音楽

2017年7月11日 (火)

7月10日都響定期演奏会のメインはブルックナーの3番。これまで弾いたことのない1873年版(初稿)で、きっと演奏されることは多くないと思う。冗長に感じられたり、この書き方は上手いとは言えない、という箇所はあったけれど、良い意味でプリミティブで、ブルックナーがどんな人だったのか感じられるような気がした。

第2楽章で次のフレーズの前にチェロのトリルだけが残るところがある。その後すぐにコントラバスだけのトリルもある。そこに来るとシューベルトの最後のピアノソナタを思い出す。変ロ長調D960のソナタには、美しい旋律の合間に、その美しさにぶつぶつ不平を言うような低音のトリルがある。
そして交響曲の終楽章の終わりの方にそれまでの楽章を回想するところがあり、木管楽器が吹く旋律が、どうしてもシューベルトの子守歌に聞こえてしまう。

指揮はマルク・ミンコフスキ。およそコンパクトとは言えないこの曲が長く感じられなかった。終始にこやかに、しかも集中は途切れずに。
それにしても第1ヴァイオリンの音符の密度と量は大変なものだ。あの人たちの仕事ぶりには頭が下がるばかりだった。

2017年6月17日 (土)

昨日はJTアートホールで向山佳絵子さんを中心としたチェロアンサンブル。4年ぶりの演奏会は、何だか夢のようで、あっという間に終わってしまった。

95年に始まったこの公演は、僕にとって大きなものだった。素晴らしい人たちに混じって弾かせてもらう機会は何より得難いものだった。力不足だったり、周りが見えていなかったり、そういうことは多々あったと思う。
久しぶりに個性豊かな12人が集まると、やはりにぎやかで、楽しい時間が戻ってきた。20年以上たっても変わらず楽しくなる人たちを選んだ向山さんにはただただ感服する。そしてこの12人の中に入れてもらった幸運に感謝するしかない。

以前よりずっと、それぞれの人たちのそれぞれの素晴らしさを感じた。様々な音楽の方向があり、それぞれにいぶし銀のような仕事の仕方があることが、間近で接して、ひしひしと伝わってきた。そんな中で弾ける時間は密度が濃く、幸せだった。

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2017年4月24日 (月)

先週先々週と、都響にはアラン・ギルバートが来ていた。昨日一昨日はベートーヴェンプログラム。
「英雄」を弾きながら、30歳を過ぎて初めてこの曲を弾いた時のこと、試用期間が始まる前の新日フィルで、小澤さんの指揮で7公演のツアーを回ったことなどを思い出した。
アランの指揮はよく練られた中に即興性を持ったものだった。今の僕は以前よりはるかに曲の重さを感じる。ベートーヴェン渾身の、驚くべき革命的な音楽だったのだと思う。演奏の度に僕たちはその世界を旅していく、ということだろうか。人間にこんな曲が書けたことは信じられない。便利に快適に生きる現代の人間にはもはや不可能なことでは、と思う。

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プログラムの前半はイノン・バルナタンのソロでラフマニノフの狂詩曲。彼の素晴らしい集中力は、こちらまで楽しくなるようだった。
昨日は大阪公演。街に着くと東京とは別の国にすら感じる。街の人たちも聴衆も明るかった。もう一つ、新幹線の弁当売り場、東京より大阪の方が安く品揃えも豊富に感じたのは気のせいか。

2017年3月21日 (火)

今日の東京文化会館公演で、3公演続いた大野和士さん指揮のブラームスプログラム(ニ短調のピアノ協奏曲とホ短調の交響曲、ソリストはシュテファン・ブラダー)は終わり。ずしりとしたプログラムの期間中、様々な思いが去来した。

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2017年2月27日 (月)

昨日までの3週間、都響にはダニエーレ・ルスティオーニが来ていた。プッチーニのオペラ「トスカ」が4公演、それから昨日の幻想交響曲。
とにかく元気で声も大きく、表現も大きく、指揮台の上で跳び跳ねる。本番中の集中力は見事だった。一方、実に人間くさく人懐っこく、君はそこでにこにこしていさえしてくれたら良い、とも思った。彼の朗らかな笑顔を見ていると、もっと人間はシンプルに喜び悲しみ、生きればよいのだ、と思った。33歳、うらやましい。

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東京文化会館の地下には様々な団体の落書きがある。オーケストラピットの通路にも。

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2016年12月15日 (木)

一昨日、昨日の都響定期演奏会はヤクブ・フルシャ指揮で、ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲とマーラー「巨人」。

ヴァイオリンのソロはチェコのヨゼフ・シュパチェク。アンコールに弾いたイザイも含め切れ味鋭く爽快、見事な演奏だった。経歴を見るとジュリアード、カーティスで学んだとある。なるほどヨーロッパとアメリカのいいところを両方持っている、ということだろうか。
とにかく舞台に現れる時も弾き終わった時もにこにこと楽しそうだった。フルシャもそうだし、チェロのケラスもそうだった、皆ぴりぴりした感じがなく、朗らかにしている。これが彼らの素晴らしさの秘訣かもしれない。(ドヴォルザークが終わった後、都響の何人かで、我々もたとえ中身が伴わなくても、笑うことから始めてみようか、と笑った)

フルシャを見ていて感じるのは誠実さとか気高さだ。今の時代、触れることが難しく、そして最も必要とされていることだと思う。シュパチェクのような笑顔もそうだ。
フルシャの話す英語は明晰。それが一転、シュパチェクと話す時は、僕にはわからないけれどあれがチェコ語だろう、とても親密な感じになる。

これまで「巨人」は何度も弾いてきた。でも昨日の演奏はきっと忘れられないものになる。

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2016年11月20日 (日)

人間の持つ素晴らしい可能性を

一昨日仙川へ。散髪の前に学生時代から通うとんかつ屋に入り、置いてある読売新聞夕刊を開いたら、荘子の言葉が飛び込んできた。荘子は最近読み返したのに、その言葉はまったく記憶になかった。やれやれ。紹介されていたのは王帝王篇の中から。

『至人の心を用うることは鏡のごとし。将(送)らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物にたえて傷なわず。』

以前読み返した時、強く印象に残ったのは大宗師篇、坐忘の章といわれる部分。

『・・・復た見えて曰く、回は益せりと。曰く、何の謂いぞやと。曰く、回は坐忘せりと。仲尼しゅくぜんとして曰く、何をか坐忘と謂うと。顔回曰く、枝体を堕ち聡明をしりぞけ、形を離れ知を去りて、大通に同ず、此れを坐忘と謂うと。』

高校生の時、背伸びをしていろいろな本を読んだ。結局その時は?、という感じで読んでいたのだと思う。今になってそれらの言葉が生き生きと迫ってくる。昔の人たちは本当にすごいと思う。僕がじたばたすることは何もない。

そして、一昨日のとんかつ屋ではとてもうれしいことがあった。

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昨日の都響定期演奏会のソリストは庄司紗矢香さんでデュティーユのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」。この曲を書いたデュティーユにも、演奏した庄司さんにも、人間の持つ素晴らしい可能性を感じた。

2016年11月16日 (水)

「シーモアさんと、大人のための人生入門」

先日観たのは映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」(Seymour an introduction) http://www.uplink.co.jp/seymour/

ピアニスト、シーモア・バーンスタインのドキュメンタリー。映画館を出たら、世界は違って見えた。
シーモアさんのいくつも印象深い言葉があり、それらはこれから様々な折りに思い出し、いったいどんなことを彼は言おうとしたのだろう、と考えることになると思う。音楽をする自分と、普段の生活をする自分と、その二つをどのように調和させるか、これは映画の大きな主題の一つではなかったかと思う。心が開かれるようだった。
さほど音楽に関心がない人が観ても美しい映画だろうと思う。もし演ずることを職業とする人が観たら、きっと深く心に届く言葉があると思う。

2016年11月 8日 (火)

郡山へ

ピアノの竹村浄子さん、ソプラノの沢崎恵美さんと郡山へ。昨日は須賀川養護学校、今日はあぶくま養護学校でのアウトリーチだった。両日とも体育館、久しぶりに手のかじかむ寒さで弾いたけれど、子供たちの無垢で素直な反応に強く励まされた。竹村さん、沢崎さんお二人の子供たちへの接し方も見事。

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昨日の夕方、磐越西線に乗って猪苗代湖に出かけた。美しい夕陽を見た後、暗くなったホームで電車を待つ間の寒かったこと。

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2016年9月29日 (木)

「アスファルト」

とうとう、やっと、映画を観た。そういう気持ちを持って映画館を出た。「アスファルト」http://www.asphalte-film.com
舞台はフランス、郊外の団地。殺風景なはずなのに、画面は青く美しく、音や音楽の扱いもいい。そして何より人の心の動きが見えるようだった。観終わって、あぁこれは映画でなくては表現できない世界だった、と気付いた。

先日の都響定期演奏会のソリストはオーギュスタン・デュメイでモーツァルトのト長調のヴァイオリン協奏曲だった。
オーケストラの編成が小さく、僕はゲネプロを客席で聴いた。デュメイが弾くモーツァルト、なんてあまり想像できなかったのだけれど、音楽の動きが手に取れるようだったし、色彩感にもあふれ、素晴らしかった。彼の強い音を近くで聴いたらきっと驚くと思う。彫りの深い表現はとうてい普通ではないけれど、でも彼のしていることは楽譜に書いてあるとおりだと思った。
それにしてもこれを書いたモーツァルトはいったい・・・。

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台風の過ぎた後、湘南の海に出かけた。

先日読んだのは古事記(池澤夏樹さんによる現代語訳) 。あまりのおおらかさに驚いた。現在の東京一極集中の日本に対し、当時の世界のとらえられ方や、その頃の言葉と今の言葉がどのようにつながっているか、様々に見えて興味深かった。例えば、「うるさい」を「五月蝿い」と書くのは、古事記にさかのぼることができる、と知って膝を打ちたくなった。
この夏、松本で読んでいたのはウンベルト・エーコ著「薔薇の名前」。中世イタリアの修道院を舞台にした緻密で壮大な伽藍のような小説は、息詰まる世界と展開だったから、よりいっそう、八百万の神が出てくる古事記のおおらかさにひかれたのかもしれない。

日曜夜のj-waveを聞いていたら("traveling without moving" http://www.j-wave.co.jp/original/travelling/)、Green Day の"wake me up when september ends"が流れた。ドラムスやベースの使い方が実に憎い。その歌詞から

"・・・・

Here comes the rain again
Falling from the stars
Drenched in my pain again
Becoming who we are

As my memory rests
But never forgets what I lost
Wake me up when september ends

Summer has come and passed
The innocent can never last
Wake me up when september ends

・・・・・"

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