音楽

2020年1月22日 (水)

上を向いて

この前がいつだったか思い出せないくらい久しぶりに、サントリーホールに演奏会を聴きに出かけた。
客席にはこんなにたくさん人がいるんだな、と驚く間もなく、オーケストラが舞台に入り、スティーヴン・イッサーリスが現れて、エルガーの協奏曲が始まった。

ずいぶん以前、やはりサントリーホールでイッサーリスの弾くエルガーを聴いた。指揮は同じく尾高忠明さん、オーケストラはBBCウェールズだった。2階席にいた僕には、彼の透明な音はなかなか届かず、あぁガット弦の音色は、スチール弦を使うオーケストラに埋もれてしまう、と思った。ただ、あそこではどんな音がしているんだろう、と想像をかきたてられた。
昨日は最初の音からすぐひきこまれ、何かを早回ししているような不思議な感覚で、あっという間に終わっていた。30分かかるはずが、何分もたっていないようだった。
音は表情にあふれ、音楽は情熱的、大阪フィルと尾高さんのサポートも素晴らしく、曲の構造が浮き立ってくるようだった。1階の中ほどに座っていた僕には充分伝わってきたけれど、2階席の人は、耳が慣れてきたら・・・、と言っていたから、場所の影響はあるのかもしれない。

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日曜日にイッサーリスのレッスンが東京芸大であり、しきりに上を向けと言っていた、ということは聞いていた。彼がそう弾くのは知っていたけれど、やはりどんな音程の跳躍でも指板を見ることはなかった。心と体が開いていることがよくわかる。躊躇なく弾き始める感じもすごく好きだ。

聴衆にはエルガーの熱演より、アンコールの「鳥の歌」の方が喜ばれているようだった。鳥の歌はイ短調、と染みついているから、前奏がソで始まったとき、一瞬何が起きているのかわからなかった。確かにこの調性なら和音を付けやすい。
彼の音楽から受けたものを、そっくりそのまま持って帰りたいと思った。

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チェロや心、体にどのようにアプローチすることが、音楽の自然な流れを生むのか、今日は休みだけれど寝坊せず、午前中からいろいろ試してみた。まず上を向いて、指板を見ないで。

2020年1月19日 (日)

変奏曲

1月16日の都響定期演奏会のソリストはヨルゲン・ファン・ライエンで、マクミランのトロンボーン協奏曲。超絶技巧や大音量は予想できたけれど、彼の出す音には不思議な魅力があった。なんだろう。技術的にどうやって音を出しているか、ということより、彼が持っている音に対しての感覚に魅力を感じた。最初のリハーサルの後、その感覚を自分のチェロに置き換えたらどういうことになるんだろう、とこっそりさらってみた。
指揮のブラビンスはいつも穏やかで、自信に満ちていてるように見える。彼が指揮台に立っているとオーケストラが落ち着く気がする。(まっすぐ立つ、肩に力が入らない、長くしゃべらない、・・・、そうしたことは指揮者にとってものすごく大切な要件だと思うけれど、音楽大学の指揮科で教えるのかしら)
この演奏会のメインはエルガーのエニグマ変奏曲。ブラビンスはいくつかの変奏について説明してくれた。今ひとつつかみにくい曲と思っていたけれど、説明があるとぐっと近くなってくる。それぞれの変奏には特定の人物があてられていること、その中のある人の子孫と、ブラビンスは子供の頃友達だったこと、そのことがほんの2年前にわかったこと・・・。ここには書かないけれど、戯画的な描写もあるようだ。
昨年秋、立教大学のオーケストラを尾高忠明さんが指揮をした。その時のアンコールはエニグマから、有名なニムロッド。尾高さんは、エルガーの音楽では7度音程の跳躍が大切であり、しかもニムロッドでは下降型で使われていることが特徴的、という話をした。それはすとんと腑に落ちるものだった。チェロ協奏曲の第3、4楽章、感情の高まるところで何度も7度の跳躍が出てくる。ただし、こちらは上行型。
その話を思い出しながらエニグマを弾くと、そこここに7度の下降音型が見つかる。わずかな説明のおかげで、音楽がよく見通せるようだった。

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今日19日は長尾洋史さんの演奏会でバッハのゴルトベルク変奏曲。何度も何度もCDを聴いた曲、でも実際に聴くのは初めてだったかもしれない。
僕の席からは長尾さんの両手が見え、耳では知っていた音楽が、左手と右手、そのように声部がわかれているんですね、ととても興味深かった。もともと鍵盤が2段ある楽器のために書かれているから、ピアノで弾くと手が交差して、という話は以前に伺っていた。弦楽三重奏にアレンジされた楽譜があり、しばしば演奏されることは知っていたけれど、確かに楽器を分けて弾いてみたくなる、と思った。
長尾さんの演奏には甘さがなく、がっしりとして、曲の構成がよく伝わってくるようだった。
それにしても、これだけのフレーズを書いたバッハの豊かさに驚かされる。チェロ組曲、ヴァイオリンの無伴奏作品、様々な協奏曲、・・・、ソナタ形式という便利なものがなかった時代に、信じられないくらいの量の、生命力にあふれたな音楽を生み出した。

長尾さんのプログラムノートから、

『ちなみに鍵盤上の困難(何しろ1段しか鍵盤がないので両手の交差はチェンバロより難しくなる)に関してはいろいろな対処法がある。ご希望があればいくらでもお教えする。

・・・私は弾き手の皆様にゴルトベルクを弾くことをおすすめする。誰に聴かせるのでもなく、聴き手は自分ひとり。音の縦の重なり、横の連なり、斜めのやりとりに耳を傾ける。そしてなんとか30の変奏を弾き通した後に、再び、、、。・・・

・・・この曲をできれば「楽譜を見ながら」聴くことをおすすめする。アリアのメロディーが耳に残る先から繰り広げられる30もの変奏の構成、書法の驚くべき綿密さ、緻密さ、見事さ、と楽譜を通して向き合うことは、それこそ難解なパズルを解くのと同じような高度な脳トレになるだろう。そして同時にそこにはまぎれもない、耳の、そして心の愉楽がある。・・・』

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帰宅して夜、NHK-FMで東京都交響楽団の昨年11月の演奏会を聴いた。先週と今週の2回に分けて、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフ、チャイコフスキーのプログラムが放送された。
7時のニュースの後の音楽番組は日常的によく聞いているけれど、そこに自分の所属するオーケストラの演奏が流れるというのはちょっと不思議な感じだ。それより何より、演奏がまずいとまずいなぁ・・・、と思っていた。いろいろ反省点はあるけれど、ひとまず・・・。
ところでインバルさん、やはりいくらなんでもロメオとジュリエットや1812のテンポは速すぎはしませんか?

2019年11月11日 (月)

金属や木の中で その1

今年の夏、半分屋外のようなところで弾く機会があり、何年ぶりかでガット弦を外してスチール弦にした。空調の効き方で調弦がしょっちゅう狂うことに我慢ならなくなった、というもう一つの理由もあった。これまで何年も気にせず過ごしてきたのに、なぜだろう。
遠くない前にも一度、スピロコアを張ってみたことがある。わかってはいたけれど耳元であのじゃりじゃりした音がすることに耐えられず、1時間と経たないうちに外してしまった。
久しぶりに体験するスピロコアには様々な発見があった。一番驚いたのは、音を出す時のポイントがないこと。弓のテンションを少しかけると、いつの間にか音が出る。弓が滑っていってしまう、というのか。子供の頃から何十年も使ったのに、そんな大事なことに初めて気がついた。もう一つは、やはりあのじゃりじゃりした感じ。ものすごくたくさんの倍音が鳴るので、基音を感じることが難しい。ジャングルに踏み込んだら(入ったことはないけれど)背の低い茂みやら、草やら、落ち葉や何やらで地面がまったく見えない感じ。オーケストラを客席で聞いていると、低弦楽器の金属弦特有の倍音がよく聞こえてくる。あれがないと輪郭がぼやけて、多くの音の中からバスパートが聞こえにくいのは確か。でも基音が聞こえづらいことをいつも残念に思う。
学生の頃、Y先生門下の先輩がレッスンの時、開放弦を弾いて、少なくとも8つの音を聴くように言われた、という話しを聞き、不思議な先生だ、と思った。今はよくわかる。本当にたくさんの音が鳴っているもの。
そしてやはり不思議だったのは、あんなにうるさかった倍音が、1ヶ月くらいすると突然無くなること。11月になって気温が下がり、やかましいくらい鳴いていた虫たちの声がぐっと減ってさみしくなる、それに似た感じがした。あの倍音がなくなると、うって変わったように暗い音色の弦になる。

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下2本をスピロコアにしたのと同じ頃、上にラーセンを張ってみた。わざわざ書くことは何もない、今のスタンダードの組み合わせだと思う。でも僕にはとても新鮮だった。強く、つぶれにくい上に、ラーセンの方が響きがつながりやすい気がした。扱いやすい。都響に来る様々なソリスト、CDなどで聴く様々な演奏も、この音色で弾いているのがわかる。素晴らしいのだけれど、均質過ぎる気もしてきて、ちょっと飽きてくる。
弦メーカーはそれぞれのウェブサイトで製品の張力を発表していて、なかなか興味深い。驚いたのは同じミディアムで比べるとラーセンよりヤーガーの方が強いこと、本当だろうか。計測の条件が違うのかもしれない。

湿度の高かった8月が過ぎ、9月も終わりになって、懐かしいオイドクサに戻した。スチール弦の後で力がなくてがっかりするかな、と思ったらそんなことはない。むしろ下の倍音は伸びている気がするし、音色も豊富、そして音を出すときの点が非常に明確。ここが気持ちいいんだな、とわかる(扱いに慣れがいるから人にはあまりすすめない・・・)。そして、やはり扱いに繊細さが必要なヤーガーを張ったら、あぁ、こういう良さがあった、と感じた。直接出ている音以外のどこかで楽器が鳴る。なるほどこれか、と思う。もしかしてこちらの音の方が通るかもしれない。

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いつものセッティングに戻って落ち着き、これまで以上に特徴がわかる。でもあまり使わない弦を張っている期間も楽しく、たくさんのことを感じた。道具の優劣を判断するのではなく、使っているものの性格をよくわかって使うことが大切なのだと思う。それは楽器でも弓でも自分でもきっと同じだ。
四半世紀以上前、桐朋にアンナー・ビルスマが来てレッスンを受けたことがあった。彼が僕のチェロでロココのテーマを弾いてくれた時、自分の楽器が底までしっかり鳴っている、と驚いた。このチェロはこういう風に鳴るんだ、と思った。それは特別大きいとか、強いとか、美しい、とかそういうことではなく、楽器本来の音が出ている、という感じだった。彼は骨太で大柄、右手も左手も弦の真上から、そういう弾き方だったと思う。おそらく、裸ガットを弾くためにはそれしか方法が無いのだと思う。スチール弦はひねってもねじっても、斜めから弾いても音が出るから、便利で易しいけれど、もしかしてきちんとした弾き方を身につけるには遠回りなのかもしれない。

2019年9月 3日 (火)

「ざらざらした」

不思議なほど涼しかった7月、ラジオから流れたビル・エヴァンス・トリオの'Some Other Time'が忘れられず、CDを求め、この夏は毎日ビル・エヴァンスを聞いていた。

お盆の頃、映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」を観に行った(evans.movie.onlyherts.co.jp) 。うまく言えないけれど、素晴らしい映画だった。劇的な人生、世間的な幸福というものとは遠かった人なのかもしれない。映画が終わって我に返り、家に帰る、その時静かな夜であってほしい、と思うことがある。そんな映画だった。ビル・エヴァンスを知る人々が口をそろえて言う彼の美質は音色、リリカルな演奏だった。もう一つ、何度も聞きたくなる彼の演奏の心地良さは、揺るがない強靱なテンポ感から来ているのでは、と思う。

残念ながら8月は暑く、そして9月になった。greendayの'wake me up when september ends'を聞く季節になった。

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9月3,4日の都響定期演奏会は大野和士さんの指揮でブルックナーの9番。ニ短調で始まる冒頭は暗い。大野さんは冒頭のトレモロを、変ホ長調で柔らかく始まる4番とは違い、「ざらざらした感じ」で弾くよう求めた。なるほど、と思った。
未完の9番は第3楽章まで作曲された。その楽章の冒頭には、ヴァイオリンのG線のハイポジションの音色を見事に使った、印象的な音程の跳躍がある。それはマーラーの9番の第3楽章の冒頭を思い起こさせるけれど、10年以上先に書かれたブルックナーの方が、調性という観点から言うと、遙かにシェーンベルクの世界に近い、という大野さんの話も興味深かった。9番の交響曲、少し耳を澄ますと、すごく変わった音の並びがたくさんあることに気付く。
3日目のリハーサルで、終楽章の後半にヴィオラがシンコペーションのリズムを弾くことに気付いた。今日の本番では第1楽章にもあるように聞こえた。他のブルックナーでどこかのパートがこのようなシンコペーションを受け持つことはあっただろうか。

プログラムの前半はベルクのヴァイオリン協奏曲。シェーンベルクやペンデレツキの協奏曲で苦労した今年、久しぶりに弾くベルクは、シンプルで美しい曲に聞こえる。ソリストはヴェロニカ・エーベルレ。前回来た時はベートーヴェンの協奏曲だった。その時は終楽章の速いテンポが印象的で、ドライな演奏をする人だな、と思った。今回はずっとつややかで美しい。(2017年11月9日の日記、「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲」をご覧下さい。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-dd77.html)
この協奏曲、ソロのヴァイオリンが高いソの音を長く伸ばし、そこにオーケストラの様々な楽器の音が重なって終わる。音が重なった時の響きを聞いて、武満徹さんのようだと感じた。もちろん、武満さんの方がずっと後なのだけれど。

2019年7月28日 (日)

ブルックナーの4番

7月24,25日の都響定期演奏会はアラン・ギルバート指揮でブルックナーの交響曲第4番など。
以前知人が、この交響曲の四分音符二つと三連音符からなる主題は、手稿譜では五連符で書いてある、と教えてくれたことがある。二連と三連のリズムをはっきり分けるのではなく、五連符のように、少し曖昧に感じることが作曲者の最初の意図に近いのだろうか。でもこの二連と三連の組み合わせは、性格は違うけれど、やはり一度聞いたら忘れられない第3楽章のホルンのモチーフを構成してもいる・・・。さらに言うと、この組み合わせは3番の交響曲にすでに使われていて、でも4番の方がはるかに伸びやかに感じられる。

4番の大きな特徴は、ヴィオラの活躍だ。金管楽器のコラールとヴィオラの四分音符が絡む部分はかなり長く続く。この交響曲の最も美しい箇所の一つだと思う(チェロはその間ずっと休み)。この仕事の期間中、折りにふれてスコアを見ていた。そのヴィオラの旋律は、時として下の音域はファゴット、上はクラリネットで補うように書いてある。そのことを知って、自分の席で改めて聞いても、木管がヴィオラを補強しているようには聞こえず、金管の響きの中に、ヴィオラの弦の倍音が浮き上がるようにしか聞こえない。ファゴットもクラリネットも金管のすぐ前で吹いているので、自然にブレンドされて、直接音としては聞こえてこないのだろうか。

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そしてブルックナーと言えば何と言っても(弦楽器奏者にとって)、延々と続くトレモロだ。ただし、3番ではさほど使われておらず、本格的な使用は4番から。
新日フィルにいたとき、ハウシルトという職人肌の指揮者でブルックナーの7番を弾いた。ハウシルトはトレモロを、弦楽器奏者それぞれが違う弓のストローク、速さ、リズムで弾くよう求めた。人間は不思議なもので、隣の人と違うリズムで弾くことは難しいことがある(そうでないこともある)。トレモロのリズムが自然と同調するのはそういうことだろう、と思う。彼はあえてそうでないやり方を求めた。皆が同じようにきざむと十分にトレモロの効果が出ない、ということだ。
(ところで、職人肌と言ったら怒られるかもしれないけれど、しばらく前に放映された「N響伝説の名演」という番組の冒頭は、H.シュタインの指揮する運命だった。僕の興味はその後に放送されたガスパール・カサド(驚くほど情熱的で素晴らしいハイドンの協奏曲だった)やフルニエ、シェリングだったのだけれど、その運命が素晴らしくて耳と目を奪われた。90年代前半の収録。2019年現在、こういう熱さを僕たちは持っているだろうか。そのオーケストラの熱さを見事に引き出していたのはシュタインの、決して拍を直線的には強く出さない指揮だったと思う。あの曲はどうしてもオーケストラが硬くなるから、そこに硬い棒だとさらに両者硬くなってどうしようもなくなる。素晴らしいと思った。僕もこういう指揮で運命を弾いてみたいと思った。やわらかく、しかも音楽がこれから進む方向を見事に示していた)

20年くらい前、確かリンドベルイというフィンランドの作曲家の、同じ拍の中に様々な楽器で9連符、10連符、11連符、・・・、と異なる音価を重ねる曲を聞いたことがある。それはそれは不思議な、音のにじむような感じだった。
ブルックナーのトレモロは自然と16分音符、32分音符、・・・というように2の倍数で弾いてしまうと思う。ある程度の人数の奏者がや5や7、11の倍数で弾いたら、どうなるのだろう。たとえピアニシモでも、ぶわっとふくらむような感じがより出るのではないだろうか。
2日目のサントリーホールでのゲネプロ、アランが冒頭のトレモロを始める前に大きく呼吸をとって、と言った。本番の舞台で音が出る前の、なんと言ったらいいのだろう、オーケストラ全体が音もなく呼吸する瞬間というのか、大きな船が静かに岸壁を離れて出航する瞬間のような、あの空気感は、もしかしてあの日の演奏会の中の白眉だったのかもしれない。

2019年7月13日 (土)

ペンデレツキ

少し前のことになるけれど、6月25日の都響定期演奏会はクシシュトフ・ペンデレツキの指揮で、彼のヴァイオリン協奏曲第2番とベートーヴェンの交響曲第7番など。ソリストは庄司紗矢香さんだった。

前回ペンデレツキが都響に来たのはもうずいぶん前。笑顔を見せることはあまりなく、自作のチェロソロの作品の楽譜にサインを求めると、面倒くさそうにぐぎぐぎ、と書いてくれた。左手で指揮をするので、3拍子の2拍目や、4拍子の3拍目がいつもと逆向きに手が動いたことを覚えている。簡単に言うとあまりフレンドリーではなかった。

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今年86歳。アシスタントを連れてきていて、込み入った譜割りのヴァイオリン協奏曲の、何度やってもカオスになってしまうところは、彼が振ってくれたりした。(初日に彼がざっと交通整理をしてくれていたら、ずいぶん見通しのいい演奏会になっただろう、と思う)失礼を承知で言うと、特に早いテンポの時、指揮の動きと要求されるテンポ感に開きがあり、何度か練習してわかっているつもりでも、やはり難しかった。音量のバランスの指示も時々、はて?と思うことがあった。

そのような中、はっとさせられたのは、オーケストラがただ音符を弾いているような時は、もっと弾くように強く要求することが幾度もあったのに、その奏者が生き生きと音符を弾いている時は何も言わない。心の耳で聞いている、というのか、意志を感じているというのか、五感を超えたものを人間は感じる、と思わずにいられなかった。
ヴァイオリン協奏曲には様々な箇所で、半音進行の3連符が同じパートの様々な奏者で回るように書いてある。前回弾いた弦楽合奏の曲にも同じことが書いてあったから、これは彼の重要なモチーフなのだろう。スコアで見ると単純だけれど、実際に自分がその1部分となって弾くのは、テンポも早いし、けっこう難しい。その時に誰かが落ちると(僕も練習で1回やらかした)、大変なことになる。爆発してドイツ語で罵る。こういう時、頑固爺だなと思う。

本番当日、舞台上の人間はかなり善戦したと思うけれど、それでも予定外の事は起きた。そんな状況で強く集中し続けた庄司さんは見事だった。小柄な彼女のどこにそんなエネルギーがあるのだろう。一方、アンコールで弾いた無垢なバッハは、協奏曲の対極にある素晴らしさだった。

プログラムの後半はベートーヴェンの7番。こちらは最初からほとんど何も注文がなく、3日間のリハーサルでは終楽章が終わる度、ペンデレツキは'Ole!'と叫ぶのだった。それはサントリーホールの本番の舞台でも同じだった。作曲家ペンデレツキからベートーヴェンへの敬意の現れのようにも見え、とてもチャーミングな人と感じた。指揮台に立って特別なことをする訳ではないのに、彼がいなかったらオーケストラはあのようには弾かなかっただろうし、当然あのような音楽は出てこなかっただろう、と思う。人間は不思議だ。86歳の人が舞台に立つ。多くの聴衆とオーケストラに囲まれたあの場所には、何か特別な力が働くのかもしれない。

2019年5月22日 (水)

「ペダルなしで、しかしたくさんの色彩をもって」

20年ほど前、年輩のアマチュアチェリストと、彼が親しくしていた理髪師と話をする機会があった。バッハのゴルドベルク変奏曲のことになり、当時の僕にはグレン・グールドの衝撃的なデビュー盤か、彼がスタジオにこもるようになってからの晩年の録音か、しかなかったのだけれど、その理髪師(仕事中によく音楽を聞かれていたのだと思う)は、私はグールドではなくアンドラーシュ・シフの演奏を聴きます、と言ったことを覚えている。何かひっかかりながら、その時の僕は「ふーん」と思っただけだった。

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数ヶ月前、シフの弾くバッハの平均律(前奏曲とフーガ)のCDを求めた。ずっとグールドの録音しか知らなかった。スピーカーから流れてくるシフの演奏は、まるで今そこで音楽が生まれているようにみずみずしい。
よく知られているように、前奏曲とフーガはハ長調で始まり、ハ短調、半音上がって嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調、・・・、と全ての調性を一巡りする。それが第1巻と第2巻と二回りある。シフの2011年の録音は4枚組になっていて、僕はその4枚を順繰りに聞いている。ライナー・ノーツにはシフ自身による 'Senza pedale ma con tanti colori' という文章(「ペダルなしで、しかしたくさんの色彩をもって」)もあり、このイタリア語の題から僕はチェロ組曲の、アンナ・マグダレーナ・バッハによる写本の表紙 'Suites a Violoncello Solo senza Basso composees par *. *. *. Bach Maitre de Chapelle' を思い浮かべた。( * にはイニシャルが入っているのだけれど、僕には判読不能・・・。)

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前奏曲とフーガを聞いているうち、2回に1回ある短調の時に、長調の和音で終止することがしばしばあることに気付いた。チェロ組曲、第5番のプレリュードもそう。おもしろいのは5番のチェロ組曲をバッハ自身がリュートのために編曲したト短調の組曲では(BWV995)、プレリュードは暗いまま終わる。どうしてだろう?。暗く終わっても明るく終わっても、たいした問題ではないのだろうか、それともバッハにはきちんとした理由があったのだろうか。
もう一つリュート組曲の興味深いのは、チェロ組曲にはない音がたくさん書かれていること。僕たちの知らなかった声部があり、あぁバッハはこう感じていたんだ、と思う。アンナー・ビルスマが、バッハは3曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタと3曲のパルティータ(チェロを弾く人間には、目もくらむような見事な4声体だ)を書いた後、チェロのための、もっと音を省略した、弾き手や聴き手の想像力を呼び起こす曲を書こうとした、とどこかで言っていたことを思い出す。そして、ソナタ形式という便利な方程式のようなものが発明される前、即興的で生命力にあふれたフレーズを、あんなにたくさんバッハが生み出したことは、驚くべきことだ。

これもビルスマが言っていたことと思うけれど、チェロ組曲の、マグダレーナ・バッハの写本の表紙にはイタリア語、フランス語、ドイツ語が混在している。そしてチェロ組曲を構成する5つの舞曲の出自は多彩だ。アルマンドはドイツを意味するフランス語、クーラントはフランスまたはイタリアが起源、サラバンドはスペイン、メヌエットとブーレ、ガヴォットはフランス、ジーグはイギリスやアイルランド。バッハの時代、隣国フランスでさえ、ましてイタリア、スペイン、イギリスは実際に行くにはとても遠いところだったと思う。どうしてバッハはこうした様々な国の言葉や舞曲を用いたのだろう。多くのことを統合しようと試みたのだろうか。

様々な作曲家の様々な曲を弾いてきた。そうした中で今もし、バッハの音楽はどういう音楽ですか?と聞かれたら僕は答えに窮する。ベートーヴェンは?という問いの方がまだ答える方法がありそうだし、時代が下るにつれ、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、・・・、ずっと答えやすくなる。
子供の頃読んだパブロ・カザルスの写真集か本に、彼が毎朝ピアノでバッハの前奏曲とフーガを弾く、とあったことを覚えている。(小さかった僕は、どうしてチェロでなくピアノなの、と不満だった。)カザルスは毎朝初めて弾くようにバッハを弾いた、毎朝新しくバッハを経験していたのでは、と思う。
'Bach'はドイツ語で小川を意味する、と聞いたことがある。’小さい’とは到底思えないけれど、そして長く顧みられない時代があったようだけれど、後の西洋音楽の大きな流れの源になっていると思う。

2019年4月30日 (火)

「希望の灯り」

少し前に観たのが映画「希望の灯り」(原題'In the Aisles')kibou-akari.ayapro.ne.jp
すごい二枚目も絶世の美女も登場せず(こういうことを言うのははなはだ主観的だけれど)、舞台は時代に取り残されたような大型スーパー、画面に映るのはその大きな通路、陳列棚、フォークリフト、休憩所、幹線道路、街灯、バス、夜明けの空、・・・、昔の東ヨーロッパを思い出させる寒々とした光景ばかり。でもこの映画は美しい。見事だと思った。監督のトーマス・ステューバーは1981年生まれ、僕は30代半ばの時に世界をこう見ることはできなかった。彼は何が美しいのか、よく知っているのだと思う。美しいか美しくないか、は物によるのではない。
「希望の灯り」の冒頭は、スーパーの見上げるように高い棚の間をフォークリフトが動いていく映像で始まる(確か、僕の曖昧な記憶によれば)。その時にかかる音楽が「美しき青きドナウ」。それはS.キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を強く思い起こさせる。宇宙船が漆黒の宇宙をゆっくりと動いていくシーンに使われた音楽だ。
帰宅して久しぶりに「2001年宇宙の旅」を少し見たら、素晴らしくて驚いた。CGというものなどない時代。公開は1968年、アポロ計画が月着陸を果たす前だ。2019年現在、有人宇宙船は木星はもちろん、火星にだって到達していないけれど、あの映画で重要な役割を果たすコンピュータ「HAL」は今のAIを予言しているようだ。

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「希望の灯り」を観た週、都響は東京、大阪で公演があった。プログラムの前半はグリークのピアノ協奏曲。ソリストはニコライ・ルガンスキー。
この曲を弾いていると海が見える、波の音が聞こえてくるようだ。(「希望の灯り」の基調の色は青、隠れた主題は海だったと思う。)特に好きなのは第2楽章、主題が始まった瞬間に心動かされる。後半いきなり調性が明るくなってチェロが旋律を弾く時は、解き放たれるようだ。
ルガンスキーは2公演とも、アンコールでメンデルスゾーンの無言歌を弾いた。大阪で弾いたop67-2「失われた幻影」は良かった。たとえ大きなドラマはなくても、音楽は本当にいいな、と思う。フェスティバルホールは舞台も客席もバックステージも広大だ(時々自転車か、キックボードが欲しくなる)。笑顔で拍手をして下さる聴衆を見て、心温まる思いだった。

2019年4月 4日 (木)

すらすらと

昨日までは冬のような北風で澄んだ青空、今日は南風が吹いてふわっと暖かくなり、空気の透明感はなくなった。紀尾井ホールに通っている。ライナー・ホーネックさんの指揮とヴァイオリンで、モーツァルトの交響曲第25番やセレナータ・ノットゥルナなど。駅からホールまで歩く間、桜が青空に映えて美しい。

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ホーネックさんがヴァイオリンを弾く姿は、まるで最初からそうだったように、楽器と体が一体となっている。言葉や指揮で説明するより、ヴァイオリンで弾く一つ一つの音が雄弁に語る。音、フレーズの感じ方、テンションのかけ方、音程の取り方、・・・。一つ一つのフレーズに話し方があり、ぼんやり聴いているとそれがとても自然なので気付かないけれど、日本人の感覚に遠く、もしかして気付いてすらいないことを教えてくれているのかもしれない、と思う。彼のヴァイオリンを聴いていると、projectionという言葉が浮かぶ。音は投射する、投影する、何かを空間に放つようなものだと感じる。手元で楽器をごしごし弾くのではなく。

ト短調、第25番の交響曲は劇的で暗い。冒頭にリズムの強い摩擦はあるけれど、皆同じ音を弾く。第3楽章、第4楽章の冒頭もユニゾンだ。4つの楽章のうち3つがユニゾンで始まる。どういうことなのだろう。

2楽章ではヴァイオリンが弾く主題をすぐファゴットが追いかける。2本のファゴットはぴったり3度音程で書いてあるのに、追いかけられるヴァイオリンは(第1ヴァイオリンと第1ファゴットは同じ音)、第2ヴァイオリンが少し違う動きをする。きっとヴィオラ、チェロ・バスとの兼ね合いをとるため、物事をスムースに進めるため、第2ヴァイオリンをそう書いたと想像するのだけれど、それは熟考の末なのか、それともすらすらと、こうした方がいいでしょ、という感じでモーツァルトは書いたのか、どちらなのだろう。 

モーツァルトのト短調と言えば、第40番の交響曲が有名だ。バーンスタインがハーバード大学で行った分析は本当に素晴らしい。(20171222日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-2a59.html)この交響曲は第3楽章を除けば、半音進行がたくさんあり(例えば第一楽章の、一度聴いたら忘れられない主題、ミ・レ・レがすでにそうだし、第2主題も)、それらは当然多くの転調を伴う。第2楽章の転調は魔法のようだ。信じられないのは、第4楽章の展開部の入り口、ユニゾンでシ・レ・ファ・ラ・シ・・・、と弾く19の音で書かれたフレーズ。主音のソ以外の全ての音(!)が使われている。モーツァルトはたまたまこう書けてしまったのか、それともそうしようと意図して書いたのか・・・。こういうことに出くわすと、以前にも引用したブコウスキーの言葉を思い出す。(20151230日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9a57.html

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『・・・ひとつひとつの音を、新たなる血や意味の迸りを渇望している男のように大いに味わって楽しみ、しかもそうしたものが実際に含まれているのだ。何世紀にも何世紀にもわたる、偉大な音楽の汲めど尽きない豊かな泉に、わたしは心底驚愕させられている。ということはそんなにも多くの偉大な人たちがかつて生きていたというわけだ。そのことに関しては説明することができないが、そうした音楽を享受できたこと、感じ取れたこと、それらを糧にできたこと、そして賛美できたことは、わたしの人生に於ける実に幸運なできごとだと言える。ラジオをつけてクラシック音楽に耳を傾けることなしに、わたしはどんなものであれ決して書くことはできない。書きながらそうした音楽を聴くこと、それが常にわたしの仕事の一部となってしまっているのだ。ひょっとして、いつかそのうち、誰かが、どうしてクラシック音楽には驚嘆に値する人物のすさまじいまでのパワーが込められているのか、そのわけを教えてくれることにならないだろうか?・・・』

2019年3月27日 (水)

強く燃え立たせる

3月23日は都響福岡公演、24日名古屋公演、昨日26日は東京文化会館での定期演奏会だった。

名古屋で休憩時間にソリストのガブリエル・リプキンと少し話をした。そもそも「ロココの主題による変奏曲」の第3変奏をハイポジションで終えた後、しっかり松脂のついた指でそのまま第4変奏を始めるのは平気なの?という他愛もない質問を投げたのだけれど、すぐ弾き方のことになり、楽しかった。彼は僕の左肘を支えて腕を真上にして、この重さを使いたい、弾くときに腕の重さを100パーセント使うんだ、それは右も左も同じ、と言っていた。大柄な彼が低い椅子に座り、湾曲したエンドピンでチェロの角度を低くして弾く姿勢は、それを実現した状況になっている。いつも体と弦との接触を保っているよね?と尋ねたら、そう、左手だけでなく弓も同じで、それは例えば声を出している時に突然息を止めることをしないように、音が持続するように、ということだった。(僕のまったくひどい英語で、こう理解したのだけれど・・・)
湾曲したエンドピンを使っているのは、知る限り、彼だけだと思う。トルトゥリエやロストロポーヴィチは短いエンドピンでチェロを寝かすために、一カ所で曲がったものを使っていた。僕はエンドピンがしっかりした支えになるよう、太い10ミリ径のものを使っている。彼はきっとエンドピンの弾力を生かしているんだろうと思った。柔軟な体勢の楽器を弾く、思いもしなかったことだけれど、なるほどその発想は良いかもしれない。
僕の場所から見えるリプキンの弓は、見事にまっすぐな軌跡を描いていた。ロココの第4変奏の32分音符はすべて弓毛が弦に噛んでいて、一つ一つの弓の返しの度に、「くくくく・・・」という音が聞こえた。楽譜には書いてあるけれどほぼ誰もしない第2変奏のスラースタッカート(しかも下げ弓)、多彩なヴィブラート、トリル(とても速いトリルを遅くしていき、それをターンに自然につなげるところは見事だった)、第3変奏の最後のその高いミの音にしっかりヴィブラートをかけること、・・・。常識にとらわれず様々なことに向き合っていることがよくわかった。sempliceと書いてある主題をなんだか凝った感じで弾くことや、第3変奏の大変ゆっくりなテンポ(ドのピチカートが延々続くこちらは気絶しそうになる)には同意できなかったけれど。彼は自分に正直な人なのだなと思った。

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昨日の定期演奏会はロココではなく、ブロッホのシェロモ。本番の舞台でのリプキンは素晴らしい集中だった。ブロッホの音楽の何かに彼の心を濃く強く燃え立たせるものがあるようだった。その何かは指揮のインバルも感じていて、明らかに二人は音楽の核となるものを共有しているようだった。残念ながら、僕はその強いものを傍観するばかりだった。あの火のみなもとはいったい何なのだろう。

インバルの指揮するショスタコーヴィチの5番は、よく進む、テンポの速い演奏だった。83歳、他の誰よりも生命力にあふれ、よく通る声、笑顔、即断即決の指揮官型、指揮台にしっかりと立ち、素晴らしい肩の可動域(この人の辞書に四十肩とか五十肩という言葉はなかったのだろう)、暗譜で。年を取ることの見本のような人だと思った。
僕の持っているショスタコーヴィチの5番は、バーンスタインがニューヨークフィルを指揮したもの。40年前の東京文化会館でのライヴ録音だ。ショスタコーヴィチは世を去っていたけれど、鉄のカーテンがあった時代の、その厳しさを感じさせる素晴らしい演奏だ。彼と、当時の人々に思いを馳せながら弾いた。

3月、年度末。思いがけない方と共演でき、そして様々な出会いと別れがあった。

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