" the best thing in the world "
1月14、15日の都響サントリーホール公演はスラットキンさんの指揮でラフマニノフの交響曲第2番など。
僕が名古屋にいた中学か高校生の頃、レナード・スラットキン指揮セントルイス交響楽団の演奏がFM放送で流れ、曲は忘れてしまったけれど、カセットテープに録音し(エアチェック、と言っていた)、繰り返し聞いたと思う。
当時チェロの中島顕先生から、セントルイス交響楽団のKさんご夫妻がスラットキンという素晴らしい指揮者のもとで意欲的に活動されている、と聞いたことを覚えている。
それから40年近くたち、スラットキンさんにお会いする機会が訪れた。
都響楽員への紹介と短い挨拶の後、すぐラフマニノフのリハーサルが始まった。まずはオーケストラのお手並み拝見、だったと思う。止めずに50分近い交響曲を通した。
指揮台の上のスラットキンさんは言葉少なだった。何かを物語ることも、演奏上の説明で比喩を用いることもなく、発せられるのはいつも、端的で短い指示だった。指揮者のちょっとした振る舞い、一挙手一投足がどれほどオーケストラに影響を与えるのか、熟知されているようだった。
オーケストラの指揮者はシェフと呼ばれることがある。何人もの料理人を仕切る料理長。素材の扱いや、包丁の入れ方、火加減、塩加減、・・・、様々な手作業が積み重なって素晴らしい料理が出来上がるのだろう、と思う。
指揮者には目指す音楽があり、100人近いオーケストラを導いていく。それぞれの奏者が目の前の音符をどう弾くのか、強いのか弱いのか、他のパートとどう関係しているのか、矢面に出るのか支えに回るのか、そうしたことに迷いなく集中し、地道で精度の高い作業が積み上がった時、信じられないほど素晴らしい音楽が現れるのかもしれない。
ラフマニノフの2番、第2楽章の中間部はオーケストラの技量を問う。弦楽器16型の大きな編成で、駆け巡る八分音符の精緻なアンサンブルを実現するのは、1人で弾くのとは別の難しさがある。スラットキンさんは互いによく聴くことを求めた。細かい指摘はせず、何度か繰り返し、機が熟するのを待っているように見えた。
リハーサル中はあまりしゃべらないけれど、終わるとよく楽員とコミュニケーションをとっていた。
2日目のリハーサルが終わった時、まったく持ち重りのしないバランスで作られたご自身の指揮棒について触れ、良い指揮棒があれば指揮はとても易しい(very easy)、と茶目っ気たっぷりに仰っていた。(決してそんなことはないと思う)
長大なラフマニノフの2番、僕は20年以上様々なオーケストラで様々な機会に弾いてきたけれど、冗長に感じられ、どうも好きになれなかった。ラフマニノフの音楽はロマンティックである、という先入観にとらわれていたのかもしれない。正直なところ、この交響曲の綿々と続く長い旋律より、同じ作曲家のチェロ・ソナタやピアノ協奏曲、晩年の交響的舞曲のそれの方がずっと魅力的だ。
スラットキンさんはその長い旋律が重くならないよう、いつも先へ先へと振った。(一つ一つのフレーズを全て歌い込むとどうにもならなくなる)その先でバス(和声を支える低音)が動く時に、初めて彼も動いた。
表面に現れている旋律ではなく、支える構造を感じられるようになると、曲は違う姿を見せ始め、今まで自分は見誤っていたことに気が付いた。豊かで見事な作品にようやく触れることができた幸せな時間だった。
1月14,15日公演の前半にはウォルトンのヴァイオリン協奏曲があった。
ソロの金川真弓さんは、2日間のリハーサルでもパート譜を開くことなく、オーケストラとの複雑な絡みもすっかり体に入っていて、切れ味鋭い見事な演奏だった。きっとすでに何度も、と思い尋ねてみたら、そうではなく、もう一度驚いた。
1月19日の都響鹿児島公演は秋山和慶さんが指揮される予定だった。1月初めに大きな怪我を負われ、急遽スラットキンさんが振って下さることになった。お二人はバンクーバー交響楽団時代からの知り合い、とマネージャーさんから伺った。
鹿児島公演のメインはシベリウスの交響曲第2番。長大で饒舌なラフマニノフとは対照的に、こちらは音数が少なく、しかもユニゾンが多い。何度も弾いてきたけれど、どう捉えたら良いのかわからない、という感覚はラフマニノフと同じだった。
この公演のリハーサル時間は限られていて、そんな時もスラットキンさんの采配は見事だった。
終楽章の最後、低弦にはヴァイオリンやヴィオラと音量の指示が異なる部分があり、そのことを尋ねると、すぐピアノに向かい、そこはこうなっているよね、と示して下さった。もちろん全曲にわたって緻密に把握していらっしゃるのだろう。適切なタイミングで明確な指示がある背景には、確かな裏付けがあることを思った。
スラットキンさんはラフマニノフもシベリウスも暗譜で指揮された。生き生きとした眼がいつも印象的で、音楽が変化するときに現れる表情の変化に、80歳になった時、音楽はどのように感じられるのだろう、と思った。
ラフマニノフの2番では、50分間ひたすら下降する旋律を弾く。一方シベリウスの2番は上行音型が印象的だ。演奏会場の川商ホール(鹿児島市民文化ホール)を出るとすぐ、桜島が見える。鹿児島には鹿児島の風があり、ニ長調の明るい響きと、湧き上がるような上行音型に、初めて心動かされた。帰京する飛行機に乗っても頭の中で鳴っていて、忘れられない公演となった。
スラットキンさんはオーケストラに何かを強いることがなかった。長大な曲の、大きなクライマックスを迎える時でさえ、強く、きつく追い込んでいくことはなかった。オーケストラの音はいつも溌剌として、鮮やかだった。
サントリーホールでのゲネプロが終わった時、音楽をすることは "the best thing in the world"、"Anyone can do." と仰った。シンプルな表現だけれど、本当にそうですね、と思った。
数日前、秋山和慶さんの訃報に接した。まさか、と思った。
少し前、僕が教えている大学オーケストラ(音楽専攻ではない)を秋山さんが指揮された。曲はチャイコフスキーの4番で、リハーサル時にあるパートの学生がうまくできないことがあった。どうなることか、とはらはらしながら見守っていたのだけれど、秋山さんは感情や声を変化させることなく、もう一度、もう一度、とその人ができるまで繰り返し指揮された。その姿は強く印象に残っている。
音楽専攻ではない大学オーケストラを指揮される時も、職業音楽家のオーケストラを指揮される時も、何も変わらなかった。謹んでご冥福をお祈りいたします。