8月
今月、1995年に製作された番組「映像の世紀」がまとめて放映され(https://www.nhk.jp/p/ts/BPWL46L6R2/)、いくつも観た。映像の持つ力は圧倒的で、特に第1次、第2次世界大戦を映したものには、胸がつぶれるようだった。
今の我々は、その年その国がどのような状況で、次の年にはどのようになり、どの戦いがターニングポイントで、どのようなことが起こり、いつ終わったのか、知っている。ではもし自分が1945年初めの東京にいて、空襲を生き延びていたとして、8月に戦争が終わることを予見できただろうか。大きな戦争とウィルスの感染拡大を比べることはできないけれど、経験のないことに直面している、ということでは似ていると思う。世界が同時に同じ感染症にさいなまれている、という事態は、これまでなかった。
渦中にいることの難しさは、今出来事のどこにいるのか見えにくい、ということではないだろうか。2021年8月は長く続く感染のほんの入り口なのか、あるいはそろそろ中程なのか、あるいは間もなく収束するのか。
昨年の夏、2021年にワクチンが普及するだろう、とは思っていた。でも接種率の高い国で再び感染が拡大することは予想できなかった。困難な状況だと思う。
経済力のある国でワクチンが普及し感染が抑えられても、他の国で感染が広がり、さらに強力な変異種が出現し・・・、いたちごっこが続くのだろうか。いつまでも経済を止めておくわけにいかないから、イギリスのように活動を再開するのか、それともオーストラリアのように少しの感染者が出ても厳しい措置を取るのか。ワクチンを毎年打つことになっても、副反応を辛く感じ、次の接種を拒否する人々が出てくるかもしれない。
世界中でそれぞれの状況が同時進行し、様々なことが行われたり行われなかったりしている。10年くらいたったら、その時どんな行動を取るべきだったのか、見えているのかもしれない。
どうしても人は目の前のことに左右されてしまう。人間の活動量が巨大になった現在、感染症に関しても、おそらく気候変動や環境問題に関しても、行くこともない遠くのどこか、会ったこともない誰かに思いをはせることが重要なことに思える。星野道夫さんの文章を思い出す。
『ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。』(星野道夫著「旅をする木」から)
マーラーの交響曲第9番を聴いている。最後に弾いてから4年たち、いい曲と感じるようになった。休みの日にオーケストラの曲を聴く、なんて以前には考えられなかったことだ。仕事上の必要ではなく、いったい何が書いてあるのだろう、という純粋な興味からスコアを開いている。
6番の交響曲以降、どうしてこの人はこんなに難解になってしまったのか、とずっと思っていた。今は少し共感できるような気がする。マーラーさん、確かに現実は多くのことが複雑に入り組み、混沌として、道筋は見出しにくいです。でも思いもしない時に素晴らしい何かが現れることもありますね、と思う。