数年前、小さな演奏会でバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲を聴くことがあり、子供の頃からよく聴いてきた曲の素晴らしさに、初めて気が付いた。
1983年の秋、僕たちは東ドイツにいた。おそらく当日の昼間は聖トーマス教会を訪れ、夜は演奏会だったのではないかと思う。演奏会のプログラムには二つのヴァイオリンのための協奏曲が入っていた。
その晩、ホテルの部屋のラジオから二つのヴァイオリンのための協奏曲が流れてきた。中学1年だった僕はHさんと同室で、他にも何人か高校生がいたと思う。旅行後Hさんが文集に、バッハがいたライプツィヒで彼の協奏曲を聴くことは涅槃の境地であり・・・、と書いたことを覚えている。
今年の7月、Hさんと同じ演奏会で弾いた。その時、二つのヴァイオリンのための協奏曲の素晴らしさや、ライプツィヒの夜のこと、そして、あの旅行は演奏を職業とするようになった我々にとって、大きな原体験になったかもしれませんね、という話しをした。

1983年と85年の2度、僕は当時の東ドイツへの演奏旅行に参加した。小学生から高校生、そして幾人かの大学生や大人が加わった弦楽合奏で、83年は主に東京と名古屋、85年は東京、名古屋、京都の子供たちで編成されたと思う。
当時の世界がそうだったように、ドイツも東のドイツ民主共和国と西のドイツ連邦共和国に分けられ、西の人が東に入ることはできても、逆はとても難しかった。携帯電話もインターネットもなかった時代、政治体制の異なる国の情報は本当に少なかった。たまたま「なるほど!ザ・ワールド」というクイズ番組で東ドイツのことが取り上げられ、ビデオに録画して何度も見た。東ベルリンにはペルガモン博物館があり、お土産はくるみ割り人形(あごにくるみを挟んで割るのだけれど、その動くあごのせいかちょっと顔が怖い)がいいらしい、ということを知った。
その年の9月、大韓航空機が撃墜され、影響で僕たちが乗るはずだったソヴィエト国営航空アエロフロートの成田空港乗り入れが禁止された。今でも信じられないようなことが起こるけれど、民間機が撃ち落とされるなんて本当に大変な時代だったと思う。演奏旅行に出かける直前、調布のグリーンホールで演奏会が開かれ、終演後の壮行会でマイクを持ったHさんが、「緊迫する国際情勢の中で・・・」と切り出し、皆がどっと反応したことを覚えている。
見知らぬ国に子供たちが何十人も出かける、そのことを深く心配する親はいなかった。大げさに言えば、冒険に出かけようとする子供たちの背中を押してくれていたのだと思う。この国にエネルギーがあふれていたのかもしれない。

当初予定されていたモスクワを経由して東ベルリンへ、というルートは変更され、英国航空でアラスカのアンカレッジ、ロンドン、西ベルリン経由、という長大なものになった。当時、西側の飛行機はシベリア上空を飛行できなかった。
ロンドンでは空港の外に出て、ヘンリー8世の広大な宮殿を見、それから西ベルリンへ飛んだ。西ベルリンの街は活気があり、ベンツがタクシーにも使われていることに驚いた。バスに乗り換え、検問所に向かった。バスが止まるとカーキ色の服を着た、にこりともしない軍人が入ってきて、全員のパスポートを取り上げていった。再びバスが動き始め、ようやく東側に入ると、行きたい人は外のトイレに、と言われた。どんな建物だったのか思い出せないのだけれど、薄暗い建物のトイレに入ると、便器が詰まっているらしく(僕はそれまで詰まった便器を見たことがなかった)、茶色い水には吸い殻が浮かんでいた。どうやら大変な所に来てしまったらしいと感じた。
開高健さんの小説「夏の闇」の中にこんな一節がある。
『・・・昔はここはこの国の壮大、華麗な首都であった。市は戦争で徹底的に破壊されたが不死身の精力で再建され、そのことでよく東京とならんであげられる。しかし、市は、”東地区”と、”西地区”に二分され、境界線にはベトンの長い壁が張りめぐらされ、首都ではなく、国際政治のショーウィンドーとなった。・・・
たまたま私は壁が構築された直後に東から西へ、できたばかりの壁のなかを歩いてぬけでたことがある。スーツケースをさげて細い通路を歩いていくと検問所の小屋があり、きびしい、鋭い顔をした無口な兵がパスポートを厳重に調べた。パスポートを返され、スーツケースを持ちあげて歩きだすと、とつぜん白い無人の道を歩いていることに気がつくが、厖大な影からふいにぬけだしたと感ずる。・・・』
(戦後、ドイツは東と西に分けられ、さらに東の中にあるベルリンは米・英・仏・ソの4カ国の占領地域に分けられた。後に米英仏の占領地域は壁で囲われ、東の中に浮かぶ西の孤島のようになった。)

最初に訪れたのはハレの街だったと思う。ホテルに着き、部屋の外に出ると濃い緑色の、がらんとした廊下が広がっていた。
事前の説明会で東ドイツの水は炭酸水と聞き、毎日サイダーが飲める、と僕は楽しみにしていたのだけれど、冷蔵庫に入っていたのはラベルの無いずんぐりとした緑色の瓶で、口にすると苦いというのかえぐいというのか、なんとも言いようのない味だった。説明会ではトイレの紙がかたい、ということも聞いていて、そちらは全員が日本から持参し、問題なかった。水は残念だった。
確かロストクでの公演だったと思う、放送用にテレビカメラが入った。本番中にカメラマンが何かを口走ったことに指揮のTさんが怒り、なかなか舞台に出てこないことがあった。
子供の頃、きれいに色分けされた地球儀を回しながら、この知らない国々はいったいどんなところなんだろう、と思った。東ドイツは、想像していたような華やかな国ではなかった。テレビはブラウン管むき出して、白黒のこともあったし、デパートに入っても、商品の種類は少なかった。でもバルト海に面した北の街、ロストクは美しい所だった。通りを散歩する時間があり、お土産を買ったりした。
また、どこかの街ではパイプオルガンの演奏を聴かせてもらえた。教会に入ると、何の説明もなくいつの間にか演奏が始まっていて、暗く迫ってくるような音と旋律に圧倒された。今でも少し旋律を覚えているけれど、バッハではないと思う。いったい誰の曲だったのだろう。
ハレの街の演奏会でプログラムを弾き終えた時、地響きのような音がしてびっくりした。聴衆が床を踏みならす音だった。
83年の旅行の最後はベルリンでの2公演。写真でしか見たことのないようなきらびやかな装飾のほどこされた劇場(ベルリナーアンサンブル)のロビーには写真が飾られていて、その中に戦争中のものだろう、戦車らしき車両の上の半ば干からびた人間の首があり、どうしてきれいな劇場にこんな残酷な写真を置くのだろう、と思った。
ベルリン公演は、思ってもみないような成功だった。演奏が終わると聴衆が総立ちになって拍手をしてくれた。スタンディングオベイションという言葉も、そういう習慣があることも知らなかった。音楽には様々なことを越えて伝わるものがあることを、初めて経験した。僕たちは子供だったし、賞賛を求める気持ちはどこにもなく、ただ準備をし、ひたすら弾いたのだと思う。

2013年にチェコとスロバキアへの演奏旅行があり、よそ行きの服に着換え会場に詰めかけた聴衆が、演奏を心待ちにする姿を見て、83年の演奏旅行を思い出した。
そしてヴァイオリニスト、D.オイストラフのドキュメンタリーの中でロストロポーヴィチが、(ソヴィエト体制下では)音楽だけが太陽に向かって開いた窓だった、その気持ちは西側の人間にはわからないだろう、と言っていたことを思い出す。
ベルリンではウンター・デン・リンデン通りのホテルに泊まった。子供には分不相応なほど格式の高い所だったかもしれない。
通りからはブランデンブルク門が見える。門の東側は、かなり手前から入れないようになっていて、その空白地帯を大きな銃を持った兵士が警備していた。立ち入ったら撃たれるかもしれない場所を初めて見た。門の向こう側、西側はぎりぎりまで近づけるようになっているらしく、少し高くなった見物台のような所に観光客がたくさんいてこちらを見ている。自分が見世物になったような、動物園の檻の中にいるような気がした。
あの時、厳しく隔てられた世界は決して変わることのないものにみえた。大人になってからの演奏旅行で韓国やヴェトナムを訪れる機会があり、日本が戦争の後、分断されなかったことは本当に良かった、と思う。歴史の歯車がもう少し違う速さで違う向きに回っていたら、国が引き裂かれることはあり得たのではないか、と思う。
89年にベルリンの壁が壊されたことを伝えるニュースに接した時は、本当に嬉しかった。世界は宥和に向かう、と思った。21世紀前半の世界がこれほど複雑で混迷したものになるとは、当時誰が想像しただろう。

85年の演奏旅行は、83年のような緊張感はなく、正直なところ演奏の手応えもあまりなかった。それでもやはり、思い出深い旅行になった。
今回は予定通りアエロフロートでモスクワを経由し東ベルリンに向かった。モスクワのシェレメチェボ国際空港は薄暗く、パスポートコントロールの係官はやはりカーキ色の服を着て、にこりともしなかった。ここで一泊する旅程で、トランジットホテルに入ると、階ごとに鍵番の女性がいる独特の仕組みだった。
10日間で8公演という日程。ほぼ毎日、昼間はバスで移動し、夜演奏会だった。中学3年の僕は同世代の子たちと騒いでばかり。眠ることをもったいなく感じ、毎晩どこかの部屋に集まって遅くまで起きていた。旅行中は相部屋で、当時小学4年だったAちゃんと同じ部屋のことが何度かあったのだけれど、彼を残したまま、夜は他の部屋に遊びに行っていた。申し訳なかったと思う。(彼は早くから外国に出て素晴らしいチェリストになり、今は指揮もしている。)
連日の睡眠不足でも、演奏会場に向かうバスの中では、なかなか結べないネクタイをどうにか結ぼうと毎回大騒ぎし、本番ではひどく緊張していた。
ドレスデンの街が印象的だった。深い霧の中から路面電車が現れる光景が美しく、真夜中、路上の酔っ払いが大声で歌う声がホテルの部屋までよく聞こえて感心したりした。前回の旅行では旅程の変更から旅費がかさみ、カメラを持たせてもらえなかった。85年は写真を撮れることが嬉しかった。二つの旅の印象が混ざり、はっきりしない記憶になっているけれど、他にもノイブランデンブルク、マグデブルク、ゲルリッツ、ツヴィカウ、ゲーラ、・・・、たくさんの街を訪れた。今、見知らぬ国を毎日移動する旅ができたら、車窓を過ぎていく光景にどんなに心とらえられるだろう、と思う。
85年の最終公演地はカール・マルクス・シュタット。「カール・マルクスの街」という名前のとおり、マルクスの巨大な顔がある。今は昔の地名に戻っていると思う。顔と言えば当時、東ドイツのどの施設にも同じ人の肖像画が掲げられていた。
カール・マルクス・シュタットのホテルは近代的で、最後の騒ぎが終わって部屋に戻り、ふかふかのベッドに潜り込んだとき、こんなに素敵で快適な所があったのに、どうしてもっとたくさん眠らなかったのだろう、と思った。
旅行にはダニエルさん、という名前だったと思う、日本語のできる大学生が帯同していた。東ベルリンの空港で飛行機に搭乗し、さぁ日本だ、と皆がざわざわしていた時、窓から空港の建物を見ると、ダニエルさんが屋上で大きく手を振ってくれていた。彼はこの国から出ることができないんだ、と思い、胸がしめつけられるようだった。
その後ベルリンには2004年、2015年の2度訪れた。2004年の演奏旅行は連日国をまたぐ移動、夜は演奏会、というスケジュールで、街を見る時間はなかった。2015年はホテルの部屋に荷物を置くと、とるものもとりあえず、ブランデンブルク門に向かった。武装した兵士の姿はなく、人々は門の下を自由に行き来していた。その旅行期間中、パリで事件があり、門の近くのフランス大使館には献花がされていた。冷戦は終わった、けれど世界は再び憎しみあっているようにみえる。

翌日、83年に通ったはず、とチェックポイントチャーリーと呼ばれた検問所の跡を探した。薄暗く、抑圧的な空気はどこにもなく、まるで何か楽しい施設があったことを記念しているかのような観光地になっていた。

今では、壁のあった場所すらわかりにくくなっている、と聞いた。そして壁が存在した期間より、壁がなくなってから現在までの時間の方が長くなっている。でも当時、そこには張り詰めた空気があり、それにじかに触れ、変えることのできない不条理のようなものを感じたことは、得難い経験だったと思う。

先月、ある楽器店に行くことがあり、そこで職人として働いているS君と85年の演奏旅行の話しになった。あれから35年たち、当時仰ぎ見るように感じた引率の先生方の年齢を越えてしまったかもしれない我々だけれど、僕の目には、旅行でヴィオラを弾き、小学校高学年だった小柄なM君に優しく付き添うS君のままだった。彼といつ会った、彼女はどうしている、そんなことを話した。長い時間がたっても、誰かと会えば、その時の何かが動き出す、そういう旅行だったのだと思う。
帰国し、空港で別れたきり会っていない人も、街中で偶然会う人も、仕事場で会う人もいる。音楽とは関係ない仕事についた人も、音楽を教える仕事についた人も、S君のように楽器にたずさわる人も、音楽の道に進んだ人も、違う楽器で音楽の道に進んだ人もいる。Y先生、A先生、S先生、O先生、亡くなられた先生方のことを思い出す。
あの演奏旅行はちょうど今頃だった。肌寒くなりかけ、晴れることはほとんどなく、いつもどんより曇っていた気がする。
ダヴィド・オイストラフとイゴールの、オイストラフ親子が弾くバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲を聴いている。2台のヴァイオリンのソロと、オーケストラのヴァイオリンとヴィオラと、暗譜するほど弾いた通奏低音を、耳を広くして同時に聴くと、見事な多声法で書かれていることに心動かされる。パストラーレのリズムに乗る第2楽章の信じられないような美しさは言うまでもない。優れた作品はとても自然なので、目の前にあってもその素晴らしさに気付きにくいのかもしれない。