音楽

2018年6月27日 (水)

知恵のような

6月23日、日経新聞夕刊に掲載された玉村豊男さんの文章から。

『書斎や廊下にある作り付けの本棚は、半分がガランとした空間になったが、いまは残りの本もすべて放出してしまいたい衝動に駆られている。本棚といっしょに私の頭の中も空っぽにして、過去の知識にすがることなく、ただ前だけを見つめていた少年の無垢を手にして、残りの老年を生きてみたい・・・』

興味深く読んでいた今年3月の日経新聞連載、山折哲雄さんの「私の履歴書」を思い出した。3月1日の文章から。

『・・・これまでのけっして短くはないわが人生のなかで、何と多くの重苦しい荷物を抱えて生きてきたことか。捨てよう捨てようとしてはきたけれども、とても思うようにはいかない。その最たるものが書物の山だったが、捨てても捨ててもいつのまにか溜まっていった。それだけではない。それらの重たい書物のなかに盛られた思想とか哲学までが何ともうっとうしい重い荷物にみえてきたのだった。それがはたしてどんなものだったのかゆっくり確かめながら、この履歴の旅をつづけてみることにしようと思う。』

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僕の一つの夢は本を、大きかったり変わった形だったりする写真集だって、好きなだけ置ける本棚のある家に住むことだけれど(もう一つの夢は見晴らしのよいところに建つ、小さくて、薪ストーブのある山小屋)、先達のこうした文章に触れると、そうなのですか・・・、と胸をつかれる。
今読んでいるのは平家物語。昨夏読みかけて挫折したのをもう一度、『諸行無常の響あり・・・』から始めて、今、岩波文庫版の第1巻が終わりかけている。古くから読み継がれてきた物語には何かがあると思う。何かを読んで、知識というより、知恵のようなものに心惹かれる。例えばロストロポーヴィチがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が書かれたときのことについて述べたことのような。(昨年10月4日の日記をご覧下さいhttp://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-29b8.html)

2018年5月20日 (日)

「私の中で歌いたまえ」

5月22日の都響定期演奏会にはコリリアーノの「ミスター・タンブリンマン ― ボブ・ディランの7つの詩」(ピアノ版の初演は2000年)があり、今日からリハーサルにソプラノのヒラ・プリットマンが加わった。
月刊都響5月号に掲載されている解説を読むと、作曲したコリリアーノはボブ・デイランの音楽をそれまで聴いたことはなく、テキストとしてディランの詩を使うだけで、ディランの音楽をアレンジすることも、自作が完成するまでディランの音楽を聴くことも、なかったそうだ。
3曲目の楽譜に「Blowin'in the Wind」とあり、それが有名な「風に吹かれて」であることに、今日ようやく気付いた。コリリアーノの音楽は、特に最後の「いつまでも若く(Forever young)」は美しいのだけれど、同じテキストを用いていても、ディランの音楽とはずいぶん違う。ディランの音楽と歌詞は分かちがたいものと思う。一方そのテキストは別の人にはこんな発想をもたらすのだと興味深い。帰宅してディランのCDを聴くと、土の匂いがするようだ。

昨年発売の雑誌「Monkey」vol.13に、ボブ・ディランのノーベル賞受賞講演が掲載され、時々読み返す。その中から(訳は柴田元幸さん)。

『・・・もし歌が人の心を動かすなら、それが唯一大切なことなのです。歌にどんな意味があるか、私にわかっている必要はありません。私もいろんなことを歌の中に書き込んできました。それがみんなどういう意味なのか、気に病むつもりはありません。・・・
(If a song moves you, that's all that's important.I don't have to know what a song means.I've written all kinds of things into my songs.And I'm not going to worry about it ー what it all means.)』

『・・・私たちの歌は生者の国に生きているのです。けれど歌は文学とは違います。歌は歌われるものであって、読まれるものではありません。シェークスピアの戯曲の言葉は、舞台の上で演じられるために書かれました。歌の歌詞も、紙の上で読まれるためではなく歌われるために書かれたのです。みなさんにも、聴かれるために書かれた歌詞を、その意図どおりに聴いてもらえればと思います。− コンサートで、レコードで、あるいは近ごろ出てきたもろもろの新しい聴き方で。もう一度、ホメロスに戻ります。「私の中で歌いたまえ、おお詩の女神よ、私を通して物語りを語りたまえ」
(Our songs are alive in the land of the living. But songs are unlike literature. They're meant to be sung,not read. The words in Shakespeare's plays were meant to be acted on the stage. Just as lyrics in songs are meant to be sung,not read on a page. And I hope some of you get the chance to listen to these lyrics the way they are intended to be heard:in concert or on record or however people are listening to songs these days. I return once again to Homer,who says,"Sing in me,oh Muse,and through me tell the story.")』

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2018年5月13日 (日)

「チェロのレパートリーの限界に」

5月13日の都響演奏会はクラウス・マケラの指揮でシベリウスの1番など。フィンランド出身の21歳、絵に描いたような若さ、と言ってよいのか、はつらつとして颯爽として、一点の曇りも、迷いも、躊躇もなかった。見事だったと思う。チェリストでもある彼が、19歳の時にドヴォルザークを弾いている映像が動画サイトにある。そちらも素晴らしい。同じフィンランドの指揮者ハンヌ・リントゥもチェロを弾くはずだし、カザルスやロストロポーヴィチも指揮をした。彼らを見ているとルービンシュタインの自伝にあったバルビローリのエピソードを思い出す。

『二、三日して、私はスコティッシュ・オーケストラとブラームスのコンチェルト変ロ長調を演奏するためにグラスゴーへ向かった。指揮者はイタリア系の若いイギリス人、ジョン・バルビローリであった。チェロ奏者なのだが、多くのチェリストが感じるようにチェロのレパートリーの限界に失望して、指揮者として活躍するようになった人だ。彼とは最初から気が合った。音楽の理解も同じようであり、フレージングに関して互いに影響を与え合った。一度などは、目をつぶったままコンチェルトを演奏できた ­ 指揮者を見る必要がなかったのだ。・・・ジョンとは親友になった。』 

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2018年5月 9日 (水)

チェロアンサンブルナカジマ2018

5月5日は名古屋のしらかわホールでチェロアンサンブルナカジマの演奏会。
中島顕先生の生徒、生徒だった人、中学生から50代までの四十数名が舞台に上がった。その中で音楽を職業としている人は多くなく、様々な仕事の人たちが練習を重ね、一体感はどこにもない感じだった。それぞれの年齢や職業といった属性は消えて、一人一人がただ一人一人としてチェロを弾いているようだった。全体で音を出したときの感じはこれまで経験したことがなかった。あれは何だったのだろう。舞台の上にいる人間が不思議と同じ方向を向いている、そんな気がしたのは僕だけだっただろうか。
音楽を職業としていない先輩方の情熱や、若者たちのひたむきさに接することができたのは得難い時間だった。一つだけ残念だったのは、中島先生の現役の生徒だけの演奏が聴けなかったこと。結局練習はいつも、僕たちおじさん連中が仕切ってしまい、彼ら彼女たちが前面に出て生き生きする機会がなくなってしまった。前回、酒井あっちゃんが引き出した子供たちのあふれるような姿には目を見張ったもの。

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2018年4月16日 (月)

声の奥行き

昨日4月15日の都響は東京・春・音楽祭の公演でロッシーニのスターバト・マーテル。4人のソリスト、エヴァ・メイ(ソプラノ)、マリアンナ・ピッツォラート(メゾソプラノ)、マルコ・チャボーニ(テノール)、イルダール・アブドラザコフ(バリトン)が素晴らしかった。声の奥行きと言ったらよいのか、立体感と言ったらよいのか、あぁそうですよね、本当にそうですよね、と感じた。声に楽器はかなわないけれど、でも目指す方向を明確に示してくれた。メゾソプラノのピッツォラートさんは、歌い終える瞬間、声が文化会館の大ホールに消えていく瞬間もなんとも言えず美しかった。ソロだけでなく、4人や2人でつくる響きも見事だった。

少し勉強してから海へ。行こうとする度に電車が遅れたり、強風だったりして断念していた。だから今日、バスを降りて海が見えた時、胸がいっぱいになった。肌寒く曇っていたけれど、海は海だった。

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2018年4月 3日 (火)

ショスタコーヴィチ

3月20日の都響定期演奏会はインバルの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。月刊都響3月号、増田良介さんの解説には作曲の背景や1942年の初演、楽譜がマイクロフィルムで持ち出され、アメリカでも盛んに演奏されるようになったことが書かれた後、
『バルトークが<管弦楽のための協奏曲>の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、・・・』
とあり、いやいや恥ずかしながら僕は知りませんよ、しかし、と慌てていろいろな人たちに聞いた。「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章、トロンボーンのグリッサンドの後、遊園地のような音楽になったところのヴァイオリンの下降音型がそれ。本当にそのものだ。突然どうして脈絡なく、こんな能天気な音楽が出てくるのか不思議に思っていた。そういうことだったのか・・・。
バルトークはこの曲がもてはやされていることを苦々しく思っていたのでは、と僕は勝手に想像する。彼のアメリカでの晩年を知ると、胸がつぶれそうになる。(アガサ・ファセット著「バルトーク 晩年の悲劇」)

3月26日の定期演奏会の前半はやはりショスタコーヴィチの、ピアノ協奏曲第2番(ソリストはアレクサンドル・タロー)。1番の協奏曲の方が演奏機会が多いと思うけれど、僕はこの2番が好き。バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの演奏を幾度も聴いて、曲とその演奏が切り離せなくなってしまった。
ファゴットの、いかにもファゴットらしい主題の6小節の前奏の後(どうして6小節なんだろう、4小節+2小節・・・)、ピアノが始まる。ヘ長調だ。ヘ長調のピアノ協奏曲は珍しい。すぐ思いつくのはガーシュイン。モーツァルトには何曲かあるけれど。
ショスタコーヴィチらしくなく、この曲には皮肉がない。大きな展開もなく、少さな変化を伴いながら同じ流れの中にずっといる。そういう意味ではシューベルトのようだ。特に第2楽章は美しい。ピアノが旋律を左手の3連符で伴奏する書き方は、ベートーヴェンの月光ソナタを連想させる。第1番のピアノ協奏曲の冒頭がベートーヴェンの熱情のパロディであることは「よく知られている」と思うけれど、この協奏曲はパロディというより、ベートーヴェンへのオマージュのように思える。終楽章には7や9の変拍子が出てくる。たまたま日曜日夕方のラジオからブルガリアのダンスミュージックが流れ、それも7拍子だった。DJのバラカンさんがこの7拍子は確かに踊れそうです、と言っていた。聞きながらショスタコーヴィチの協奏曲のことを思った。

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亀山郁夫さんが昨年、ソヴィエト体制下の芸術家たち、というテーマで行った講演を聞いた。ショスタコーヴィチに関しては5番の交響曲の終楽章を取り上げ、金管楽器で演奏される冒頭の主題が、カルメンのハバネラから来ていること(下降形の旋律の後、調性が明るくなるところ)、そしてその部分の歌詞は・・・、というものだった。
ショスタコーヴィチの4番の交響曲はとうてい分かりやすいとは言えない。それを踏まえると5番の終楽章が延々と華々しく書かれているのは、決して作曲家の本心ではなく、こう書けば当局は喜ぶんでしょ、という痛烈な皮肉のように僕は感じていた。真情を担保するために、当時の芸術家たちは「二枚舌」を使った、というのが亀山さんの説明だった。終楽章の主題の基になった部分のハバネラの歌詞はおそらく(間違っているかもしれません)、「prends garde a toi!(用心しなさい!、あるいは、気をつけろ!)」。
想像もできないことだけれど、ショスタコーヴィチが新しい交響曲を発表する時、それは常に注目を集め、同時に政府からにらまれる危険も背負っていたのだと思う。

これはS君に教えてもらった話。エンリコ・ディンドはロストロポーヴィチ・コンクール優勝の後、ロストロポーヴィチ自身の指揮でショスタコーヴィチのチェロ協奏曲を弾いた。演奏会の度に、ロストロポーヴィチは本番前、人目をはばからず号泣していた。その理由は、(自分は亡命したのに)どうしてショスタコーヴィチを西側に連れ出してやらなかったのか、という自責の念だったそうだ。

2018年3月12日 (月)

「ルービンシュタイン自伝」

アルトゥール・ルービンシュタインの自伝を読み終わった。(原題「MY MANY YEARS」、ルービンシュタイン自伝 神に愛されたピアニスト 上・下巻 木村博江訳 共同通信社)
おもしろい・・・、と感じる所に付箋を付けていったら、100ページ以上になってしまった。絶版になっていることを本当に残念に思う。できれば読みやすく活字を組み直して、どなたか再版してくださらないだろうか。書物にこれほど強く励まされたことはない。この本を図書館に返さなくてはならないことを僕はさみしく思う。

時々吐露されるルービンシュタインの率直な考えに加えて、あふれるように記される様々な人物のエピソードが魅力だ。多彩な、ほとんど歴史上の人物たちが生身の人間として、息づかいまで聞こえるように語られる。
信じられるだろうか、ミヨー、サン・サーンス、ヴィラ・ロボス、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ラヴェル、プーランク、サティ、シマノフスキ、ファリャ、シェーンベルク、指揮者ならトスカニーニ、バルビローリ、セル、クーセヴィツキー、オーマンディ、バーンスタイン、ビーチャム、バレンボイム、ウォーレンシュタイン、ピアニストはパデレフスキ、ホフマン、ラフマニノフ、コルトー、ギレリス、リヒテル、リパッティ、ホロヴィッツ、R.ゼルキン、弦楽器はイザイ、ハイフェッツ、クライスラー、ティボー、シェリング、ターティス、フォイヤマン、カザルス、ピアティゴルスキー、フルニエ、トルトゥリエ、・・・。美術や文学ではピカソ、キスリング、トーマス・マン、さらにワーグナーの娘、ココ・シャネル、キュリー夫人、パストゥールの孫、エドワード8世、チャップリン、グレゴリー・ペック、・・・。
こうした話があまりにおもしろいので、僕は人の迷惑も考えず、誰かに会うと前夜に読んだエピソードを話したりした。

プロコフィエフの2番のヴァイオリン協奏曲の初演に立ち会った時のこと。
『ヴァイオリニストが現れた。どう表現したらいいか難しいが、銀行でよく見かける、小切手を現金化するのを待っている男、とでもいう感じだった。しかし協奏曲をしっかり自分のものにしていた。美しいテーマを確固として弾き始め、巧みに展開し、オーケストラはその展開部を明確に気高く際立たせる。これこそ偉大なプロコフィエフの作品だった。音楽には静かで旋律的な流れがあり、いつものような皮肉っぽい展開はまったく見られない。続いて天から降ってでもきたような美しい第二主題が現れた。この気高い旋律線は、どんなにまずいヴァイオリニストも損なうことはできまい。私は興奮し、感動し、プロコフィエフに囁いた。
「ブラームスが書いたといっても通りますよ!まるでブラームスだ!」
セルゲイは歯をすっかりむき出して満面に笑みを浮かべた。
「そう、そう、ブラームスには学ぶところが大きかった!」』

リヒテルは若い頃、オデッサでルービンシュタインのリサイタルを聴き、ピアニストを志した。戦後リヒテルのアメリカ公演が実現し、数日後二人は夕食会で親しく話すことになる。ベートーヴェンのテンポについて口論となり、
『それを聞くと私はジャンプして、私のアダージョ、アンダンテ、アレグレット、アレグロを彼の前で踊ってみせた。そしてプレストに至ってどっと椅子に倒れ込んだ。それが床の上でなくて幸いだった。二人のピアニストが互いに意見を交わし合った素晴らしい出会いの夜として、このときのことはよく憶えている。
 翌日、私は生涯のうちでも最悪の二日酔いのひとつを経験した。医者を呼ばねばならないほど重症だった。症状を和らげる薬をもらい、ドアまで送っていくと医者はちょっと立ち止まり、にやりとして言った。
「おかしな偶然ですね。今朝もう一人ピアニストから呼ばれたんですよ ― リヒテルという名前ですが」』

数々の武勇伝もある。秀逸なものを。
『チリの首都サンチアゴで短く楽しい滞在をしてから、私は小さくてのろい飛行機でペルーのリマへ行った。到着した翌日の夜に、私はベートーヴェンのト長調、ショパンのヘ短調、チャイコフスキーの変ロ長調の協奏曲を、無名の指揮者の下でオーケストラと協演しなければならなかった。ひどい飛行機で七時間も揺られたので、リマに着いたときは半ば死んだようになっていた。
 ・・・私は半ば昏睡状態でベートーヴェンのト長調を弾き始め、なんとか奇蹟的に息を合わせて終えることができた。
「休憩にしますか?」
指揮者が訊いた。
「いや。いま休みをとると、眠り込んでしまって誰にも起こせなくなるでしょう。ですからどうかすぐにショパンを弾かせて下さい」
と私は言った。オーケストラがトゥッティを奏し始めると、私は跳び上がった。演奏しているのはホ短調の協奏曲で、予定されたヘ短調ではない。
「協奏曲が違うじゃありませんか」
私は指揮者に怒鳴った。しかしこの奇妙な男は指揮棒を振り続け、音楽を止めもしないで落ち着き払って答えた。
「ヘ短調の楽譜がなかったので、これにしました」
私はがっくり腰を下ろすと、長いトゥッティのあいだ中ぽかんと口をあけて聴いていた。そして自分の出だしにさしかかると、機械じかけのように手が動き、なんとこのいまいましい協奏曲を終わりまで弾き通したのである。この類いまれな大手柄のあとで、大きくて重たいチャイコフスキーは子供の演奏のようになってしまった。リハーサルが終わると、私は人手を借りて車に乗り、ホテルの部屋まで運ばれた。そしてベッドにもぐり込むと何も食べずに十二時間以上眠り通したのである。コンサートではヒナギクのように爽やかな気分で演奏した。』

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また、
『・・・ステージに上がる十分前に電報を手渡された。
<病気で入院しています。急いでお金を送って下さい ― ネラ>
 私は雷にうたれたように坐り込んだ。考えられる限りの悪い病気を思い浮かべた。耐えがたい不安に襲われた。一分後にはショパンのロ短調ソナタを弾かなければならなかったが、ここでも私の根強いプロ精神が勝ち、私はかつてないほど感情をこめてソナタを弾いた。
 強い感情は、それが愛する者の病や死、耐えがたいほどの嫉妬、絶望的な孤独、悲劇的な出来事のいずれによるものでも、私に良い演奏をさせた。演奏することは、私にとって精神的な救命具(ライフジャケット)だった。コンサートのあいだ中私は全霊を注いで演奏した。二度もアンコールを受けた。しかし控え室で電報を手に坐ると、その場でドレスデンへ発つことに決めた。・・・』

功成り名を遂げた後のこのような述懐に心打たれる。
『夜は私のものだった。家中が寝仕度にかかると、私は馬小屋まで歩いて行き、閉じこもって奇妙な音楽生活に入る。これは私にとって、まったく新しい生活だった。ある意味で、これは意外な新発見だった。単純な事実として私は練習の楽しみを知ったのである。
 読者はご存じだろうが、私の子供時代の練習は、ごまかしとまやかしだった。私は右手と左手で交互に馬鹿げた音を出して、実際はチョコレートや、季節には桜んぼを食べながら小説を楽しんでいた。その後、私は生まれつきの器用さで協奏曲、ソナタ、小品などをすぐに憶えてコンサートで弾いてみせたが、技術的に難しい楽節はペダルを上手く使ったり、激しい強弱をつけた表現で平然とカバーしたので、何も知らない聴衆には私が完璧に弾いていると思われていた。
 数多くの作品を、数多くのコンサートで何度も繰り返し弾いたので、とくに努力しなくても弾くたびに上手になっていった。皮肉なことに、私がピアニストになった当初からマスコミの厳しい批評は、ベートーヴェンに深みが足りないとか、シューマンのアプローチに詩的な要素が不充分であるとか、ショパンの扱い方に無味乾燥なところがあるといったことに終始し、決して、一度たりとも私の技術的完成度に疑問が投げかけられたことはなかったのである!というわけで、私のピアノテクニックのみじめな状況をしっているのは自分しかいない、と認識せざるを得ない時点にきていたのだ。
 サン・ニコラで過ごした夜の時間は、私の芸術に対するアプローチの転換期になった。私はショパンの三度のエチュードをペダルを使わずに明確にきちんと弾いて、しかもあまり疲労を感じなかったときには、突如として、強烈な肉体的満足感を覚えた。私は、これまで忌み嫌っていた左手の指の練習を真剣に始めた。全部の音が明確に聴こえ、ぐずな第四指がしっかりキーを押さえるのを自分の耳で確かめながら弾いた。私は情けない左手にひたすら尊敬と自信を勝ちとるために、つまらない楽節を延々と繰り返し、第四指が生命を持ち、自立していくのを感じとった。
 私は自分のレパートリーから最もよく弾く曲を次から次へとひっぱり出し、長い間無視してきたすべての小節に最大の注意を払った。ときには朝の二時、三時まで続けながら、こういった作業を何夜か行ううちに、夜ごと五、六人の人が馬小屋の周りに、静かに坐り込むようになった。私の単調な練習でも音楽に聴こえているという事実は、自信さえ与えてくれた。』

ルービンシュタインを縦糸にして、再度20世紀史を見るようだった。世界はまるで違って見える。はなやかな人付き合い(大変もてたそう)、輝かしいキャリア、家族、一方で戦争や不景気、政治など抗しがたい世界の大きな動きとの関わりも描かれる。恵まれたほんの一握りの人しか経験できないような世界を垣間見られることだけでなく、一人の人間がこれ以上ないほど生き生きと自分の人生を生きた、そのことに深く魅せられるのだと思う。
本書は多くの分量があり、しかもそれはルービンシュタインの記憶による(驚くべき記憶力だ)。彼の中をくぐり、きっと様々な人々にも語られたエピソードは多分おそらく、脚色されている。だからいっそう目の前で繰り広げられているような臨場感があるのだろう。

ところで、21世紀に生きている僕は充分に生きているだろうか。自分の人生の10分の1も生きていない気がする。もう少し勇気を出して、まずこの10分の1を生きてみよう。

2018年2月26日 (月)

湧き上がってくる音楽を

2月25日、ローエングリンの最終日。短くはないし、毎回それなりの覚悟を持ってオーケストラピットに入っていた。今日は一つ一つの音符を弾き終えていくことをちょっとだけ残念に思いながら、惜しみながら弾いた。
初めて弾くワーグナーのオペラは密度の高い音楽だった。歌詞を理解できていたらもっと感じることはあっただろう、そうでなくても様々なパートの間で複雑に絡み合う音符を、自分の働きを踏まえながら弾いていくのは、いつも違う世界が見えてくるような試みだった。音楽は場面を変えながらどんどん進んでいく。一つのフレーズが終わる時に新しいフレーズが始まる、だからそのフレーズはどのように次につなげていくのがよいのか、こんなことを感じながら弾くのがオペラの醍醐味なのかもしれない。さらに歌が入ってくると、例えばそこに一つ入る四分音符はどんな性格を持ち、どんな速さあるいは遅さが必要で、だからどんな長さになり・・・。横に広く、楽器の配置や距離がいつもと違うピットで、少しずつ全体の音がなじんでいくのを体験するのは楽しかった。本番回数が多いオペラならではのことかもしれない。

指揮は準メルクルさん。リハーサルは言葉少なで短かった。指揮自体がよく語るので言葉はいらなかったのだと思う。本番中も彼の指揮とオーケストラが話をしているようだった。そう、演奏中に言葉を交わすことはほとんどないのだから、できることなら練習も言葉が少ないほうがいい。音楽という言葉がある。
美しく的確な指揮は音楽の色や動きまで見えるようだった。楽譜から湧き上がってくる音楽を湧き上がるままに示した、そんな気がした。それは誰のものでもない音楽だった。何かを演奏者に強いることはなかったし、それぞれの奏者の大切な場面を過ぎるとそれに対しての謝意があった。自由だった。長かったはずの仕事はあっという間に最終日を迎えていた。

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2018年2月18日 (日)

受け継ぐもの

都響はオペラ、ローエングリンの最中。昨日からオーケストラピットに入っている。

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ワーグナーのオペラは初めて。楽員の間で、あるモチーフがチャイコフスキーの白鳥の湖に似ている、という話になった。その他にも弾いているとマーラーやR.シュトラウスの曲はここから、と感じるところがたくさんある。
ローエングリンの初演は1850年。僕の勝手な想像で、ワーグナーのオペラは音楽的な内容はもちろん、規模など様々なことを含めて当時の最先端だったのだろう、と思う。規模の大きな音楽が、しかも精緻に書き込まれているのに驚く。それはきっと続く作曲家たちに強い影響を与えたに違いない。ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウス、そうした人たちは一人一人がとても大きい。でも彼らも受け継ぐものがあり、そうして発展したものを今の僕たちは享受しているのだと思った。

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2018年2月 8日 (木)

シューベルト

海へ。海の上に雲が出始め、雲の透き間には短い虹も見え、振り返ると山側には黒い雲がかかっている。夕立の時の雲と同じ、でもまさか、と思っていたら雪まじりの雨が降り始めた。空気が動いているときの景色はドラマチックだ。夢中で写真を撮っていたら、シャッターを押せなくなるくらいの寒さになっていた。

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「群像」2018年1月号に掲載されたヴァレリー・アファナシエフと吉増剛造さんの対談から。
『先ほど吉増さんが触れられたシューベルトの最後のソナタは長い曲なので、構成をまとめるのが難しいと言う人がいます。でもわたしは、個々の要素をうまく一つにまとめようとは考えないほうがいいと思います。一度自分の中で作品の和声感を完全に感じることができるようになれば、好きなように、自由に弾いていいんです。これは矛盾した結論と思われるかもしれません。しかし、いったん自分の中で空間と時間の使い方が確立されてしまえば、形式は自然と現れるので、その中で自由にいろんなものが作れるようになるのです。』
『メロディーとハーモニーの関係は音楽家がもっと真剣に考えなければならない問題ではないでしょうか。このところよく思うのですが、メロディーは、いつも邪魔されるというか、中断されてしまう危険をはらんでいます。しかしハーモニーは、いつもそこに存在しており、それだけで完璧なものです。実際にコンサートホールで演奏しているときにも、ハーモニーの働きによってメロディーそのものが横に延ばされ、時間を拡張されたハーモニーになってくるときがあります。そうなると、もうわたしではなく、コンサートホール自体が演奏しているようになる。演奏していると、そんなことが起こるのです。』

演奏という感覚的なことを言葉にするのは難しい、でもアファナシエフはまさに言いあらわしていると思う。新日フィルにいた頃、彼が指揮する演奏会があった。プログラムはシューベルトの「未完成」とブルックナーの9番(どちらも未完の曲だ、でもどちらも見事な曲だ。)。指がぬっと出てくるような指揮は独特だったけれど、音楽はよく伝わってきた。

『・・・シューベルトは決して音楽に成長を強いようとしたりはしないんです。言うなれば、一人の人間の中から何かが自然に成長していく。だから作曲するときにも、ずっとこのままだと単調だから、ここで違うフレーズを入れよう、などとは考えない。・・・』(アファナシエフ)

昔クリスチャン・ツァハリアスにシューベルトの変ロ長調のピアノ三重奏のレッスンを受けた時、彼は「シューベルトの音楽は、今ここにいることの心地よさだ」と言った。その言葉に目を開かれるようだった。このピアノトリオも、他の多くのシューベルトの作品と同じように、旋律が何度も何度も繰り返されていく。転調やモチーフの小さな変化は伴うけれど、ベートーヴェンのように大きな展開をしたり、その恩恵を受けた壮大な結末を迎えたりはしない。旋律は湧き続ける泉のように自然で美しく、どんな小さなモチーフにも、いつまでも手元に置いて弾いていたくなるような愛らしさがある。こうした音楽に接するといつも、書いた人に畏敬の念を覚え、同時にこんなに素晴らしいものを残してくれたことにただただ感謝したくなる。こんな音楽を書くことができたなんて。

アンドラーシュ・シフがフォルテピアノで録音したシューベルトの即興曲、ソナタ(D894、D960)のCDがある。シフが書いたライナー・ノーツから。

『・・・19世紀には(さらに後になっても)、シューベルトはビーダーマイヤー風にセンチメンタルで無邪気に演奏されがちであった。彼のドラマチックな才能、その音楽の暗い力と計り知れない深さは、正当には認識されていなかった。爆発力と力強いクライマックスだけでなく、シューベルトが他の誰にも比べられないほど我々の心に迫るのは、静かな、最も静かな瞬間なのだ。彼の楽譜ではpとppが支配的である。pppも稀ではない。・・・』

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僕がたった一冊持っているピアノソナタの楽譜が、シューベルトの最後のソナタ(D960)だ。初めて楽譜を開いた時、冒頭がピアニシモで始まることと、重ねられている音の多さに驚いた。今日楽譜を開いて、冒頭だけでなく、第2、第3楽章もピアニシモで始まることに気付いた。これほど規模の大きなソナタがピアニシモで始まることは普通ではない。きっと大切なことは規模ではなく、まるで自分一人のために書かれたかのような親密さなのだと思う。

ルービンシュタインがシェリング、フルニエと録音したシューベルトの変ロ長調のトリオの素晴らしい録音がある。ライナー・ノーツはリン・S・マッツァが著し、書き出しには様々な人の言葉がある。
『シューベルトは、死というものにまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・自分が死ぬとき、私は周りに誰もいてほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えていく動物のように、私は死にたい ー たったひとりで」(ルービンシュタイン)
『人生は時によって、われわれの愛や成功や自由や健康や幸運を奪い取ってゆく。しかしながら人生はわれわれの思考、想像力、あらゆる芸術や本や花への愛、そしてあらゆるものへの興味を奪うことはできない』(ルービンシュタイン)
『音楽は、人間本性がそれなしではすごせないようなある種の快楽を作り出す』(孔子)
『シューベルトのトリオ(Op.99)を一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)

こんなに印象的なライナーノーツはそうない。それぞれの言葉の出典が記されていないことを残念に思う。もしかして何かわかるかもしれないと思い、ルービンシュタインの自伝を図書館で借りてきた。生き生きとした冒険譚のようなこの本の後ろには、今は使われなくなった図書カードが挟んであった。日付は全て昭和だった。

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