音楽

2017年8月25日 (金)

今週の松本はBプログラムに小澤さんの指揮でレオノーレの3番がある。
先週のマーラー9番は演奏時間一時間半ほど、でも結局あっという間に最後の和音を弾いていた。必ずしも時計が刻むようには時は流れないようだ。今週のレオノーレはおよそ15分、その時間はとても密度が濃い。言葉ではうまく言えないけれど、手に取ることができるような何かがある。

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プログラムの後半はシュトゥッツマンの指揮でマーラーの歌曲とドヴォルザークの交響曲。今週はチェロの場所が外側になり、管楽器がよく見える。言うまでもなく彼らの演奏は素晴らしい。溶けるような音色、彫りの深さ、飛び立つような自由、そうしたものは愛するものを慈しむような演奏から出てくることがよくわかる。僕たちもその中に誘い込まれるようだ。

2017年8月21日 (月)

昨日がファビオ・ルイージが指揮するマーラー9番、2回目の本番。本当になんという曲だったのだろう。あまり経験しない、ずっしりとした重さを感じていた。でも演奏会が終わった今、当分この曲を弾かないことをさみしく思う。

本番の舞台ではいつも、気が付くと終楽章の入り口にいた。それまでにずいぶんたくさんの難しいことを、おそらく一時間は弾いたはずなのに、その時間は飛び越えて終楽章の入り口にいる。
そしてやはりこの曲は終楽章なのだな、と思う。あんなに素晴らしい冒頭のヴァイオリンを聴ける機会はそうない。後半、多くの楽器と一緒に旋律を弾くとき、あたたかい光に包まれる。その時、あぁこの曲はこの人の最後の・・・、と胸がいっぱいになる。(その感じはブルックナーのやはり9番の終楽章で感じるものと同じだった)
ニ長調で始まる第一楽章は霊感にあふれ、提示部も再現部も比類ない美しさだ。その音楽は様々な道をたどり、変ニ長調で終わる。人間の創造の可能性と、素晴らしい演奏家たちの可能性に触れた一週間だった。

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今日は少し譜読みをしてから大糸線に乗った。毎年のように出かける中綱湖、木崎湖へ。草の匂い、鏡のようにないだ湖面に映る山、その湖面に魚たちの波紋が広がる。張った気持ちが溶けていくようだった。

2017年7月11日 (火)

7月10日都響定期演奏会のメインはブルックナーの3番。これまで弾いたことのない1873年版(初稿)で、きっと演奏されることは多くないと思う。冗長に感じられたり、この書き方は上手いとは言えない、という箇所はあったけれど、良い意味でプリミティブで、ブルックナーがどんな人だったのか感じられるような気がした。

第2楽章で次のフレーズの前にチェロのトリルだけが残るところがある。その後すぐにコントラバスだけのトリルもある。そこに来るとシューベルトの最後のピアノソナタを思い出す。変ロ長調D960のソナタには、美しい旋律の合間に、その美しさにぶつぶつ不平を言うような低音のトリルがある。
そして交響曲の終楽章の終わりの方にそれまでの楽章を回想するところがあり、木管楽器が吹く旋律が、どうしてもシューベルトの子守歌に聞こえてしまう。

指揮はマルク・ミンコフスキ。およそコンパクトとは言えないこの曲が長く感じられなかった。終始にこやかに、しかも集中は途切れずに。
それにしても第1ヴァイオリンの音符の密度と量は大変なものだ。あの人たちの仕事ぶりには頭が下がるばかりだった。

2017年6月17日 (土)

昨日はJTアートホールで向山佳絵子さんを中心としたチェロアンサンブル。4年ぶりの演奏会は、何だか夢のようで、あっという間に終わってしまった。

95年に始まったこの公演は、僕にとって大きなものだった。素晴らしい人たちに混じって弾かせてもらう機会は何より得難いものだった。力不足だったり、周りが見えていなかったり、そういうことは多々あったと思う。
久しぶりに個性豊かな12人が集まると、やはりにぎやかで、楽しい時間が戻ってきた。20年以上たっても変わらず楽しくなる人たちを選んだ向山さんにはただただ感服する。そしてこの12人の中に入れてもらった幸運に感謝するしかない。

以前よりずっと、それぞれの人たちのそれぞれの素晴らしさを感じた。様々な音楽の方向があり、それぞれにいぶし銀のような仕事の仕方があることが、間近で接して、ひしひしと伝わってきた。そんな中で弾ける時間は密度が濃く、幸せだった。

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2017年4月24日 (月)

先週先々週と、都響にはアラン・ギルバートが来ていた。昨日一昨日はベートーヴェンプログラム。
「英雄」を弾きながら、30歳を過ぎて初めてこの曲を弾いた時のこと、試用期間が始まる前の新日フィルで、小澤さんの指揮で7公演のツアーを回ったことなどを思い出した。
アランの指揮はよく練られた中に即興性を持ったものだった。今の僕は以前よりはるかに曲の重さを感じる。ベートーヴェン渾身の、驚くべき革命的な音楽だったのだと思う。演奏の度に僕たちはその世界を旅していく、ということだろうか。人間にこんな曲が書けたことは信じられない。便利に快適に生きる現代の人間にはもはや不可能なことでは、と思う。

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プログラムの前半はイノン・バルナタンのソロでラフマニノフの狂詩曲。彼の素晴らしい集中力は、こちらまで楽しくなるようだった。
昨日は大阪公演。街に着くと東京とは別の国にすら感じる。街の人たちも聴衆も明るかった。もう一つ、新幹線の弁当売り場、東京より大阪の方が安く品揃えも豊富に感じたのは気のせいか。

2017年3月21日 (火)

今日の東京文化会館公演で、3公演続いた大野和士さん指揮のブラームスプログラム(ニ短調のピアノ協奏曲とホ短調の交響曲、ソリストはシュテファン・ブラダー)は終わり。ずしりとしたプログラムの期間中、様々な思いが去来した。

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2017年2月27日 (月)

昨日までの3週間、都響にはダニエーレ・ルスティオーニが来ていた。プッチーニのオペラ「トスカ」が4公演、それから昨日の幻想交響曲。
とにかく元気で声も大きく、表現も大きく、指揮台の上で跳び跳ねる。本番中の集中力は見事だった。一方、実に人間くさく人懐っこく、君はそこでにこにこしていさえしてくれたら良い、とも思った。彼の朗らかな笑顔を見ていると、もっと人間はシンプルに喜び悲しみ、生きればよいのだ、と思った。33歳、うらやましい。

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東京文化会館の地下には様々な団体の落書きがある。オーケストラピットの通路にも。

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2016年12月15日 (木)

一昨日、昨日の都響定期演奏会はヤクブ・フルシャ指揮で、ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲とマーラー「巨人」。

ヴァイオリンのソロはチェコのヨゼフ・シュパチェク。アンコールに弾いたイザイも含め切れ味鋭く爽快、見事な演奏だった。経歴を見るとジュリアード、カーティスで学んだとある。なるほどヨーロッパとアメリカのいいところを両方持っている、ということだろうか。
とにかく舞台に現れる時も弾き終わった時もにこにこと楽しそうだった。フルシャもそうだし、チェロのケラスもそうだった、皆ぴりぴりした感じがなく、朗らかにしている。これが彼らの素晴らしさの秘訣かもしれない。(ドヴォルザークが終わった後、都響の何人かで、我々もたとえ中身が伴わなくても、笑うことから始めてみようか、と笑った)

フルシャを見ていて感じるのは誠実さとか気高さだ。今の時代、触れることが難しく、そして最も必要とされていることだと思う。シュパチェクのような笑顔もそうだ。
フルシャの話す英語は明晰。それが一転、シュパチェクと話す時は、僕にはわからないけれどあれがチェコ語だろう、とても親密な感じになる。

これまで「巨人」は何度も弾いてきた。でも昨日の演奏はきっと忘れられないものになる。

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2016年11月20日 (日)

人間の持つ素晴らしい可能性を

一昨日仙川へ。散髪の前に学生時代から通うとんかつ屋に入り、置いてある読売新聞夕刊を開いたら、荘子の言葉が飛び込んできた。荘子は最近読み返したのに、その言葉はまったく記憶になかった。やれやれ。紹介されていたのは王帝王篇の中から。

『至人の心を用うることは鏡のごとし。将(送)らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物にたえて傷なわず。』

以前読み返した時、強く印象に残ったのは大宗師篇、坐忘の章といわれる部分。

『・・・復た見えて曰く、回は益せりと。曰く、何の謂いぞやと。曰く、回は坐忘せりと。仲尼しゅくぜんとして曰く、何をか坐忘と謂うと。顔回曰く、枝体を堕ち聡明をしりぞけ、形を離れ知を去りて、大通に同ず、此れを坐忘と謂うと。』

高校生の時、背伸びをしていろいろな本を読んだ。結局その時は?、という感じで読んでいたのだと思う。今になってそれらの言葉が生き生きと迫ってくる。昔の人たちは本当にすごいと思う。僕がじたばたすることは何もない。

そして、一昨日のとんかつ屋ではとてもうれしいことがあった。

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昨日の都響定期演奏会のソリストは庄司紗矢香さんでデュティーユのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」。この曲を書いたデュティーユにも、演奏した庄司さんにも、人間の持つ素晴らしい可能性を感じた。

2016年11月16日 (水)

「シーモアさんと、大人のための人生入門」

先日観たのは映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」(Seymour an introduction) http://www.uplink.co.jp/seymour/

ピアニスト、シーモア・バーンスタインのドキュメンタリー。映画館を出たら、世界は違って見えた。
シーモアさんのいくつも印象深い言葉があり、それらはこれから様々な折りに思い出し、いったいどんなことを彼は言おうとしたのだろう、と考えることになると思う。音楽をする自分と、普段の生活をする自分と、その二つをどのように調和させるか、これは映画の大きな主題の一つではなかったかと思う。心が開かれるようだった。
さほど音楽に関心がない人が観ても美しい映画だろうと思う。もし演ずることを職業とする人が観たら、きっと深く心に届く言葉があると思う。

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