世界が同時に同じ感染症にさいなまれている、という事態は、これまでなかった。
渦中にいることの難しさは、今出来事のどこにいるのか見えにくい、ということではないだろうか。2021年8月は長く続く感染のほんの入り口なのか、あるいはそろそろ中程なのか、あるいは間もなく収束するのか。
昨年の夏、2021年にワクチンが普及するだろう、とは思っていた。でも接種率の高い国で再び感染が拡大することは予想できなかった。困難な状況だと思う。

経済力のある国でワクチンが普及し感染が抑えられても、他の国で感染が広がり、さらに強力な変異種が出現し・・・、いたちごっこが続くのだろうか。いつまでも経済を止めておくわけにいかないから、イギリスのように活動を再開するのか、それともオーストラリアのように少しの感染者が出ても厳しい措置を取るのか。ワクチンを毎年打つことになっても、副反応を辛く感じ、次の接種を拒否する人々が出てくるかもしれない。
世界中でそれぞれの状況が同時進行し、様々なことが行われたり行われなかったりしている。10年くらいたったら、その時どんな行動を取るべきだったのか、見えているのかもしれない。

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どうしても人は目の前のことに左右されてしまう。人間の活動量が巨大になった現在、感染症に関しても、おそらく気候変動や環境問題に関しても、行くこともない遠くのどこか、会ったこともない誰かに思いをはせることが重要なことに思える。星野道夫さんの文章を思い出す。

『ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。』(星野道夫著「旅をする木」から)

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マーラーの交響曲第9番を聴いている。最後に弾いてから4年たち、いい曲と感じるようになった。休みの日にオーケストラの曲を聴く、なんて以前には考えられなかったことだ。仕事上の必要ではなく、いったい何が書いてあるのだろう、という純粋な興味からスコアを開いている。

6番の交響曲以降、どうしてこの人はこんなに難解になってしまったのか、とずっと思っていた。今は少し共感できるような気がする。マーラーさん、確かに現実は多くのことが複雑に入り組み、混沌として、道筋は見出しにくいです。でも思いもしない時に素晴らしい何かが現れることもありますね、と思う。

2020年7月 7日 (火)

小さな店

今年に入って、これまでなかったくらい頻繁に湘南の海に通った。葉山から材木座、稲村ヶ崎、七里ヶ浜、江ノ島、鵠沼海岸、辻堂、茅ヶ崎、平塚まで。
もう何ヶ月海を見ていないだろう。写真も撮らなくなった。この日記に使う写真も底をついて、最近は自宅から見る空ばかりだ。夏の湘南は好きじゃないし、風が冷たくなった頃、波の音を聞きに行けるだろうか。

雑誌「SWITCH」5月号 は写真家ロバート・フランク特集。彼の有名な写真集「アメリカンズ」の序文はジャック・ケルアックによる。特集ではこの序文を柴田元幸さんが翻訳したものが掲載されている。その中から、

『ロバート・フランク、スイス人、でしゃばらず、優しく、片手で小さなカメラを持ち上げてはシャッターを切り、アメリカからフィルムへと悲しい詩をじかに吸い上げ、世界の悲劇詩人たちと肩を並べる。
 ロバート・フランクにいま、俺はこのメッセージを送る ー あんた、目があるよ。』

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そんなに食い意地はないし、こだわりもない。美味を求めて食べ歩くこともない。
渋谷のBunkamuraを過ぎて坂をもう少し上り、細い道を曲がった所に、たぶん僕より少し若いくらいの2人がやっていた小さな店があった。ランチのクスクスが素晴らしくて、Bunkamuraに映画を見に行くと寄るようになった。クリスマス時期、テイクアウトのパテやソーセージも美味しかった。
ある時、フランス料理に辛いメニューがないのはどうしてだろう、と思い、その店のシェフに聞いてみたことがある。愛想のとてもいい人たち、とは言えないのだけれど、話しを振ると楽しそうに話してくれた。フランス料理店のまかない飯に辛いものを出すと怒られる(繊細な味がわからなくなるから)とか、ホール担当は女性で、この人(シェフのこと)辛いものが食べられなくて、(私がつくる)カレーは甘口、とか。そんな会話で、あぁこの人たちは夫婦なんだ、と思ったりした。

昨年12月以来行っていなくて、4月頃と思う、何気なくお店のSNSを見たら3月で閉店、となっていて驚いた。感染とは関係なく、もともと閉めるつもりだったらしい。飲食店の困難が報道される中、少しほっとすると同時に、あの人たちは今どうしているのだろう、と思う。いつかどこかで再開して欲しいと思うけれど・・・。
その小さな店は音楽が流れていなくて、静かだった。そんなところも好きだった。

2020年6月10日 (水)

「心の中に」

この日記も意外と長くなり、忘れている記事は多い。確かある画家が別の画家のことを書いた文章があったはず、と探したら9年前のことだった。心にふれるものがあって書き留めたのだけれど、その時はそれが何かわからなかった。
2011年2月の日記、日経新聞で安野光雅さんが佐藤忠良さんについて書いた文章から、

『何という光栄だろう。彼が直接に絵を描くところを初心者の目で見たのである。当然だが、ほかの誰もが描く方法と少しも違わない。外見に違いはない。まねのできない心の中にどうすることもできない違いがあると思えた。』

当時僕の日記を読んでくださったOさんが、この文章に言及したことは覚えていた。引用した僕自身はよくわかっていなかったのだけれど、今、本当にそうですね、と思う。人の心の中に入ることはできない。でも、こうして書かれた文章からほんの少しだけ、うかがうことはできる。それはとても貴重な経験だと思う。

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以前の日記を見返していたらピアニスト、舘野泉さんの文章を何度か引用していることに気付いた。こんな文章があった。2010年4月の日記から、

『・・・私の日常も、ピアノを弾くのは別段何かをしているということでもなくて、金太郎飴のように何処で切ってもいいし、どこから始めてもよいのかもしれない。・・・一日何時間弾かなければならないし、しばらく弾かないでいると感覚が鈍くなるというものでもない。いつでも、どんな時でも弾ける。ただ、しかし、楽器に触れた途端になにか実態のあるものに触れ、自分が確かに生きているという自覚を覚え、頭が冴え冴えと澄んでくるのも事実である。・・・
私は、ピアニストというのは手職人だと思っている。若いときからずっとそうだった。音楽を手で触るという感覚は面白い。手で音を撫で、愛しみ、大事にしていくのだ。・・・作曲家の生涯だとか作品の構成とか歴史といったものに興味を持ったり考えたりしたことはない。あるのは作品だけ、その音だけである。・・・
手職人、・・・という言葉が私は好きである。海に網を投げる漁師も好きだ。作品との対峙、対決をし、自分の個性を主張する行き方は好きではない。作品を通して無名性にいたることこそが望みだ。』

この文章を引用した10年前の僕は何を感じていたのだろうか。10年経って、近くが見えにくくなったり、若くはないんだな、と感じることはある。けれど、年を取ることは決して悪くない。
図書館が再開して、舘野さんの本を借りてきた。「舘野泉の生きる力」(六耀社)から、

『僕はステージに出て行く直前、何も考えない。ステージに出たら、そのとき世界が変わるのだ。ポンと音をたたくだけで、即座に新しい世界に飛び込める。
一曲目が終わり、二曲目に移れば、また全然違う世界が開ける。それはあたかも俳優が、まったく異なる登場人物を演じるとき、前のキャラクターを引きずらないのに似ている。違う色、違う心象になって、その前の気持ちはもう全部消えている。次の曲に入る前にひと呼吸置くとか、そういう間合いもあまり考えない。とにかく、一音弾けば、僕はそれで次の世界に入ってしまう。次のステップにパッと飛んで行けるのだ。
 ・・・・・
そして、弾き終わればまたすべてを忘れる。「今のはよかった!今度も同じように弾こう」と過去に固執することもないし、「あの曲を弾いた!」という感動に浸ったり、そうした感動の中で弾いたりすることもない。』

2020年5月 7日 (木)

デビュー作

先日の日記に書いたミケランジェリの「謝肉祭」か、ルービンシュタインの弾くブラームスの3番のソナタをよく聴いている。
少し前に買ったCD9枚組のルービンシュタイン、ブラームス全集に入っていたもので、ピアノ協奏曲やピアノ四重奏を聴きたくて買い、僕にとってはほとんどおまけのようについて来たソナタ(ごめんなさい)を、ふと聴いたら素晴らしかった。

3番、ヘ短調のソナタは作品5。特に美しい第2楽章は、そう知らされなければブラームスとわからないかもしれない。こういう言い方が良いのかわからないけれど、作曲家特有の重さとは無縁で、まるで今の季節の新緑のようなさわやかな息吹がある。
きっとルービンシュタインの演奏も素晴らしいのだと思う。どこにも思い込みのようなものがなく、常に自然な息づかいで音楽が進んでいく。以前、彼の自伝を読んだとき、本当に人生を愛した人と思った。演奏を聴いてもそのことがよくわかる。

僕は昔から作曲家晩年の作品に気を取られる癖があった。でもこの9枚組のCDの中には、1番のピアノ協奏曲(作品15)、3番のピアノソナタ(作品5)、ピアノ五重奏(作品34、ソナタと同じヘ短調だ)、2番のピアノ四重奏(作品26)などがあるし、他に好きなブラームスの作品を思い起こすと、例えば2曲の弦楽六重奏(作品18と36)だって若い作品番号だった。

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昨年出版された「開高健短篇選」は、彼のデビュー作「パニック」で始まる。昔から開高さんの本を読んできたけれど、「パニック」は読んでいなかった。この選集が出版されたことでようやく、気にとめていなかった「パニック」を読み、20代半ばの作家がこう世界を見ていたことに驚いた。

後に開高さんが「夏の闇」の中で、

『「最初の一匹はいつもこうなんだ。大小かまわずふるえがでるんだよ。釣りは最初の一匹さ。それにすべてがある。小説家とおなじでね。処女作ですよ。・・・」』

と主人公に語らせていたのは、このことだったのか、と思う。「夏の闇」を初めて読んだ時は何もわからなかった。

20代後半の僕は釣りに夢中で、開高さんの「フィッシュオン」に始まり、「オーパ」や「もっと広く」、「もっと遠く」など釣りにまつわる本ばかり読んでいた。あの頃もし「パニック」を読んでいたら、何か少し違っていたかもしれない、と思う。

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2019年12月30日 (月)

今年読んだ本から

今年も様々な本を読んだ中で、幾度も思い返すことがあったのは7月20日の日記(http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-31daf2.html)でも触れた釈宗演著「禅海一瀾講話」の中の、この部分だった。

『・・・飛騨の国あたりで、檜の版木板を造る所の人が、或る日、例に依って山の中に入って、そうしてそれを拵えようと思う中に、向こうを見ると古い年を経た杉が一本ある。その後ろに何者か居るかと思うて、眼を注いで見ると、山伏の姿をした者が一人立って居る。これが即ち世に謂う天狗というものであろう、この怪しい人間が即ち天狗であろうと、心にそう思って眺めたらば、その山伏らしい人間が声を荒らげて、「おぬしはおれを捉えて、怪しい天狗じゃと思うて居るな」、とこう云うた。それからまたその木挽が、こいつはどうも怪しい、是れはぐずぐずして居ってはいけぬ、早くこの仕事を片附けて家に帰ろうと、こう心で思うたらば、またその山伏が直ぐに、「おぬしはおれが怪しいとこう見て、早々此処を片附けて家に帰ろうと思うて居るな」とこういうて、天狗らしい奴が、こっちの心で思う通り、向こうで答えた。それから早々日も暮れるし、こんな所にぐずぐずして居ってはいけぬと思って、その版木板を片附けようとして、何か縄で括ろうとする拍子に、縄が切れて、一枚の版木板が山伏の鼻面に当たったと思うて見ると、その怪し気な人間がまたこういうことを言うた。「貴様は一向気の知れぬ奴じゃわい」、こう言うたかと思うと、その山伏の姿は掻き消すが如くに無くなった。これは或いは拵えた話であるかも知れぬが、なかなか面白い。』

人は何か意図をもって行動することが多いと思う。それはいったいどういうことなのか、とても興味深い。

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今年の後半も素晴らしい本に出会った。
養老猛司さんの著作をいくつか読んだ後で出かけた「虫展」は衝撃的だった。(2019年9月18日の日記htmlhttp://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-c697a1.html をご覧ください)
間もなく2020年になろうとする2019年に生きる我々は、素晴らしい科学技術と共に時代の最先端にいる、と思うかもしれないけれど、それは小さな一匹の虫にも及ばない、未だ人間は大腸菌すら作ることができない、と教えてもらえたことは幸せだった。
養老さんの「唯脳論」は1998年の出版、その冒頭に「現代人はいわば脳の中に住む。」という文章がある。街や電車の中で、とりつかれたようにスマートフォンの小さな画面を見続ける人がいる。養老さんはそのことを20年以上前、見事に予言していたのだと思う。交差点でも歩きながらでも、小さな画面を見続ける人たちは、家に帰ってもやはり見続けているのだろうか?確かに今、現実は見るに堪えないものになっているかもしれない。それでも携帯電話が普及する前、人々は移動する時ぼんやり外を眺めたり、誰かと話しをしていたのではなかったか。このような劇的な行動や脳の使い方の変化は、人間の感じ方や行動に、すでに変化をもたらしているのではないか、と思う。指先と視線を少し動かすだけ、それで毎日何時間も刺激を受ける。この状態が1年、5年、10年と続いた時、脳はどのように変化していくのだろう。

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猫を見ていると、常に周りの気配を感じていることに気付く。都会で暮らす人間はそうした能力をかなり失っていると思う。太陽の高さや向き、気温、湿度、風向き、風の強さ、草木の形、匂い、飛ぶ鳥たち、・・・。今月初めに三宅島を訪れた際、島の人たちが風向きのことを話していることに気付いた。残念なことに忘れてしまったけれど、二つの方向の風には名前がついていた。島の生活で風は、人や物資を運ぶ船や飛行機の運行に密接に結びついている。

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少し古い本になるけれどハロルド・ギャティ著「自然は導く」は特別な道具を用いず、周囲の自然環境から自分の位置などを知るナチュラル・ナヴィゲーションの本。もう少し自分を取り巻く様々なことに心を開こうと思った。そしてロバート・ムーア著「トレイルズ「道」と歩くことの哲学」は自然科学から文学、人生観に至る様々な分野をまたぐ本だった。何か新しい考え方のようなものがある。
分野は異なるけれど、森田真生著「数学する身体」にも何か新しいものを感じた。こうした考え方に触れると希望を感じる。数学は苦手だった、でも素直に数学って素晴らしい、と感じたし、彼のような人が中学や高校で教えたらずいぶん違うだろう、と思う。

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2018年4月13日の日記「最近の日経新聞から」(
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-91fb.html )で触れた作曲家、望月京さんの作品を先月、演奏する機会があった。本番前、ご本人にあの新聞連載が楽しかった旨申し上げると、それらが一冊の本にまとめられたばかりと教えてくださり、さらに・・・。連載は望月さんがパリで借りた部屋の大家さんとのやりとりから始まった。この新しい本「作曲家が語る音楽と日常」もやはり、その話から始まっていて、何度読んでも楽しい。どの文章にも人間に対する共感が底にあり、そのことに僕はとても勇気づけられる。

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様々な本を読む中で、物語の魅力とは何だろう、と思う。子供の頃、話を読み聞かせてもらうことが好きだった。それは年を取っても変わらない、人間の何か深いところに根ざすものなのだろうか。
この秋の新聞書評でカナダの作家、マイケル・オンダーチェのことを知った。まず「ライオンの皮をまとって」を図書館で借りてきて読み、それから新刊の「戦火の淡き光」を読み、年越し用に「イギリス人の患者」と「名もなき人たちのテーブル」を借りてきた。読み始めた「イギリス人の患者」は「ライオンの皮をまとって」の続編であり、96年公開の映画「イングリッシュ・ペイシェント」の原作でもある。
オンダーチェの訳書は少なく、出版社も様々で、触れる機会は多くないかもしれない。知らなかった作家を知るのは素晴らしい出来事だ。本の中には経験したことのない世界が広がる。

2019年11月15日 (金)

最近の日経新聞から

新聞を読んでいると時々、素晴らしいことが書いてある記事に出会う。そうした宝物のような文章が毎日読み終えられ、おそらくは忘れられてしまうしまうことをいつもとても残念に思う。

ラグビーW杯決勝戦を控え、10月31日の日経新聞に載った『重量級対決 輝く小兵』という記事から。
『・・・H・ヤンチースも167センチながら、今年の世界最優秀若手選手候補3人に選ばれた。体格について聞かれた時の答えが振るっていた。「ラグビーはケガを恐れればケガをするし、相手が自分に突進してくると思えば本当にそうなる」・・・』

11月1日、「日本化しないドイツの幸運」というマーティン・ウルフさんの記事の冒頭から。
『「どんなに切望しても2+2は4であり、3になったり5になったりはしない。人間は現実を突きつけられて苦しむ運命にある」 ー 。
経済について考えるとき、英詩人アルフレッド・ハウスマンのこの詩を思い出すべきだ。つまり勘定尻というのは合わなければならない。問題はどうやって合わせるかだ。・・・』

連載「私の履歴書」、今月はファンケルの池森賢二さん。めっぽうおもしろく毎朝新聞の届くのが楽しみ。先月の鈴木幸一さん(IIJ)も楽しかった。10月31日の記事から
『「わたしのようなただの音楽好きの素人が音楽祭(東京・春・音楽祭)など続けられるのだろうか」とムーティさんに相談すると、「むしろそのほうがいい」という。「音楽ビジネスのプロよりも、鈴木さんのように音楽を尊敬し、愛し続けられる人が、音楽祭を発展させられる。私も応援しますよ」と。この励ましは本当に心強かった。
 ・・・・・
本業のインターネットと音楽への思いが、人生の2つの支柱である。ネットも音楽祭も頼るべき海図や先例がなく、白紙の未来を自分の力で切り開く楽しさと苦しさがともにあった。』

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11月4日に掲載された為末大さんの記事は大変興味深かった。(「スポーツが開くことばの世界」シンポジウム 基調講演)
『スポーツ選手はいろいろな経験をします。その体験を言葉にするのが、好きな選手とそうでない選手がいます。・・・
私は言葉が本当に好きです。インターネットで活字や言葉が膨大に流れるなか、一番難しくなっているのは、良い言葉やストーリーに出合うことだと思います。
 ・・・・・
言葉は世界を整理します。私は競技力を高める上で言葉はすごく影響したと思います。私は専属コーチをつけませんでした。現役の18~34歳まで自分の学習を自分で試すしかなかった。そのとき支えてくれたのが言葉でした。
ただ、スポーツでどこかに意識を置くとそこに引きずられてしまう。一番いいパフォーマンスのときは、どこにも意識が置かれていない。イメージでいうと、矢印がどこかに向いていない状態になります。その感覚は非言語的です。
プレーの最中は非言語的な世界だと思ってください。コーチングでオノマトペで表現するのはよくないと言われていましたが、最近は重要ではないかと見直されています。・・・・・
選手はトレーニングの後に反省をします。いかに正確にどんな言葉を使うかで反省の精度が変わります。・・・事実と自分の意見を分けて整理する。これができないと分析も対応策も全部ゆがんでしまいます。
 ・・・・・
良い言葉というのは、たった一言で連鎖を生んでくれる。反対に、たくさん言葉を使っても選手の動きはよくならない。・・・
・・・無意識でできたことを言語化した瞬間、下手になることがあります。言語化しないほうがいい動きもあると思いますが、言語化しないとうまくならない。このあたりは私も答えは出ていません。
自分自身を言葉で定義することも重要です。過去の出来事や失敗を言葉にできるかどうかで、選手は学んだ感触になるだけか、実質的な学びになるか、その差が分かれます。言葉にできない選手は失敗を失敗としてとらえるだけになってしまいます。』

2019年9月26日 (木)

ラグビーワールドカップ

20年前のこの時期、コンクールを受けにフランス、トゥールーズに行き、ホームステイさせてもらっていた。素敵なホストファミリーのご主人Fさんはエンジニア(トゥールーズはエアバス社など航空宇宙産業がさかん)で、アマチュアのヴァイオリニスト。
1日遠出をしよう、というのでアルビまで出かけた。アルビはトゥールーズ・ロートレックの出身地であり、もう一つ、異端とされるアルビジョワ派の討伐後に建設された大聖堂がある。その中には細かな装飾がたくさんある一方、茶色のレンガでできた外側はのっぺりとしてマッシヴ、圧倒的な大きさからは異様な感じすら受けた。
Fさん夫妻と街にいると、あの建物のあの部分は何世紀のいつ頃の様式、ここはいつ頃の様式・・・、と僕には同じように見える建物の見方を教えてくれた。トゥールーズの大きな見本市会場での骨董家具の展示にも連れて行ってくれた。3つのブースに分かれていて、一つは誰が見ても文句のない一級品のブース、もう一つには(おそらく)頑張れば手の届きそうな家具、最後の一つには何だかよくわからないもの、例えば、傷みが激しく、ほとんどすだれのようになった絨毯とか、蛇口あるいはドアの取っ手だけが集めて置かれ、そんな中にフレンチブルドッグが寝そべっていたりした。
Fさんは、自宅にあるあの家具は何世紀のいつ頃のものだから、それに合う別の家具を探しているんだ、と言っていた。日本にいては到底知ることのできない、ヨーロッパの人たちの世界の見え方を教えてくれていたのだ、と思う。ご主人の仕事のことももっと聞いておけばよかった。
そう、トゥールーズと言えば、サン=テグジュペリが定期航路のパイロットとして飛んでいたところだ。彼の書いた「人間の大地」の、定期路線にデビューする箇所は好きな文章の一つ。

『・・・僕は雨に光る歩道で小さなトランクに腰を下ろし、空港行きの路面電車を待っていた。とうとう僕の出番だった。ぼくより先に、どれだけ多くの僚友がこの神聖な一日を迎えたことだろう。いったいどれだけ多くの僚友が、いくらか胸を締め付けられる思いで、こんなふうにして路面電車を待ったことだろう。・・・
・・・トゥールーズのでこぼこの敷石の上を走るこの電車は、何だか哀れな荷馬車みたいだった。定期路線のパイロットもここでは乗客の中に埋もれてしまって、隣席の役人とほとんど見分けがつかない。少なくとも、最初のうちはそうだ。だが、立ち並ぶ街灯が後方に流れ去り、空港が近づくと、がたがた揺れる路面電車が灰色のさなぎの繭に化けるのだ。そこから、じきに蝶に変わった男が飛び出してくるだろう。
 僕の僚友の誰もが皆、一度はこんな朝を迎えたのだ。そのとき、彼らはまだ横柄な監督の指揮下にある無力な下っ端に過ぎなかったはずだが、それでも彼らは、スペインとアフリカの定期路線を背負って立つ男が自分の内部に生まれつつあるのを感じたのだ。・・・』

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ある日、一人でトゥールーズの街を歩いていたら、スポーツバーのような店からすさまじい歓声が聞こえてきて驚いたことがあった。Fさんに尋ねると、ラグビーワールドカップでフランス代表がニュージーランドに勝った、しかもフランス代表にはトゥールーズのチームから何人も入っているんだ、と教えてくれた。その時はただ、ふーんと聞いたのだけれど、今月日本でワールドカップが始まり、その熱狂が少しわかるような気がする。ルールをよく知らない僕でさえ、大きな人たちが俊敏に動き回る迫力にすっかり魅せられるもの。
調べてみた。1999年の第4回大会、準決勝でフランスはニュージーランドを破り決勝に進出。10月31日のことだ。

2019年9月18日 (水)

虫展

先月、六本木の2121デザインサイトで開かれている「虫展」へ。www.2121designsight.jp>insects

子供の頃は虫取りをした。最近はセミに触るのもおそるおそるで、虫展にも多少ためらいがあったけれど、日経新聞に養老孟司さんの記事が掲載され(本展の企画監修は養老さん)、とても興味深かったので出かけることにした。

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会場に入ってすぐ、虫の美しい標本があり、目を奪われる。想像もしなかったような様々な形、色、大きさの虫たち。
大きな部屋ではゾウムシを、工業製品のように、設計図のようにしてモニターに現していた。2センチに満たない小さなゾウムシを拡大して見たとき、人間はこれまでこんなに精緻な、動くものを作ることはできただろうか、と思った。僕は飛行機が好きで、様々な乗り物や機械、構造物に興味がある。でも目の前に示されたゾウムシはそうしたものよりずっと、バランスが取れていて美しく、機能的に見えた。素晴らしい色や形、しかもこの小さな生き物たちは意図してそれらを身につけてきたのではない。

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虫展には養老さんの言葉もたくさんある。その中から。

『生きものは三十億年の間に、ありとあらゆる問題に直面しつつ、それを解いて生き延びてきた。その解答が目の前にある。私はそう思うんですね。見ているのは問題集の答えだけです。では問題は何だったのか。そんなふうに思いながら虫を見てもらえると嬉しい。』

トンボの羽をとても大きくした展示もある。軽く強く、という要求を見事に満たした構造なのだろう、と思う。
様々な虫の跳び上がる瞬間、飛び立つ瞬間だけをスロー再生する映像があり、しばらく見入った。その後にブレイクダンスをする人間の映像があり、もちろん展示の主旨はそこにないのだけれど、大きな人間は自分の体をあまりうまくコントロールできないように見えた。(こんな書き方をしてごめんなさい)
例えば猫が高い塀を上ったり、狭い隙間を通り抜けたりするのを見て、人間は到底及ばないと思う。頭が大きくなり知能を持つようになったことと引き換えに、人間は動物のような身体能力を失ったのだろうか。

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東京に住んでいると、自然は生活から排除され、物理的にも心理的にもほとんど人間の作り出したものの中だけで生きることになる。人間の作り出したものが全て、と思い込んでいるかもしれない。
養老さんの「唯脳論」の最初にこんな文章がある。

『現代とは、要するに脳の時代である。・・・
 都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。』

養老さんがこの本を書いたとき、スマートフォンは存在していなかった。とりつかれたようにスマートフォンの小さな画面を見る、それはまさに脳の中に生きている、ということだろうか。

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東京でも秋には虫の声が聞こえる。夜散歩をしながら耳を澄ませると、日々虫の声が変化していくことを感じる。コンクリートとアスファルトに覆われたこの街で、人間の思惑と関係なく、小さな生き物たちが生きていることに少し安心する。
虫の美しい標本から、マタイ伝の中の言葉を思い出した。

『又なにゆゑ衣のことを思い煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。・・・』

2019年8月30日 (金)

最近の日経新聞から

毎朝新聞が届くのが楽しみ。
届いた日経新聞の、最初に目を通すのは最終面の連載、私の履歴書。6月は脚本家、橋田壽賀子さん。テレビドラマに興味はなかったけれど、この連載は見事だった。初日、橋田さんはご自分のことを「天涯孤独」と書き始め、最終日まですっかりひきつけられて読んだ。数々の脚本の裏側にはこんなに切実な話があったのか、と思った。
7月はゴルフの中嶋常幸さん。スランプに陥った時の記述が特に素晴らしかった。物事がうまくいっている時、本人にも理由がわかっていないことは多いと思う。中嶋さんは若手が不調を訴えた時、徹底的に苦しめと言う、と書いていたと思う。
今月はファッションデザイナーのコシノジュンコさん。子供時代、洋裁店を営む岸和田の実家の店番をしているとき、自分で作ったカバンを棚に並べて、強気の値札をつけてみた、というあたり、なるほどこういう経験がのちの仕事の核になっていくんだ、と思った。後半は、なんだか功績ばかりの記述になって・・・。

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8月下旬、スポーツの記事がおもしろい。スポーツの魅力の一つは、考えたようにはなかなかならない、ということだと思う。実際にやってみないとわからない。それはきっと音楽も同じ。

8月23日に掲載された北島康介さんの記事は、7月に行われた競泳世界選手権について、
『個人メドレー2冠の瀬戸大也はやっぱり運を持っている選手だ。これはとても重要。競ったら、最後はわずかなスキも見逃さず、勝機を味方にできる選手が勝つのだから。
 記録は良くはない。大也も「これでは五輪は駄目」と自覚している。個人メドレーは最後にへばらないようターゲットタイムを決め、ペース配分して泳ぐ種目だ。ただ、今回の大也は五輪を見越し、失速覚悟で飛ばし、どれだけやれるかを試していた。その勝負度胸にはしびれた。
 ・・・・・
 記録、競り合い共に最もハイレベルだったのは200メートル平泳ぎ。前世界記録保持者の渡辺一平は目前で記録を破られ3位。一平は今まで決勝でタイムを落としたけれど、今回は記録をあげていたいいレースだった。がぜんやる気が出る負けだったと思う。
 ・・・・・
 日本は好成績を出して五輪に向けて勢いづきたかっただろうけど、結果が芳しくない方がいい時もある。すべきことが明確になるからだ。 頑張って記録を伸ばせ。今大会を見た限り、五輪での勝機はまだ十分あると思う。』

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8月27日に掲載された小久保裕紀さんの記事から、
『勝負どころで決められたのは緊張をコントロールする極意のおかげだった。5秒ほどぐっとバットを握りしめて、緩める。止まっていた血が再び流れるのを手のひらで感じ「よし、いつも通りの自分だ」と確認する。この手順を踏めば、緊張しながらも我を失わず、打席に入れるのだった。
 もちろん、一朝一夕に身についたものではない。むしろ、自分でも情けないほど好機に弱い時期があった。・・・・・
 日本屈指のメンタルトレーニングの先生の門をたたくと、まず「緊張するのは悪いことではありません」と言われた。人は緊張するから力が出せるし、大舞台で仕事ができる。要はその緊張を制御すること、といわれて取り入れたのが、バットを強く握って緩める方法だった。
 同様に、歯をくいしばって緩める、腹筋に力を入れて緩める、ぎゅっと手を握って緩めるという、緊張とリラックスの切り替えを寝る前、起床後に毎日繰り返した。そのうち脳に新たな回路ができ、意識的に緊張を制御できるようになる、というのが先生の教え。その通りになったのだ。』

昨日8月29日に掲載された権藤博さんの記事から、
『・・・監督とコーチはやらせてみないとわからない、というのが私の持論。
 ・・・・・
 元木で思い出すのは、守備のときに、いつも隠し球を狙っていたこと。とにかく油断ならず、目が離せなかった。
 外野から返った球を持ち、ぷらぷらとベースに戻ってくる。常に同じ顔、同じペースというのがミソで「腹に一物」の気配がない。だから、やられる。私はその手口を知っていたから、常に警戒し、グラブに球を入れたままにしているのを見つけては「もときーっ」とベンチから叫んだものだった。
 隠し球も野球センスの塊だからできる芸当。そんな元木には珍しく、「ゴー」のタイミングなのに、走者を三塁で止めたことがあった。
 「あれは『ゴー』だろ」と私は言った。するとあっさり「はい、あれはミスでした」。その素直さに感心した。「いや、走者が」とか、言い訳するのが普通で、自分の非を認めるコーチには会ったことがない。これはいずれすごい指導者になるかも・・・・・。』

2019年7月20日 (土)

最近読んだ本から

しばらく前に2年がかりで読み終えたのは平家物語。岩波文庫版で4分冊、僕の浅い理解で、ものすごく大まかに言うと、最初の2冊は平家の世、後半2冊は流れが源氏に移っていく。最初はなかなか読み進めず、何ヶ月も中断していることもあったけれど、後半は合戦が多く、知っている地名も次々と出てきて、毎晩眠る前に少しずつ読むのが日課になった。文章に何かのリズムがあり、それが心地よい。
人の生き死に、誇り、おごり、見栄、恐れ、恩愛、別れ、出家、嘆願、ねたみ、・・・、そうした様々なことに一つ一つ心を動かされた。細部の描写と同時に、平氏から源氏へと流れが移っていく大きな動きも見えて、見事だと思った。作者不詳。琵琶法師たちがこの物語を各地で諳んじて語ったのだろうか。

昨日読み終えたのは釈宗演著「禅海一瀾講話」。図書館で借りて読み始め、この本は必ず読み返すことになる、と思い書店に行った。七百ページを越える分厚い本はどうにも持ち歩きにくく、非常に行儀が悪いのだけれど、半分あたりで分けてしまい、自分で表紙をつけた。

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どれほど理解したか、はなはだ怪しいけれど、釈宗演さんの語り口に触れているだけで十分と感じたし、ちんぷんかんぷんだった仏教書、例えば臨済録について、あぁそういうことなのかもしれない、と感じることがあった。先日のヨーロッパにもこの本を持っていき、飛行機の狭い座席に辛抱ならなくなったとき、機体後部、トイレ前のわずかなスペースに立って、読み進んだ。その時読んだ部分はとても印象的だった。

『・・・凡そ「大道」を知ろうというには須く「見性」しなければ話が出来ない。心を見るということが出来なければいかぬ。これは禅宗の本旨でありますが、世間的に言うと中々注目すべき文字でありましょう。心を知るとか、心を究むるとか、心を学ぶとかいうことは言うであろうが、「見性」というて、物質を手に乗せてアリアリと見るが如くに我が心を見るのが「見性」で、『血脈論』には「若し仏をもとめんと欲せば須く見性すべし」とある。また、「菩薩の人は眼に仏性を見る」などともある。こういうことは出来得られないと思うのは、我々が意識的に考えて居るので、モウ一層その上に出て来ると、この物質を見る如く明らかに見ることが出来る。大乗仏教の本領、禅宗の真髄はそこにある。』

今年の前半、この2つの本を読めたことは本当に素晴らしかった。得がたい経験だったと思う。
こうして古い本ばかり読むのは、まぁ僕が古くさい人間だということだろうし、それ以上に、昔の人の方が、人間というものについてよく知っていたのでは、と思うことがあるから。技術が進んだ現代、人々は自分たちついて本当によくわかっているのだろうか、現代人の心や体の使い方は本当にこれでいいのだろうか、と常々疑問に思う。スマートフォンはおろか、車も電気もなかった時代、人間と人間は生身でやりとりするしかほぼ方法がなかった時代、人々はどのように生きていたのだろう。

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少し前、書店でたまたま見つけ、それがとても幸せな出会いだったのが、V.S.ナイポール著「ミゲル・ストリート」。書いてあることは実際に起きたことなのか、それとも作者のファンタジーなのか、両方の混合なのか・・・。こんなに自由に生きていいんだ、と思った。
今読んでいるのはJ.M.シング著「アラン島」。確か読んだような気もするのだけれど。こうして始まる冒頭から素晴らしい。旅に出たくなる。

『僕はアランモアにいる。暖炉にくべた泥炭の火にあたりながら、僕の部屋の階下にあるちっぽけなパブからたちのぼってくるゲール語のざわめきに、耳を澄ませているところだ。・・・』

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