音楽

2018年4月16日 (月)

声の奥行き

昨日4月15日の都響は東京・春・音楽祭の公演でロッシーニのスターバト・マーテル。4人のソリスト、エヴァ・メイ(ソプラノ)、マリアンナ・ピッツォラート(メゾソプラノ)、マルコ・チャボーニ(テノール)、イルダール・アブドラザコフ(バリトン)が素晴らしかった。声の奥行きと言ったらよいのか、立体感と言ったらよいのか、あぁそうですよね、本当にそうですよね、と感じた。声に楽器はかなわないけれど、でも目指す方向を明確に示してくれた。メゾソプラノのピッツォラートさんは、歌い終える瞬間、声が文化会館の大ホールに消えていく瞬間もなんとも言えず美しかった。ソロだけでなく、4人や2人でつくる響きも見事だった。

少し勉強してから海へ。行こうとする度に電車が遅れたり、強風だったりして断念していた。だから今日、バスを降りて海が見えた時、胸がいっぱいになった。肌寒く曇っていたけれど、海は海だった。

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2018年4月 3日 (火)

ショスタコーヴィチ

3月20日の都響定期演奏会はインバルの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。月刊都響3月号、増田良介さんの解説には作曲の背景や1942年の初演、楽譜がマイクロフィルムで持ち出され、アメリカでも盛んに演奏されるようになったことが書かれた後、
『バルトークが<管弦楽のための協奏曲>の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、・・・』
とあり、いやいや恥ずかしながら僕は知りませんよ、しかし、と慌てていろいろな人たちに聞いた。「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章、トロンボーンのグリッサンドの後、遊園地のような音楽になったところのヴァイオリンの下降音型がそれ。本当にそのものだ。突然どうして脈絡なく、こんな能天気な音楽が出てくるのか不思議に思っていた。そういうことだったのか・・・。
バルトークはこの曲がもてはやされていることを苦々しく思っていたのでは、と僕は勝手に想像する。彼のアメリカでの晩年を知ると、胸がつぶれそうになる。(アガサ・ファセット著「バルトーク 晩年の悲劇」)

3月26日の定期演奏会の前半はやはりショスタコーヴィチの、ピアノ協奏曲第2番(ソリストはアレクサンドル・タロー)。1番の協奏曲の方が演奏機会が多いと思うけれど、僕はこの2番が好き。バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの演奏を幾度も聴いて、曲とその演奏が切り離せなくなってしまった。
ファゴットの、いかにもファゴットらしい主題の6小節の前奏の後(どうして6小節なんだろう、4小節+2小節・・・)、ピアノが始まる。ヘ長調だ。ヘ長調のピアノ協奏曲は珍しい。すぐ思いつくのはガーシュイン。モーツァルトには何曲かあるけれど。
ショスタコーヴィチらしくなく、この曲には皮肉がない。大きな展開もなく、少さな変化を伴いながら同じ流れの中にずっといる。そういう意味ではシューベルトのようだ。特に第2楽章は美しい。ピアノが旋律を左手の3連符で伴奏する書き方は、ベートーヴェンの月光ソナタを連想させる。第1番のピアノ協奏曲の冒頭がベートーヴェンの熱情のパロディであることは「よく知られている」と思うけれど、この協奏曲はパロディというより、ベートーヴェンへのオマージュのように思える。終楽章には7や9の変拍子が出てくる。たまたま日曜日夕方のラジオからブルガリアのダンスミュージックが流れ、それも7拍子だった。DJのバラカンさんがこの7拍子は確かに踊れそうです、と言っていた。聞きながらショスタコーヴィチの協奏曲のことを思った。

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亀山郁夫さんが昨年、ソヴィエト体制下の芸術家たち、というテーマで行った講演を聞いた。ショスタコーヴィチに関しては5番の交響曲の終楽章を取り上げ、金管楽器で演奏される冒頭の主題が、カルメンのハバネラから来ていること(下降形の旋律の後、調性が明るくなるところ)、そしてその部分の歌詞は・・・、というものだった。
ショスタコーヴィチの4番の交響曲はとうてい分かりやすいとは言えない。それを踏まえると5番の終楽章が延々と華々しく書かれているのは、決して作曲家の本心ではなく、こう書けば当局は喜ぶんでしょ、という痛烈な皮肉のように僕は感じていた。真情を担保するために、当時の芸術家たちは「二枚舌」を使った、というのが亀山さんの説明だった。終楽章の主題の基になった部分のハバネラの歌詞はおそらく(間違っているかもしれません)、「prends garde a toi!(用心しなさい!、あるいは、気をつけろ!)」。
想像もできないことだけれど、ショスタコーヴィチが新しい交響曲を発表する時、それは常に注目を集め、同時に政府からにらまれる危険も背負っていたのだと思う。

これはS君に教えてもらった話。エンリコ・ディンドはロストロポーヴィチ・コンクール優勝の後、ロストロポーヴィチ自身の指揮でショスタコーヴィチのチェロ協奏曲を弾いた。演奏会の度に、ロストロポーヴィチは本番前、人目をはばからず号泣していた。その理由は、(自分は亡命したのに)どうしてショスタコーヴィチを西側に連れ出してやらなかったのか、という自責の念だったそうだ。

2018年3月12日 (月)

「ルービンシュタイン自伝」

アルトゥール・ルービンシュタインの自伝を読み終わった。(原題「MY MANY YEARS」、ルービンシュタイン自伝 神に愛されたピアニスト 上・下巻 木村博江訳 共同通信社)
おもしろい・・・、と感じる所に付箋を付けていったら、100ページ以上になってしまった。絶版になっていることを本当に残念に思う。できれば読みやすく活字を組み直して、どなたか再版してくださらないだろうか。書物にこれほど強く励まされたことはない。この本を図書館に返さなくてはならないことを僕はさみしく思う。

時々吐露されるルービンシュタインの率直な考えに加えて、あふれるように記される様々な人物のエピソードが魅力だ。多彩な、ほとんど歴史上の人物たちが生身の人間として、息づかいまで聞こえるように語られる。
信じられるだろうか、ミヨー、サン・サーンス、ヴィラ・ロボス、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ラヴェル、プーランク、サティ、シマノフスキ、ファリャ、シェーンベルク、指揮者ならトスカニーニ、バルビローリ、セル、クーセヴィツキー、オーマンディ、バーンスタイン、ビーチャム、バレンボイム、ウォーレンシュタイン、ピアニストはパデレフスキ、ホフマン、ラフマニノフ、コルトー、ギレリス、リヒテル、リパッティ、ホロヴィッツ、R.ゼルキン、弦楽器はイザイ、ハイフェッツ、クライスラー、ティボー、シェリング、ターティス、フォイヤマン、カザルス、ピアティゴルスキー、フルニエ、トルトゥリエ、・・・。美術や文学ではピカソ、キスリング、トーマス・マン、さらにワーグナーの娘、ココ・シャネル、キュリー夫人、パストゥールの孫、エドワード8世、チャップリン、グレゴリー・ペック、・・・。
こうした話があまりにおもしろいので、僕は人の迷惑も考えず、誰かに会うと前夜に読んだエピソードを話したりした。

プロコフィエフの2番のヴァイオリン協奏曲の初演に立ち会った時のこと。
『ヴァイオリニストが現れた。どう表現したらいいか難しいが、銀行でよく見かける、小切手を現金化するのを待っている男、とでもいう感じだった。しかし協奏曲をしっかり自分のものにしていた。美しいテーマを確固として弾き始め、巧みに展開し、オーケストラはその展開部を明確に気高く際立たせる。これこそ偉大なプロコフィエフの作品だった。音楽には静かで旋律的な流れがあり、いつものような皮肉っぽい展開はまったく見られない。続いて天から降ってでもきたような美しい第二主題が現れた。この気高い旋律線は、どんなにまずいヴァイオリニストも損なうことはできまい。私は興奮し、感動し、プロコフィエフに囁いた。
「ブラームスが書いたといっても通りますよ!まるでブラームスだ!」
セルゲイは歯をすっかりむき出して満面に笑みを浮かべた。
「そう、そう、ブラームスには学ぶところが大きかった!」』

リヒテルは若い頃、オデッサでルービンシュタインのリサイタルを聴き、ピアニストを志した。戦後リヒテルのアメリカ公演が実現し、数日後二人は夕食会で親しく話すことになる。ベートーヴェンのテンポについて口論となり、
『それを聞くと私はジャンプして、私のアダージョ、アンダンテ、アレグレット、アレグロを彼の前で踊ってみせた。そしてプレストに至ってどっと椅子に倒れ込んだ。それが床の上でなくて幸いだった。二人のピアニストが互いに意見を交わし合った素晴らしい出会いの夜として、このときのことはよく憶えている。
 翌日、私は生涯のうちでも最悪の二日酔いのひとつを経験した。医者を呼ばねばならないほど重症だった。症状を和らげる薬をもらい、ドアまで送っていくと医者はちょっと立ち止まり、にやりとして言った。
「おかしな偶然ですね。今朝もう一人ピアニストから呼ばれたんですよ ― リヒテルという名前ですが」』

数々の武勇伝もある。秀逸なものを。
『チリの首都サンチアゴで短く楽しい滞在をしてから、私は小さくてのろい飛行機でペルーのリマへ行った。到着した翌日の夜に、私はベートーヴェンのト長調、ショパンのヘ短調、チャイコフスキーの変ロ長調の協奏曲を、無名の指揮者の下でオーケストラと協演しなければならなかった。ひどい飛行機で七時間も揺られたので、リマに着いたときは半ば死んだようになっていた。
 ・・・私は半ば昏睡状態でベートーヴェンのト長調を弾き始め、なんとか奇蹟的に息を合わせて終えることができた。
「休憩にしますか?」
指揮者が訊いた。
「いや。いま休みをとると、眠り込んでしまって誰にも起こせなくなるでしょう。ですからどうかすぐにショパンを弾かせて下さい」
と私は言った。オーケストラがトゥッティを奏し始めると、私は跳び上がった。演奏しているのはホ短調の協奏曲で、予定されたヘ短調ではない。
「協奏曲が違うじゃありませんか」
私は指揮者に怒鳴った。しかしこの奇妙な男は指揮棒を振り続け、音楽を止めもしないで落ち着き払って答えた。
「ヘ短調の楽譜がなかったので、これにしました」
私はがっくり腰を下ろすと、長いトゥッティのあいだ中ぽかんと口をあけて聴いていた。そして自分の出だしにさしかかると、機械じかけのように手が動き、なんとこのいまいましい協奏曲を終わりまで弾き通したのである。この類いまれな大手柄のあとで、大きくて重たいチャイコフスキーは子供の演奏のようになってしまった。リハーサルが終わると、私は人手を借りて車に乗り、ホテルの部屋まで運ばれた。そしてベッドにもぐり込むと何も食べずに十二時間以上眠り通したのである。コンサートではヒナギクのように爽やかな気分で演奏した。』

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また、
『・・・ステージに上がる十分前に電報を手渡された。
<病気で入院しています。急いでお金を送って下さい ― ネラ>
 私は雷にうたれたように坐り込んだ。考えられる限りの悪い病気を思い浮かべた。耐えがたい不安に襲われた。一分後にはショパンのロ短調ソナタを弾かなければならなかったが、ここでも私の根強いプロ精神が勝ち、私はかつてないほど感情をこめてソナタを弾いた。
 強い感情は、それが愛する者の病や死、耐えがたいほどの嫉妬、絶望的な孤独、悲劇的な出来事のいずれによるものでも、私に良い演奏をさせた。演奏することは、私にとって精神的な救命具(ライフジャケット)だった。コンサートのあいだ中私は全霊を注いで演奏した。二度もアンコールを受けた。しかし控え室で電報を手に坐ると、その場でドレスデンへ発つことに決めた。・・・』

功成り名を遂げた後のこのような述懐に心打たれる。
『夜は私のものだった。家中が寝仕度にかかると、私は馬小屋まで歩いて行き、閉じこもって奇妙な音楽生活に入る。これは私にとって、まったく新しい生活だった。ある意味で、これは意外な新発見だった。単純な事実として私は練習の楽しみを知ったのである。
 読者はご存じだろうが、私の子供時代の練習は、ごまかしとまやかしだった。私は右手と左手で交互に馬鹿げた音を出して、実際はチョコレートや、季節には桜んぼを食べながら小説を楽しんでいた。その後、私は生まれつきの器用さで協奏曲、ソナタ、小品などをすぐに憶えてコンサートで弾いてみせたが、技術的に難しい楽節はペダルを上手く使ったり、激しい強弱をつけた表現で平然とカバーしたので、何も知らない聴衆には私が完璧に弾いていると思われていた。
 数多くの作品を、数多くのコンサートで何度も繰り返し弾いたので、とくに努力しなくても弾くたびに上手になっていった。皮肉なことに、私がピアニストになった当初からマスコミの厳しい批評は、ベートーヴェンに深みが足りないとか、シューマンのアプローチに詩的な要素が不充分であるとか、ショパンの扱い方に無味乾燥なところがあるといったことに終始し、決して、一度たりとも私の技術的完成度に疑問が投げかけられたことはなかったのである!というわけで、私のピアノテクニックのみじめな状況をしっているのは自分しかいない、と認識せざるを得ない時点にきていたのだ。
 サン・ニコラで過ごした夜の時間は、私の芸術に対するアプローチの転換期になった。私はショパンの三度のエチュードをペダルを使わずに明確にきちんと弾いて、しかもあまり疲労を感じなかったときには、突如として、強烈な肉体的満足感を覚えた。私は、これまで忌み嫌っていた左手の指の練習を真剣に始めた。全部の音が明確に聴こえ、ぐずな第四指がしっかりキーを押さえるのを自分の耳で確かめながら弾いた。私は情けない左手にひたすら尊敬と自信を勝ちとるために、つまらない楽節を延々と繰り返し、第四指が生命を持ち、自立していくのを感じとった。
 私は自分のレパートリーから最もよく弾く曲を次から次へとひっぱり出し、長い間無視してきたすべての小節に最大の注意を払った。ときには朝の二時、三時まで続けながら、こういった作業を何夜か行ううちに、夜ごと五、六人の人が馬小屋の周りに、静かに坐り込むようになった。私の単調な練習でも音楽に聴こえているという事実は、自信さえ与えてくれた。』

ルービンシュタインを縦糸にして、再度20世紀史を見るようだった。世界はまるで違って見える。はなやかな人付き合い(大変もてたそう)、輝かしいキャリア、家族、一方で戦争や不景気、政治など抗しがたい世界の大きな動きとの関わりも描かれる。恵まれたほんの一握りの人しか経験できないような世界を垣間見られることだけでなく、一人の人間がこれ以上ないほど生き生きと自分の人生を生きた、そのことに深く魅せられるのだと思う。
本書は多くの分量があり、しかもそれはルービンシュタインの記憶による(驚くべき記憶力だ)。彼の中をくぐり、きっと様々な人々にも語られたエピソードは多分おそらく、脚色されている。だからいっそう目の前で繰り広げられているような臨場感があるのだろう。

ところで、21世紀に生きている僕は充分に生きているだろうか。自分の人生の10分の1も生きていない気がする。もう少し勇気を出して、まずこの10分の1を生きてみよう。

2018年2月26日 (月)

湧き上がってくる音楽を

2月25日、ローエングリンの最終日。短くはないし、毎回それなりの覚悟を持ってオーケストラピットに入っていた。今日は一つ一つの音符を弾き終えていくことをちょっとだけ残念に思いながら、惜しみながら弾いた。
初めて弾くワーグナーのオペラは密度の高い音楽だった。歌詞を理解できていたらもっと感じることはあっただろう、そうでなくても様々なパートの間で複雑に絡み合う音符を、自分の働きを踏まえながら弾いていくのは、いつも違う世界が見えてくるような試みだった。音楽は場面を変えながらどんどん進んでいく。一つのフレーズが終わる時に新しいフレーズが始まる、だからそのフレーズはどのように次につなげていくのがよいのか、こんなことを感じながら弾くのがオペラの醍醐味なのかもしれない。さらに歌が入ってくると、例えばそこに一つ入る四分音符はどんな性格を持ち、どんな速さあるいは遅さが必要で、だからどんな長さになり・・・。横に広く、楽器の配置や距離がいつもと違うピットで、少しずつ全体の音がなじんでいくのを体験するのは楽しかった。本番回数が多いオペラならではのことかもしれない。

指揮は準メルクルさん。リハーサルは言葉少なで短かった。指揮自体がよく語るので言葉はいらなかったのだと思う。本番中も彼の指揮とオーケストラが話をしているようだった。そう、演奏中に言葉を交わすことはほとんどないのだから、できることなら練習も言葉が少ないほうがいい。音楽という言葉がある。
美しく的確な指揮は音楽の色や動きまで見えるようだった。楽譜から湧き上がってくる音楽を湧き上がるままに示した、そんな気がした。それは誰のものでもない音楽だった。何かを演奏者に強いることはなかったし、それぞれの奏者の大切な場面を過ぎるとそれに対しての謝意があった。自由だった。長かったはずの仕事はあっという間に最終日を迎えていた。

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2018年2月18日 (日)

受け継ぐもの

都響はオペラ、ローエングリンの最中。昨日からオーケストラピットに入っている。

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ワーグナーのオペラは初めて。楽員の間で、あるモチーフがチャイコフスキーの白鳥の湖に似ている、という話になった。その他にも弾いているとマーラーやR.シュトラウスの曲はここから、と感じるところがたくさんある。
ローエングリンの初演は1850年。僕の勝手な想像で、ワーグナーのオペラは音楽的な内容はもちろん、規模など様々なことを含めて当時の最先端だったのだろう、と思う。規模の大きな音楽が、しかも精緻に書き込まれているのに驚く。それはきっと続く作曲家たちに強い影響を与えたに違いない。ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウス、そうした人たちは一人一人がとても大きい。でも彼らも受け継ぐものがあり、そうして発展したものを今の僕たちは享受しているのだと思った。

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2018年2月 8日 (木)

シューベルト

海へ。海の上に雲が出始め、雲の透き間には短い虹も見え、振り返ると山側には黒い雲がかかっている。夕立の時の雲と同じ、でもまさか、と思っていたら雪まじりの雨が降り始めた。空気が動いているときの景色はドラマチックだ。夢中で写真を撮っていたら、シャッターを押せなくなるくらいの寒さになっていた。

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「群像」2018年1月号に掲載されたヴァレリー・アファナシエフと吉増剛造さんの対談から。
『先ほど吉増さんが触れられたシューベルトの最後のソナタは長い曲なので、構成をまとめるのが難しいと言う人がいます。でもわたしは、個々の要素をうまく一つにまとめようとは考えないほうがいいと思います。一度自分の中で作品の和声感を完全に感じることができるようになれば、好きなように、自由に弾いていいんです。これは矛盾した結論と思われるかもしれません。しかし、いったん自分の中で空間と時間の使い方が確立されてしまえば、形式は自然と現れるので、その中で自由にいろんなものが作れるようになるのです。』
『メロディーとハーモニーの関係は音楽家がもっと真剣に考えなければならない問題ではないでしょうか。このところよく思うのですが、メロディーは、いつも邪魔されるというか、中断されてしまう危険をはらんでいます。しかしハーモニーは、いつもそこに存在しており、それだけで完璧なものです。実際にコンサートホールで演奏しているときにも、ハーモニーの働きによってメロディーそのものが横に延ばされ、時間を拡張されたハーモニーになってくるときがあります。そうなると、もうわたしではなく、コンサートホール自体が演奏しているようになる。演奏していると、そんなことが起こるのです。』

演奏という感覚的なことを言葉にするのは難しい、でもアファナシエフはまさに言いあらわしていると思う。新日フィルにいた頃、彼が指揮する演奏会があった。プログラムはシューベルトの「未完成」とブルックナーの9番(どちらも未完の曲だ、でもどちらも見事な曲だ。)。指がぬっと出てくるような指揮は独特だったけれど、音楽はよく伝わってきた。

『・・・シューベルトは決して音楽に成長を強いようとしたりはしないんです。言うなれば、一人の人間の中から何かが自然に成長していく。だから作曲するときにも、ずっとこのままだと単調だから、ここで違うフレーズを入れよう、などとは考えない。・・・』(アファナシエフ)

昔クリスチャン・ツァハリアスにシューベルトの変ロ長調のピアノ三重奏のレッスンを受けた時、彼は「シューベルトの音楽は、今ここにいることの心地よさだ」と言った。その言葉に目を開かれるようだった。このピアノトリオも、他の多くのシューベルトの作品と同じように、旋律が何度も何度も繰り返されていく。転調やモチーフの小さな変化は伴うけれど、ベートーヴェンのように大きな展開をしたり、その恩恵を受けた壮大な結末を迎えたりはしない。旋律は湧き続ける泉のように自然で美しく、どんな小さなモチーフにも、いつまでも手元に置いて弾いていたくなるような愛らしさがある。こうした音楽に接するといつも、書いた人に畏敬の念を覚え、同時にこんなに素晴らしいものを残してくれたことにただただ感謝したくなる。こんな音楽を書くことができたなんて。

アンドラーシュ・シフがフォルテピアノで録音したシューベルトの即興曲、ソナタ(D894、D960)のCDがある。シフが書いたライナー・ノーツから。

『・・・19世紀には(さらに後になっても)、シューベルトはビーダーマイヤー風にセンチメンタルで無邪気に演奏されがちであった。彼のドラマチックな才能、その音楽の暗い力と計り知れない深さは、正当には認識されていなかった。爆発力と力強いクライマックスだけでなく、シューベルトが他の誰にも比べられないほど我々の心に迫るのは、静かな、最も静かな瞬間なのだ。彼の楽譜ではpとppが支配的である。pppも稀ではない。・・・』

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僕がたった一冊持っているピアノソナタの楽譜が、シューベルトの最後のソナタ(D960)だ。初めて楽譜を開いた時、冒頭がピアニシモで始まることと、重ねられている音の多さに驚いた。今日楽譜を開いて、冒頭だけでなく、第2、第3楽章もピアニシモで始まることに気付いた。これほど規模の大きなソナタがピアニシモで始まることは普通ではない。きっと大切なことは規模ではなく、まるで自分一人のために書かれたかのような親密さなのだと思う。

ルービンシュタインがシェリング、フルニエと録音したシューベルトの変ロ長調のトリオの素晴らしい録音がある。ライナー・ノーツはリン・S・マッツァが著し、書き出しには様々な人の言葉がある。
『シューベルトは、死というものにまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・自分が死ぬとき、私は周りに誰もいてほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えていく動物のように、私は死にたい ー たったひとりで」(ルービンシュタイン)
『人生は時によって、われわれの愛や成功や自由や健康や幸運を奪い取ってゆく。しかしながら人生はわれわれの思考、想像力、あらゆる芸術や本や花への愛、そしてあらゆるものへの興味を奪うことはできない』(ルービンシュタイン)
『音楽は、人間本性がそれなしではすごせないようなある種の快楽を作り出す』(孔子)
『シューベルトのトリオ(Op.99)を一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)

こんなに印象的なライナーノーツはそうない。それぞれの言葉の出典が記されていないことを残念に思う。もしかして何かわかるかもしれないと思い、ルービンシュタインの自伝を図書館で借りてきた。生き生きとした冒険譚のようなこの本の後ろには、今は使われなくなった図書カードが挟んであった。日付は全て昭和だった。

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2018年1月24日 (水)

言葉

トゥーランガリラ交響曲の第6楽章「愛のまどろみの庭(Jardin du Sommeil d'Amour)」は弾くのにけっこう大変な曲で(多くの弦楽器奏者に同意して頂けることと思います。コントラバスは休みです。)、そんな時は楽譜に書かれたフランス語を見つめたりしていた。「Jardin」も「Amour」も見たことのある言葉だったけれど、はて「Sommeil」?
家で辞書をひくと、眠りや睡眠を意味する言葉だそうだ。なるほど。「愛の眠りの庭」と訳しては感じがでないものね。用例に進むと「premier Sommeil」は「寝入り端(ばな)」とある。ふうむ。直訳すると「最初の眠り、第一眠り」かな。でも英語で「first sleep」とはきっと言わないだろうし、同じラテン語由来のイタリア語やスペイン語なら「プリモなんとか」と言ったりするのだろうか・・・、と考えたりした。言葉は楽しい。

先日電車に乗っている時、僕の前に立った女性が使いこまれたネパール語会話集のような本で熱心に勉強を始めた。きっとすでにネパールに行ったことがあり、そしてまもなくまたネパールに出かけるのだろう、そんな感じがした。その女性が僕の隣に座ったのでその本を横目で見ると(ごめんなさい、とても興味深かったのです)、まるで知らない不思議な文字と、その読みと、日本語訳が記してあった。もし明日からネパール語で話さねばならないとしたら、それは大変なことだと思った。

普段の生活はもちろん日本語を使い、時おり、英語やヨーロッパの言葉が入ってくる。でも当たり前のことだけれど、世界には僕のまったく知らない、文字も文法も表記も想像できないような言葉がたくさんあるんだな、と思った。日本にいるとなんだか右も左も英語英語という感じで、しかもそれが世界共通語みたいに扱われているのは少し残念な気がする。僕の貧しい経験から言えば、聞いていて楽しいのはイタリア語、美しいのはフランス語、演説に向いていそうなのはドイツ語、「ありがとう」しか知らないのはフィンランド語、ロシア語・・・。多くの言葉がある世界はきっと、豊かな世界だと思う。名古屋を離れて20年以上、僕の名古屋弁はすっかりいんちきくさくなってしまったけれど。

テレビのクイズ番組でアイスランドを取り上げられたとき、アイスランド語はこの1000年変わっていない、とのことだった。信じられない、本当かな。日本で言うとたとえば、古事記は無理でも源氏物語なら誰でもすらすら読める、ということになる。もう一つ聞いたところでは、彼の国では外から来た言葉は自国語にできるだけ訳して使うそうだ。(僕は中国語をほとんど知らないけれど、例えば中国語の宇宙ロケットを調べてみると「宇宙火箭」と書くそう。こんな感じだろうか)
日本語にはカタカナという便利なものがあるせいか、外来語があふれているし、しかもそれが日本語化して新たな意味を持ったりする。釣りに夢中だった頃不思議だったのは、ブラックバス釣りをする人たちがカタカナ言葉をよく使うこと。例えば「昨日のプラクティスでシャローにネストが見えたので、今日はヘビータックルでボトムを・・・」とか。

昔イタリアに行ったとき、イタリアの悪ガキたちが僕の読んでいる文庫本を見て日本語の話になり、
「日本語には3種類の文字があって、ひらがなが50文字、カタカナも50、漢字は」
「それも50でしょ」
「いや、何千もある」と言ったら、正気か、という顔をされた。

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毎年暮れの放送を楽しみにしている沢木耕太郎さんのラジオ番組「Midnight Express(J-Wave)」、昨年も素晴らしかった。番組の終盤に父上の句が紹介され印象深かった。(放送から起こしたので、文字使いが違っているかもしれません)

『聖夜なり 雪なくば せめて星光れ』
『差し引けば 幸せ残る 年の暮れ』

沢木さんは昨年7,8月、執筆のため毎日ハワイ大学の図書室に通ったそうだ。夏休みで閑散としたその図書室には、沢木さんと同じように毎日姿を見せる二人がいて、彼らは窓際の席に並んで座り、休憩もなく朝の9時から13時まで、中国語の方言らしいものを教え教えられしていた。その東洋人の老人と女子学生の真剣な後ろ姿を、『滅多に見られない美しいものを見た気がした』と沢木さんは言った。確かに、それはとても美しい光景だっただろう、と思う。

2018年1月22日 (月)

アナログレコード

正月帰省した折りに、久しぶりにLPレコードを何枚も聴いた。
驚いたのは、最近CDで買った録音が昔から実家の棚にあったこと(例えばズッカーマン&バレンボイムのブラームスなど)、もう一つ本当に驚いたのはレコードの音が良かったこと。このことは言い古されたことで興味深くもなんともないけれど、それでも驚いた。家にあるレコードプレーヤーはオーディオファンが憧れるような名器ではなく、手入れもろくにしないまま30年くらいたっている。それに僕が生まれる前からあるレコードを乗せて聴くと、これ以上のものはないように思われた。幸せな時間だった。
80年代レコードがCDに席巻され、さらにSACDという規格が出て(あまり普及していない気がする)、ハイレゾと呼ばれるものが今のはやりのようだ。でもその技術の素晴らしい進歩のようにみえたものはなんだったのかな、と思わずにいられなかった。

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CDの規格を作る時に、人間の耳に聞こえないであろう高い音域をカットした、というのはよく知られた話だと思う。それがどうもよくない、というのでその高い周波数域を入れたのが「ハイレゾ」だと僕は理解している。でもそれはそもそもレコードに入っていたものではないだろうか?ただし両者の音の違いにはきっと他にも多くの要因があり、単純な比較は難しいのかもしれない。なんといってもデジタルオーディオは便利だ。でも不便で、大きなレコード盤をターンテーブルに置き、ホコリを取り、針を降ろすといった儀式的なことすら必要なアナログレコードの方が楽しい、というのは本当におもしろいところだと思う。
昨年12月8日の日経新聞夕刊に掲載された大橋力さんの記事の中から

『CDの規格を決める際に高周波を含む音と含まない音を10~20秒間交互に被験者に提示して違いを判別する心理実験が行われました。その結果、20キロヘルツ以上は違いを判別されないとされました。脳を同じ条件で一定の反応を示す機械のように扱っています。しかし脳の状態は40秒以上高周波にさらされたとき変容し、影響が100秒以上尾を引くことがわかりました。心理実験はいわば「心」に違いを尋ねる実験ですが、私たちの陽電子放射断層撮影(PET)の実験は「体(脳)」に尋ねました。
 米生理学会の学術誌は「最も読まれた論文」を毎月公表しています。2000年のPET実験論文は今もベストテンに入り読まれ続けている。CDを超える音を求める昨今の高音質のハイレゾリューション・オーディオのブームの火付け役にもなりました。でも、私は不満です。
 その後の研究で2つ新たなことがわかりました。まず高周波を感知するのは聴覚ではなく体表面の皮膚であるらしいこと。2つ目は、特定の高周波帯域では脳の活性を抑える負の効果もあることです。ハイレゾについて、こうした事実を踏まえる必要があります。』
『人工知能が人間の知能をしのぐといわれますが、この世界には機械では置き換えられない別の情報領域があります。かつて人類は森で暮らし豊かな音に囲まれていました。今や人工物であふれる生活を送っています。音と人間との関係からみて、私たちの科学技術文明の今後について、今とは違うもう一つの戦略がありえるのではないかと思います。』

理屈で考える以前に、人間にはもともと備わった大きな力があるのではないか、と最近感じるようになった。それは多くの情報を取り入れ、頭ばかり使っていると見えにくくなってしまうものではないだろうか。
諦めていたレコードプレーヤーがまた欲しくなった。一番の問題はレコード盤を置く場所・・・。

2018年1月20日 (土)

トゥーランガリラ交響曲

1月18日の都響定期演奏会は東京文化会館で大野和士さんが指揮するトゥーランガリラ交響曲。よい流れがあったのではないだろうか。オンド・マルトノについて原田節さんに伺った。スピーカーのように見えるものは、銅鑼だそうだ。シンバルくらいの大きさ。これを響かせるならきっと倍音が上まで伸びますね、と言ったら、そのとおりで、オンド・マルトノの音を聞くと気持ちが良くなって眠くなる、とのことだった。昨年の日経新聞に大橋力さんによるハイパーソニック効果についての興味深い記事が載っていたことを思い出した。(耳に聞こえない高い音も人間に影響を与えるのではないか、というもの。以前から言われてきたLPレコードとCDの音の違いも、この高い音の成分が関係しているのでは、と思う)

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昨日19日は仙川へ散髪に。それからアンカーヒアで昼ご飯。久しぶりにアンカーの唐揚げを食べた。来月から改修のため2ヶ月ほどお店を閉めるそう。いいタイミングで行けてよかった。仙川に住んでいた頃の食生活はアンカーの唐揚げ、仙川とんかつ、家族庵(経営が変わってしまったけれど)のけんちんうどんがローテーションの3本柱だった。

今日は東京芸術劇場でトゥーランガリラの2日目。2日目の方が緊張した。「愛のまどろみの庭(Jardin du Sommeil d'Amour)」という題名のついた第6楽章は、オンド・マルトノと弦楽器が弾くゆっくりとした旋律(他にあまりないゆっくりとした長い長い旋律だ)に様々な楽器が不思議な感じで関わってくる。特にピアノを聴くと、深々とした森の中にいて鳥の鳴き声を耳にしているようだ。それにしてもよくこんな壮大な曲を書いたものだと思う。メシアンが書くまで世界にトゥーランガリラ交響曲はなかったのだから。
楽譜はレンタルで、おそらく日本の中で使われているものと思うけれど、いろいろな書き込みがあり、それらに助けられたり、もう少しすっきりしていた方が見やすいと思ったり、その時々の様々な様子がうかがえるような気がした。今回の楽譜、ところどころ締まりのないおたまじゃくし(音符)がガイドに書いてあり、見てすぐぴんときた。ずいぶん以前、九響で弾いた時の僕の書き込みだった。

2017年12月31日 (日)

まじりけなく

以前この日記に少しだけ書いた新しいエンドピンのストッパー、こんな理屈による。エンドピンは垂直ではなく、ある角度をもって床に接する。だからチェロの表板と裏板には異なる方向の力がかかるのではないか。ではエンドピンが常に床面と垂直な関係になるようにしたらどうだろう。父にこのアイデアを話したら、仮想的にエンドピンは点で床と接するから角度は関係ないのでは、と言われた。なるほど確かに。

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ハンズで材料(15ミリ厚のサクラ材)を加工してもらい、組み立てた。弾いてみると、明らかに響きが多い。角度の問題なのか、床から浮いた充分な厚さの板がうまく共鳴しているのかはわからないけれど。

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何年も左右非対称のテールピースを使ってきた。それは低い弦がよく鳴るように、という願いから。半年前、重野さんの息子さんが九州産の柘植で作ったテールピースを見て、是非これにしようと思った。材料の密度と加工の素晴らしさはほれぼれするようだ。実際代えてみて、低音は前より出るようだし、音色もはっきりしている。
彼はヴァイオリン、ヴィオラの柘植のあご当てと、さらにそれを楽器に固定するための金属部品も作っている。通常クロムメッキの真鍮製のその部品を、チタンの削り出しで作ったら音がよいそうだ。テールピースを削り出す前の材料を見せてもらったけれど、あの硬さの塊から形を作るのも、チタンの棒から部品を削り出すのも、大変な技術と根気だと思う。

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エンドピンは鉄のエンドピンと、時々真鍮のエンドピンを使ってきた。鉄の音はまっすぐでよく飛ぶけれど、音が平らになったり響きがほしくなったりすると真鍮にし、また鉄に戻し、そんなことを繰り返してきた。以前8ミリ径のエンドピンで鉄を芯にして周りが真鍮、というものを使っていたことを思い出し、それの10ミリ径を見附さんにお願いした。まだ広いところで試せていないのだけれど、響きも多く、低音もよく出ているようだ。

楽器のどこかに少し手を入れても、弓を変えても、エンドピンを変えても、弦を変えても音は変わる。それは本人にとって割と大きな問題ではある。はたして実際に音楽をする際にはどうなのだろう。今の僕は楽器や弓から教えてもらうことが多い。いったいこの楽器は、この弓はどんな音がするのだろう、と感じながら弾くようにしている。

僕のあこがれるあるチェリストは、太く存在感のある低音が魅力的だ。でも彼がそのチェロを手に入れた時のことを知る人から、当時鳴らない印象だったという話を聞き、意外な気がした。低音が出るように、と思って弾き続けた結果その音になったらしい。
もう一人僕のあこがれるチェリストは、いぶし銀の音だ。派手さはないけれど、あぁその音はどんな音なんだろう、もっと聴いてみたい、と思わせる力がある。

本当に大切なことは音楽と心と楽器と体が調和していることだと思う。言葉で書くほど易しくない。できることなら音楽と心と楽器と体の間に何もまじりけなくいたいと思う。

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