2020年11月 2日 (月)

松田さんのチェロ

シカゴ在住の楽器製作者松田鉄雄さんの、できたばかりのチェロを10日と少し弾かせて頂く機会があった。

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指板の縦方向のアーチが深く、さらに第3〜4ポジションの間隔が広くて、へなちょこの僕は驚き、鍛えられたのだけれど、毎日変化していく楽器を弾くのは楽しかった。
表板は、ストラディヴァリウスモデルの美男子ではなく、幅広く丸くたくましい。裏板の仕上げは特筆すべき。この状態でこの先100年、200年と受け継がれていってほしいと思う。
音もたくましい。できたてなのに、良い意味で煙で燻されたような音色がある。高音は強く、どこまでも行けそうだった。

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新しい楽器を弾くのは、毎日楽器に話を聞いているようだった。その日どんな音がして、どのように音程や音色を感じ、それにどのように体が反応し、どのように楽器が変化していくか。さらに自分がどんな人間で、どんな音楽をして、自分の使っている楽器がどういう楽器なのか、そんなことまで感じられるようだった。

他に2台のヴァイオリンとヴィオラ、松田さんは故郷に寄贈するためにカルテットを作った。感染の影響で、大館での演奏会にあわせた松田さんの来日はかなわず、きっと興味深かっただろうお話しは伺えなかった。でも素晴らしい人たちとの弦楽四重奏は楽しかった

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この前大館に来たのは2011年3月。3月9日にも大きな地震があり、それをここで経験した。どうしても3月11日以降の記憶が強いけれど、世界の見え方が一変するような地震の、直前の光景を当地で見ていたんだな、と思う。
そして今年、再び予想もしなかった事が起きている。けれど演奏会場も、隣接する小学校も変わらずにあり、紅葉の色づいた大館の街は美しかった。

2020年10月 4日 (日)

37年前の演奏旅行

数年前、小さな演奏会でバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲を聴くことがあり、子供の頃からよく聴いてきた曲の素晴らしさに、初めて気が付いた。

1983年の秋、僕たちは東ドイツにいた。おそらく当日の昼間は聖トーマス教会を訪れ、夜は演奏会だったのではないかと思う。演奏会のプログラムには二つのヴァイオリンのための協奏曲が入っていた。
その晩、ホテルの部屋のラジオから二つのヴァイオリンのための協奏曲が流れてきた。中学1年だった僕はHさんと同室で、他にも何人か高校生がいたと思う。旅行後Hさんが文集に、バッハがいたライプツィヒで彼の協奏曲を聴くことは涅槃の境地であり・・・、と書いたことを覚えている。
今年の7月、Hさんと同じ演奏会で弾いた。その時、二つのヴァイオリンのための協奏曲の素晴らしさや、ライプツィヒの夜のこと、そして、あの旅行は演奏を職業とするようになった我々にとって、大きな原体験になったかもしれませんね、という話しをした。

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1983年と85年の2度、僕は当時の東ドイツへの演奏旅行に参加した。小学生から高校生、そして幾人かの大学生や大人が加わった弦楽合奏で、83年は主に東京と名古屋、85年は東京、名古屋、京都の子供たちで編成されたと思う。
当時の世界がそうだったように、ドイツも東のドイツ民主共和国と西のドイツ連邦共和国に分けられ、西の人が東に入ることはできても、逆はとても難しかった。携帯電話もインターネットもなかった時代、政治体制の異なる国の情報は本当に少なかった。たまたま「なるほど!ザ・ワールド」というクイズ番組で東ドイツのことが取り上げられ、ビデオに録画して何度も見た。東ベルリンにはペルガモン博物館があり、お土産はくるみ割り人形(あごにくるみを挟んで割るのだけれど、その動くあごのせいかちょっと顔が怖い)がいいらしい、ということを知った。

その年の9月、大韓航空機が撃墜され、影響で僕たちが乗るはずだったソヴィエト国営航空アエロフロートの成田空港乗り入れが禁止された。今でも信じられないようなことが起こるけれど、民間機が撃ち落とされるなんて本当に大変な時代だったと思う。演奏旅行に出かける直前、調布のグリーンホールで演奏会が開かれ、終演後の壮行会でマイクを持ったHさんが、「緊迫する国際情勢の中で・・・」と切り出し、皆がどっと反応したことを覚えている。
見知らぬ国に子供たちが何十人も出かける、そのことを深く心配する親はいなかった。大げさに言えば、冒険に出かけようとする子供たちの背中を押してくれていたのだと思う。この国にエネルギーがあふれていたのかもしれない。

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当初予定されていたモスクワを経由して東ベルリンへ、というルートは変更され、英国航空でアラスカのアンカレッジ、ロンドン、西ベルリン経由、という長大なものになった。当時、西側の飛行機はシベリア上空を飛行できなかった。
ロンドンでは空港の外に出て、ヘンリー8世の広大な宮殿を見、それから西ベルリンへ飛んだ。西ベルリンの街は活気があり、ベンツがタクシーにも使われていることに驚いた。バスに乗り換え、検問所に向かった。バスが止まるとカーキ色の服を着た、にこりともしない軍人が入ってきて、全員のパスポートを取り上げていった。再びバスが動き始め、ようやく東側に入ると、行きたい人は外のトイレに、と言われた。どんな建物だったのか思い出せないのだけれど、薄暗い建物のトイレに入ると、便器が詰まっているらしく(僕はそれまで詰まった便器を見たことがなかった)、茶色い水には吸い殻が浮かんでいた。どうやら大変な所に来てしまったらしいと感じた。

開高健さんの小説「夏の闇」の中にこんな一節がある。

『・・・昔はここはこの国の壮大、華麗な首都であった。市は戦争で徹底的に破壊されたが不死身の精力で再建され、そのことでよく東京とならんであげられる。しかし、市は、”東地区”と、”西地区”に二分され、境界線にはベトンの長い壁が張りめぐらされ、首都ではなく、国際政治のショーウィンドーとなった。・・・
 たまたま私は壁が構築された直後に東から西へ、できたばかりの壁のなかを歩いてぬけでたことがある。スーツケースをさげて細い通路を歩いていくと検問所の小屋があり、きびしい、鋭い顔をした無口な兵がパスポートを厳重に調べた。パスポートを返され、スーツケースを持ちあげて歩きだすと、とつぜん白い無人の道を歩いていることに気がつくが、厖大な影からふいにぬけだしたと感ずる。・・・』

(戦後、ドイツは東と西に分けられ、さらに東の中にあるベルリンは米・英・仏・ソの4カ国の占領地域に分けられた。後に米英仏の占領地域は壁で囲われ、東の中に浮かぶ西の孤島のようになった。)

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最初に訪れたのはハレの街だったと思う。ホテルに着き、部屋の外に出ると濃い緑色の、がらんとした廊下が広がっていた。
事前の説明会で東ドイツの水は炭酸水と聞き、毎日サイダーが飲める、と僕は楽しみにしていたのだけれど、冷蔵庫に入っていたのはラベルの無いずんぐりとした緑色の瓶で、口にすると苦いというのかえぐいというのか、なんとも言いようのない味だった。説明会ではトイレの紙がかたい、ということも聞いていて、そちらは全員が日本から持参し、問題なかった。水は残念だった。

確かロストクでの公演だったと思う、放送用にテレビカメラが入った。本番中にカメラマンが何かを口走ったことに指揮のTさんが怒り、なかなか舞台に出てこないことがあった。
子供の頃、きれいに色分けされた地球儀を回しながら、この知らない国々はいったいどんなところなんだろう、と思った。東ドイツは、想像していたような華やかな国ではなかった。テレビはブラウン管むき出して、白黒のこともあったし、デパートに入っても、商品の種類は少なかった。でもバルト海に面した北の街、ロストクは美しい所だった。通りを散歩する時間があり、お土産を買ったりした。
また、どこかの街ではパイプオルガンの演奏を聴かせてもらえた。教会に入ると、何の説明もなくいつの間にか演奏が始まっていて、暗く迫ってくるような音と旋律に圧倒された。今でも少し旋律を覚えているけれど、バッハではないと思う。いったい誰の曲だったのだろう。

ハレの街の演奏会でプログラムを弾き終えた時、地響きのような音がしてびっくりした。聴衆が床を踏みならす音だった。
83年の旅行の最後はベルリンでの2公演。写真でしか見たことのないようなきらびやかな装飾のほどこされた劇場(ベルリナーアンサンブル)のロビーには写真が飾られていて、その中に戦争中のものだろう、戦車らしき車両の上の半ば干からびた人間の首があり、どうしてきれいな劇場にこんな残酷な写真を置くのだろう、と思った。
ベルリン公演は、思ってもみないような成功だった。演奏が終わると聴衆が総立ちになって拍手をしてくれた。スタンディングオベイションという言葉も、そういう習慣があることも知らなかった。音楽には様々なことを越えて伝わるものがあることを、初めて経験した。僕たちは子供だったし、賞賛を求める気持ちはどこにもなく、ただ準備をし、ひたすら弾いたのだと思う。

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2013年にチェコとスロバキアへの演奏旅行があり、よそ行きの服に着換え会場に詰めかけた聴衆が、演奏を心待ちにする姿を見て、83年の演奏旅行を思い出した。
そしてヴァイオリニスト、D.オイストラフのドキュメンタリーの中でロストロポーヴィチが、(ソヴィエト体制下では)音楽だけが太陽に向かって開いた窓だった、その気持ちは西側の人間にはわからないだろう、と言っていたことを思い出す。

ベルリンではウンター・デン・リンデン通りのホテルに泊まった。子供には分不相応なほど格式の高い所だったかもしれない。
通りからはブランデンブルク門が見える。門の東側は、かなり手前から入れないようになっていて、その空白地帯を大きな銃を持った兵士が警備していた。立ち入ったら撃たれるかもしれない場所を初めて見た。門の向こう側、西側はぎりぎりまで近づけるようになっているらしく、少し高くなった見物台のような所に観光客がたくさんいてこちらを見ている。自分が見世物になったような、動物園の檻の中にいるような気がした。

あの時、厳しく隔てられた世界は決して変わることのないものにみえた。大人になってからの演奏旅行で韓国やヴェトナムを訪れる機会があり、日本が戦争の後、分断されなかったことは本当に良かった、と思う。歴史の歯車がもう少し違う速さで違う向きに回っていたら、国が引き裂かれることはあり得たのではないか、と思う。
89年にベルリンの壁が壊されたことを伝えるニュースに接した時は、本当に嬉しかった。世界は宥和に向かう、と思った。21世紀前半の世界がこれほど複雑で混迷したものになるとは、当時誰が想像しただろう。

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85年の演奏旅行は、83年のような緊張感はなく、正直なところ演奏の手応えもあまりなかった。それでもやはり、思い出深い旅行になった。
今回は予定通りアエロフロートでモスクワを経由し東ベルリンに向かった。モスクワのシェレメチェボ国際空港は薄暗く、パスポートコントロールの係官はやはりカーキ色の服を着て、にこりともしなかった。ここで一泊する旅程で、トランジットホテルに入ると、階ごとに鍵番の女性がいる独特の仕組みだった。

10日間で8公演という日程。ほぼ毎日、昼間はバスで移動し、夜演奏会だった。中学3年の僕は同世代の子たちと騒いでばかり。眠ることをもったいなく感じ、毎晩どこかの部屋に集まって遅くまで起きていた。旅行中は相部屋で、当時小学4年だったAちゃんと同じ部屋のことが何度かあったのだけれど、彼を残したまま、夜は他の部屋に遊びに行っていた。申し訳なかったと思う。(彼は早くから外国に出て素晴らしいチェリストになり、今は指揮もしている。)
連日の睡眠不足でも、演奏会場に向かうバスの中では、なかなか結べないネクタイをどうにか結ぼうと毎回大騒ぎし、本番ではひどく緊張していた。

ドレスデンの街が印象的だった。深い霧の中から路面電車が現れる光景が美しく、真夜中、路上の酔っ払いが大声で歌う声がホテルの部屋までよく聞こえて感心したりした。前回の旅行では旅程の変更から旅費がかさみ、カメラを持たせてもらえなかった。85年は写真を撮れることが嬉しかった。二つの旅の印象が混ざり、はっきりしない記憶になっているけれど、他にもノイブランデンブルク、マグデブルク、ゲルリッツ、ツヴィカウ、ゲーラ、・・・、たくさんの街を訪れた。今、見知らぬ国を毎日移動する旅ができたら、車窓を過ぎていく光景にどんなに心とらえられるだろう、と思う。

85年の最終公演地はカール・マルクス・シュタット。「カール・マルクスの街」という名前のとおり、マルクスの巨大な顔がある。今は昔の地名に戻っていると思う。顔と言えば当時、東ドイツのどの施設にも同じ人の肖像画が掲げられていた。
カール・マルクス・シュタットのホテルは近代的で、最後の騒ぎが終わって部屋に戻り、ふかふかのベッドに潜り込んだとき、こんなに素敵で快適な所があったのに、どうしてもっとたくさん眠らなかったのだろう、と思った。

旅行にはダニエルさん、という名前だったと思う、日本語のできる大学生が帯同していた。東ベルリンの空港で飛行機に搭乗し、さぁ日本だ、と皆がざわざわしていた時、窓から空港の建物を見ると、ダニエルさんが屋上で大きく手を振ってくれていた。彼はこの国から出ることができないんだ、と思い、胸がしめつけられるようだった。

その後ベルリンには2004年、2015年の2度訪れた。2004年の演奏旅行は連日国をまたぐ移動、夜は演奏会、というスケジュールで、街を見る時間はなかった。2015年はホテルの部屋に荷物を置くと、とるものもとりあえず、ブランデンブルク門に向かった。武装した兵士の姿はなく、人々は門の下を自由に行き来していた。その旅行期間中、パリで事件があり、門の近くのフランス大使館には献花がされていた。冷戦は終わった、けれど世界は再び憎しみあっているようにみえる。

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翌日、83年に通ったはず、とチェックポイントチャーリーと呼ばれた検問所の跡を探した。薄暗く、抑圧的な空気はどこにもなく、まるで何か楽しい施設があったことを記念しているかのような観光地になっていた。

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今では、壁のあった場所すらわかりにくくなっている、と聞いた。そして壁が存在した期間より、壁がなくなってから現在までの時間の方が長くなっている。でも当時、そこには張り詰めた空気があり、それにじかに触れ、変えることのできない不条理のようなものを感じたことは、得難い経験だったと思う。

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先月、ある楽器店に行くことがあり、そこで職人として働いているS君と85年の演奏旅行の話しになった。あれから35年たち、当時仰ぎ見るように感じた引率の先生方の年齢を越えてしまったかもしれない我々だけれど、僕の目には、旅行でヴィオラを弾き、小学校高学年だった小柄なM君に優しく付き添うS君のままだった。彼といつ会った、彼女はどうしている、そんなことを話した。長い時間がたっても、誰かと会えば、その時の何かが動き出す、そういう旅行だったのだと思う。
帰国し、空港で別れたきり会っていない人も、街中で偶然会う人も、仕事場で会う人もいる。音楽とは関係ない仕事についた人も、音楽を教える仕事についた人も、S君のように楽器にたずさわる人も、音楽の道に進んだ人も、違う楽器で音楽の道に進んだ人もいる。Y先生、A先生、S先生、O先生、亡くなられた先生方のことを思い出す。

あの演奏旅行はちょうど今頃だった。肌寒くなりかけ、晴れることはほとんどなく、いつもどんより曇っていた気がする。
ダヴィド・オイストラフとイゴールの、オイストラフ親子が弾くバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲を聴いている。2台のヴァイオリンのソロと、オーケストラのヴァイオリンとヴィオラと、暗譜するほど弾いた通奏低音を、耳を広くして同時に聴くと、見事な多声法で書かれていることに心動かされる。パストラーレのリズムに乗る第2楽章の信じられないような美しさは言うまでもない。優れた作品はとても自然なので、目の前にあってもその素晴らしさに気付きにくいのかもしれない。

2019年9月26日 (木)

ラグビーワールドカップ

20年前のこの時期、コンクールを受けにフランス、トゥールーズに行き、ホームステイさせてもらっていた。素敵なホストファミリーのご主人Fさんはエンジニア(トゥールーズはエアバス社など航空宇宙産業がさかん)で、アマチュアのヴァイオリニスト。
1日遠出をしよう、というのでアルビまで出かけた。アルビはトゥールーズ・ロートレックの出身地であり、もう一つ、異端とされるアルビジョワ派の討伐後に建設された大聖堂がある。その中には細かな装飾がたくさんある一方、茶色のレンガでできた外側はのっぺりとしてマッシヴ、圧倒的な大きさからは異様な感じすら受けた。
Fさん夫妻と街にいると、あの建物のあの部分は何世紀のいつ頃の様式、ここはいつ頃の様式・・・、と僕には同じように見える建物の見方を教えてくれた。トゥールーズの大きな見本市会場での骨董家具の展示にも連れて行ってくれた。3つのブースに分かれていて、一つは誰が見ても文句のない一級品のブース、もう一つには(おそらく)頑張れば手の届きそうな家具、最後の一つには何だかよくわからないもの、例えば、傷みが激しく、ほとんどすだれのようになった絨毯とか、蛇口あるいはドアの取っ手だけが集めて置かれ、そんな中にフレンチブルドッグが寝そべっていたりした。
Fさんは、自宅にあるあの家具は何世紀のいつ頃のものだから、それに合う別の家具を探しているんだ、と言っていた。日本にいては到底知ることのできない、ヨーロッパの人たちの世界の見え方を教えてくれていたのだ、と思う。ご主人の仕事のことももっと聞いておけばよかった。
そう、トゥールーズと言えば、サン=テグジュペリが定期航路のパイロットとして飛んでいたところだ。彼の書いた「人間の大地」の、定期路線にデビューする箇所は好きな文章の一つ。

『・・・僕は雨に光る歩道で小さなトランクに腰を下ろし、空港行きの路面電車を待っていた。とうとう僕の出番だった。ぼくより先に、どれだけ多くの僚友がこの神聖な一日を迎えたことだろう。いったいどれだけ多くの僚友が、いくらか胸を締め付けられる思いで、こんなふうにして路面電車を待ったことだろう。・・・
・・・トゥールーズのでこぼこの敷石の上を走るこの電車は、何だか哀れな荷馬車みたいだった。定期路線のパイロットもここでは乗客の中に埋もれてしまって、隣席の役人とほとんど見分けがつかない。少なくとも、最初のうちはそうだ。だが、立ち並ぶ街灯が後方に流れ去り、空港が近づくと、がたがた揺れる路面電車が灰色のさなぎの繭に化けるのだ。そこから、じきに蝶に変わった男が飛び出してくるだろう。
 僕の僚友の誰もが皆、一度はこんな朝を迎えたのだ。そのとき、彼らはまだ横柄な監督の指揮下にある無力な下っ端に過ぎなかったはずだが、それでも彼らは、スペインとアフリカの定期路線を背負って立つ男が自分の内部に生まれつつあるのを感じたのだ。・・・』

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ある日、一人でトゥールーズの街を歩いていたら、スポーツバーのような店からすさまじい歓声が聞こえてきて驚いたことがあった。Fさんに尋ねると、ラグビーワールドカップでフランス代表がニュージーランドに勝った、しかもフランス代表にはトゥールーズのチームから何人も入っているんだ、と教えてくれた。その時はただ、ふーんと聞いたのだけれど、今月日本でワールドカップが始まり、その熱狂が少しわかるような気がする。ルールをよく知らない僕でさえ、大きな人たちが俊敏に動き回る迫力にすっかり魅せられるもの。
調べてみた。1999年の第4回大会、準決勝でフランスはニュージーランドを破り決勝に進出。10月31日のことだ。

2019年9月13日 (金)

乾電池を使うラジオ

8月の旅、石打の宿で小さな携帯ラジオのダイヤルを回していたら不思議なことがあった。夜、NHK第一放送を探したのだけれど、近い放送局の電波をうまくつかまえられず、周期的な雑音の隙間から聞こえてきたのは中国地方のニュースだった。新潟県の山あいで広島放送局の電波を受信した、ということだろうか。NHKの電波より、外国の放送局の方がよく聞こえていた。その一つが中国、北京の日本語放送。日本のある政党の議員団が北京を訪問した、というニュースを伝えていた。夜は遠方の放送を聞くことができる。名古屋にいた小学生の頃、やはり夜にラジオのダイヤルを回していたらモスクワの日本語放送が流れてきたことを思い出した。

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9月1日に放送されたNHKスペシャルは停電を扱ったものだった。昨年北海道で起きた大規模な停電は首都圏でも起こり得る、もし起きたら、という内容だった。先日の台風15号が過ぎた後、なかなか復旧しない停電の報道に接して、その放送の内容を思い出さずにいられなかった。
充電環境の必要なスマートフォンや、そのための基地局など、当たり前と思っている情報にあふれた生活は、実はもろい基盤の上に立っていると思った。残念ながら台風は毎年やってくる。乾電池を使う昔ながらのラジオは、長い時間聞くことができ、おそらく全ての放送局が駄目になることはなく、たとえ大規模な停電が起きても情報を手に入れることができる。
もしお持ちでなかったら、家に一台置いてみてはいかがでしょう。

2019年9月 8日 (日)

各駅停車の旅 その4

学生の頃、よく名古屋と東京を行き来していた時、何度も青春18切符を使った。
東京から東海道線で名古屋に向かうと、だいたい熱海まで1時間半、さらに2時間半くらいで浜松。そのあたりが辛さのピークで、しかも在来線と新幹線が交わるところがあり、信じられないようなスピードで新幹線に追い越されると、次はあれに・・・、と弱気にならずにはいられなかった。でも、浜名湖を過ぎると景色に変化も出てきて、名古屋まであと少し、という気になる。
最近、筋金入りの鉄道ファンであるYさんと18切符の話しをしていたら、東海道線の熱海、浜松間は彼でも辛く、寝るかクロスワードをするようにしている、とのことだった。各駅停車に乗るといつも一番前の車両の、運転台の後ろに立つようなYさんでもそうなんですね、と驚いた。こんなことを書くと静岡の人たちに怒られそうだけれど、あの区間は平坦でまっすぐで、景色の変化が少ない(ごめんなさい)。

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5回使えるこの夏の18切符、あと1回分残っていた。名古屋まで新幹線で行き、実家に泊まった翌日、東海道線で西に向かった。いつもと勝手が違うのは父と一緒、ということ。大垣、米原で乗り継ぎ、滋賀県の草津駅で降り、さらにバスに乗って琵琶湖博物館へ。(http://www.biwahaku.jp)

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素晴らしくて驚いた。広く充実した展示。生きている魚やほ乳類の水槽展示はもちろん、琵琶湖の歴史を扱った部分も同じくらいおもしろかった。琵琶湖や、さらに日本海の成り立ちを地質学的な時間でさかのぼったり、人間の歴史では様々な生活、平清盛の時代から、敦賀から琵琶湖まで運河を掘る計画のあったこと・・・。縮尺1万分の1の巨大な地図がフロアいっぱいに展開され、日本海から琵琶湖、大阪湾までの広がりや狭さを体感できる。そして念願のカヤネズミ(ピンポン球くらいの大きさ)も見ることができた。

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残念ながら時間切れで全ては見られず帰路についた。空の広い琵琶湖湖畔を通り米原を過ぎると急な上りになる。関ヶ原に近づくにつれ、山の感じが険しくなり狭くなり、関ヶ原を過ぎるとまた開けてきて、ほんの2駅で大垣駅に着く頃にはすっかり穏やかな場所になる。そうした景色の移り変わりを見ると、まさにここが向こうとこちらを分ける要衝で、確かに天下分け目の戦があったのだろう、と感じた。

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翌日、久しぶりにこだまで帰京。安倍川の手前で、Yさんが教えてくれたとおり、海側の座席から富士山が見えた。こだまの景色の流れ方は心地いい。のぞみは速くて素晴らしいけれど、あっという間に着くからうかうか寝ていられないもの。時々車窓から海が見える。8月のような青い海と青い空が美しかった。

2019年8月24日 (土)

各駅停車の旅 その3

8月21日
昨晩、宿のおかみさんに、朝食の時間は7時半くらいにしてほしい、とお願いしておいた(本当は7時)。温泉のせいか、虫の鳴き声のせいか、ぐっすり眠り、7時に目覚ましが鳴っても五里霧中、正体不明のまま。もう5分あと5分、と思っていたら、階段を上がってくる足音が聞こえた次の瞬間には戸が開き、今日は晴れましたね、と言いながら、おかみさんが朝食のお膳を持ってずいずいっと部屋に入ってきた。郷に入っては郷に従え、ということか。

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今回、石打に宿を探したのは県境の手前で泊まりたいと思っていたから。新幹線で新潟方面に行く度、山を越えた越後湯沢あたりから、景色が変わることを感じていた。緑の感じが違う。この景色の中で過ごしてみたいと思った。青空、虫の声は昼のものになっている。草むらからはスィーー、ッチョンが聞こえ、窓のすぐ横には蝉がとまり鳴き始めた。ものすごい音量だ、命の限り鳴いている。宿の近くを歩いてみると、虫や蛙がたくさんいる。大きなヤンマをこんなに見るのは初めてかもしれない。

宿帳に記入し宿代を払うと、おかみさんに、学生さん?と言われた。冗談を言うような人には見えなかったのだけれど。

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今日は旅の最終日、ひたすら電車に乗る日だ。各駅停車の旅は、その土地の風土や、それが場所によって変化していくことを感じられる、そういう旅だと思う。飛行機や新幹線の旅は、カプセルに入れられてA地点からB地点に、一散に移動するようだ。

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毎日ひたすら移動し、車窓を流れていく景色をずっと見ていると、まさにこの瞬間が旅、と思う。各駅停車でも充分速い。目的地を目指すのでも、何か特別なものを見るわけでも、豪華なものを食べるわけでもない、ただその場所を感じ、移動していく。これまで点として知っていた町を、ゆるやかに線でつなぎ、点から点への変化を感じていく。

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トンネルを越えて群馬県側に入り、名前は知らない二つの川の合流点が見えた。片方は昨日の大雨の影響で強く濁り、もう片方は澄んでいる、その二つの流れは合流してもなかなか混じらず、しばらく平行して流れていた。以前テレビで見たアマゾン川の映像を思い出した。
4時間以上かけて都心に。コンクリートやアスファルトで覆われ、地面がほとんど見えないここに戻ってきた。まずラボテイクにフィルムを出しに行く。雨の降る中、カメラやレンズを濡らさないよう撮った3本は宝物だ。現像の上がるのが待ち遠しい。もちろん晴れていた方が快適だし、写真も撮りやすい。でも雨の日に撮れる写真がある。昨日まで毎日、雨が降り始める時を感じていた。その時、いつも光に独特のきらめきがあることを知った。雨上がりの美しさは言うまでもない。

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2019年8月23日 (金)

各駅停車の旅 その2

8月20日
泊まった部屋はエレベータの真裏にあり、昨晩は意外に静か、と思っていたけれど、今朝は6時過ぎからごっとんごっとん活発な音がして起こされた。やれやれ。このホテルは仕事で利用している人が多いらしく、朝が早い。チェックアウトして海を見に行く。

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薄緑色の美しい海だ。東京からはるばる分水嶺を越えて来たのだ。海の際は国道で、山側の住宅地はすぐ小高くなっている。これは昔からの地形なのだろうか。駅に向かう途中、雪を避けるためらしい、ひさしのある通りを歩いた。古い通りが断続的にある。どのくらいの広さが数年前の火事で失われたのだろう。

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糸魚川から西は富山まで、東は直江津まで、JR線ではない。新幹線網が張りめぐらされた結果、重複する区間の経営が変わったのだと思う。当然18切符は使えない。昨日のしなの鉄道もそう。思いの外、制約があった。
日本海ひすいラインで有間川へ。途中、トンネルの中に駅があった。トンネルの外にはどんな景色が広がるのか、見てみたくなる。港で写真を撮っていると雨が強くなり、いったん建物の中に入ったけれど、弱まる気配がないので有間川駅に戻る。駅に上る道を間違えて、その分濡れてしまった。

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直江津からは信越本線に。できるだけ濡れずに海の写真を撮れる場所を、と考え、青海川で降りる。雨が強くて水平線があいまいになり、どこからが空なのか海なのかわからなくなりそうだ。

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刻々と表情を変える海を眺め、波の音を聞き、弱まる雨の気配に耳を澄ませていたら、すぐ次の電車が来た。長岡へ。久しぶりの長岡駅は洒落た感じになっていた。ゆっくり昼を食べ、今日最後の電車に乗る。上越線が長岡を出る頃、ほとんど雨は上がっていた。でも水上の先は大雨で止まっているらしい。車窓には水田が広がり、あぁ新潟だ、と思う。もう一つ、家々の屋根の急な角度を見ると、豪雪地帯なのだな、と思う。長岡からはひたすら緩やかな上り。

列車が六日町を過ぎるとアナウンスが入り、この先、今日の豪雨のため、安全確認をしながら徐行運転、とのことだった。少し遅れて石打駅着。迎えに来てくれた宿のご主人にその話しをすると、もう少し降ると電車は止まるよ、と言われた。宿の予約をした時、電話口でおかみさんに、うちはただの湯治場で何にもないけど、いいですか?、と言われた。そんなことを言われたのは初めて。泊まってみようと思った。
僕の部屋は六畳間、鍵はなく、窓からは山の緑が見え、虫の声が聞こえる。着いた時はまだ蝉がみんみん鳴き、ヒグラシは遠くに聞こえていた。日が暮れるにつれて鳴く虫が変わるのがわかる。夜になり、静かな虫の声と川の音ばかりになった。本当に素晴らしい。テレビもインターネットもいらない。

2019年8月22日 (木)

各駅停車の旅 その1

8月18日
いつもより少しだけ早起きして、中央線と小海線を乗り継ぎ清里へ。さてタクシーに、と思ったら駅前にいない。タクシー会社に電話してもらちがあかず、ようやく来た一台に、やはり待っていて目的地が同じ親子と一緒に乗ることにした。清里フォトアートミュージアムの「ロバート・フランク展 もう一度、写真の話をしないか。」(kmopa.com/?cat=6)

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東京の熱気は嘘のように、甘くさわやかな空気がここにはある。木々の間を通ってくる光、鳥の澄んだ声、降り始めた雨が葉に当たる音・・・。ここは10年ほど前まで、ホテルも併設されていたそうだ。夜も過ごせたらどんなにいいだろう、と思う。ロバート・フランクの写真は言うまでもなく素晴らしい。彼がその時どのように世界を見ていたのか、彼の目と一緒になろうとした。

ゆっくり見て、さて再びタクシーだ。美術館に着いた時、運転手と帰りの話しをしておいた。予定の電車の時間を伝え、そして4時過ぎに電話すること。電話をして待っていると美術館の電話が鳴り、タクシーは今小淵沢にいて、間に合わないからキャンセルさせてほしい、とのことだった。なんとまぁ。タクシー会社の抱えている車が極端に少ないらしい。
幸い助け船を出して下さる方がいて(本当にありがとうございました)、3人は無事清里駅に着いた。彼女たちも青春18切符を使っていて、でも大月あたりから特急に乗ってしまうかも、と言っていた。確かに一つの区間が2時間を越えると辛くなるもの(高尾~小淵沢間が2時間半くらい)。雨足が強くなる中、僕は小海線に2時間乗り、小諸へ。清里より先に行くのは初めてだった。

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小諸駅からホテルまでの道のりを甘く見ていた。軽く1キロちょっと、と思っていたら、ひたすら登り続ける1キロだった。東京も坂の街だけれど、こんなに登ることはない。参りました。


8月19日
起きると頭が重い。今朝は小諸駅までひたすら下る。昨晩は暗くてわからなかったけれど、どこからか水の音のする、風情のある町だ。しなの鉄道で篠ノ井、篠ノ井線で松本、松本にちょっと寄ってから大糸線で信濃大町へ。
どこでもそうなのかもしれないけれど、長野県内を鉄道で移動すると、山あいに線路が敷かれていることがよくわかる。少なくとも片側、多くの場合両側に山が見え、その表情は沿線によって異なり、どこも魅力的。住むなら信州、と思う。見晴らしのいい小屋、中に薪ストーブがあったら、もう言うことなしだ。

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大町でゆっくり昼を食べ、町を少し歩く。

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さらに大糸線で稲尾へ。木崎湖の湖面が美しい。風が強くなり、残念ながら予報通り雨も強くなり、駅舎に避難する。雨足が強くなった分、湖は幻想的な雰囲気になった。

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さらに2駅乗って簗場下車。雨が強く、しばらく駅で様子を見る。駅から中綱湖を通り、簗場のスキー場に通じる目の前の道は、40年近く前スキーに来て、大雪で閉じ込められた時、宿から国鉄の駅まで情報を求めて何度も通った、雪しか見えなかったあの道だろうか。

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小降りになった頃を見計らって中綱湖へ。ここの水の感じはやはり好きだ。雨のせいか、そこら中で蛙がはねる。こんな雨の中でも釣りをしている人たちがいる。

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夕方の大糸線でさらに先へ。白馬より向こうは行ったことがない。南小谷で糸魚川行きに乗り換え。凍りつくくらい空調の効いた車両だった。暗くなってほとんど見えないけれど、かなり険しいところを走っているらしい。南小谷から糸魚川までの途中駅で降りたのはたった一人、女の子が街灯もないようなさみしい駅で降りていった。

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糸魚川駅前の食堂に入る。ものすごく感じの良い店だった。1日よく歩き、しっかり濡れた身には嬉しかった。そう、昨日小諸で入ったラーメン屋も、とても感じが良かった。

2019年6月28日 (金)

6月14日

6月14日
ホテルのベッドで目覚めた時、東京の自宅にいる気がした。荷造りをすませ朝食をとり、もう一度名残を惜しんで周辺を散歩する。最終日、あたたかく素晴らしい天気だ。お家の玄関に入るまでが旅行です、と気を引き締める。
ホテルで呼んでもらったタクシーがなかなか来ない。来たら小柄な東洋人の運転手だ。思わず前回7年前のことを思い出した。やはり呼んでもらった運転手は小柄で、車内はちらかり、シートベルトはできなかった。さて。車に乗り込むと、中国人か?と聞かれた後、フランス語と英語のまざった滅茶苦茶な会話が始まる。総合するとどうやら、高速道路で事故があり、迂回する、一時間で着くだろう、ということらしい。確かに来た時とは違うルートを取っていることがわかる。運転手はしきりに電話で話し、どうやら渋滞情報を同僚やタクシー会社に聞いているらしい。そんなところに若い女性らしい声で、「ご飯に連れてって」という電話がきたら「今忙しいから後にしてくれ」と切ったようだ。ふむ。
かなりの渋滞。ようやく中心部を抜けて高速に入ると、時々流れて、また止まる。まさか途中で降りる訳にもいかないし、観念して座席でじっとする。途中で最近起きたらしい別の事故を見る。皆があんなに積極的に運転したらそれはぶつかるでしょ、と思う。空港の看板が出てもじりじりとしか進まない。ようやく空港の敷地に入っても、ただでさえ狭いスペースに出る車と入る車が拮抗して収拾がつかないのに、手前の路上で人を降ろす車がいて、クラクションの応酬だ。結局一時間半かかって到着。とても丁寧な運転のタクシーだった。人を見かけで判断してはいけない。
飛行の2時間半前に航空会社のカウンターに行くと、混雑というより混乱だった。さぁ、もうひと頑張り。チェックイン自体は昨日すませてある。またあの自動券売機のような機械に行く。何台もあるそれは全て行列しているか、故障しているか。空いている機械を探し、手続きをすませ、荷物預けの列に並ぶと、成田行きはここじゃなくて端の10番だ、と言われ、急ぎ移動する。確かに日本人をほとんどみなかったものね。空港もスーパーマーケットのセルフレジのようになっている。自分で荷物を無人のカウンターのベルトに乗せ計量し、タグのバーコードを読むと、ベルトが勝手に動いて荷物はするするとあちらに行ってしまった。あらま。シャルル・ド・ゴール空港は荷物がなくなることで有名なところなのだけれど。

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パスポートコントロールを過ぎ、珍しく免税で買い物をし、ほっとしてカフェに入る。パリの空港の、しかもエアフランスのカウンターがこんなに混雑しているとは。日本ではあまりない状況だと思う。2024年のパリオリンピックの時は大変なことになりそうだ。
乗り込んだ飛行機はほぼ満席。アナウンスがあり、直前で搭乗をやめた乗客の荷物を降ろすからしばらく待って、とのことだった。あのたくさんのコンテナから一つ二つの荷物を降ろすのか、僕の荷物は降ろさないように、と願った。
長い機中、今回の旅を思い返す。最大の収穫は、生き生きと生きている人たちに接したことだった。それに尽きる。写真を撮っていてこんなにわくわくし続けることは久しぶりだったし、美しい景色、物、素晴らしい天気、空気・・・。でもそんなことは全部二の次と言っていい。やっぱり人間はこうして生きることができるんだと思った。もう死んだように生きるのはやめよう。
そして、これほど英語が通じるようになっているとは思わなかった。7年前、ひどいフランス語でも口にすると皆、嬉しそうにフランス語で(しかも猛烈なスピードで)返してくれた。四半世紀前はまったく英語なんか喋ってくれなかった。それは本当に喋れないのか、嫌がらせか、勘ぐりたくなるくらいだった。今回、よちよちのフランス語で話しかけると、ほとんど英語で返ってきた。それはそれで傷つくし、その便利さは残念な感じがした。

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飛行機が成田に着き、無事出てきた荷物を拾い上げる。雨に煙る田んぼの間を列車が進んでいく。この湿潤な国も美しいと思った。そして梅雨寒の今日、駅のそば屋で食べたかき揚げ天そばの味は、なんとも月並みだけれど、しみた。

2019年6月22日 (土)

6月13日

6月13日

モンパルナス駅からシャルトル行きの列車に乗る。列車の切符の買い方は昨日、インターネットで調べておいた。本当に便利な時代になったものだ。自動券売機は日本より少しだけ手続きが多く、知らないとまごまごしそうだった。シャルトル大聖堂のステンドグラスは『晴れた日に訪れ、たっぷり時間をかけて』、と「地球の歩き方」に書いてある。しかし今日はどんよりとした曇りで寒い。まぁとにかく行ってみる。

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シャルトルまで1時間と少し。途中名前も知らない、おそらく決して降りることのないだろう駅をいくつも通り過ぎる。そうした小さな駅で乗り降りする人々や町を見て、そこにはどんな生活があり、どんな人生があるのだろう、と思った。シャルトルが近づくと車窓に大聖堂が見えてくる。ずっと来たいと思っていた。7年前もそう思っていたのだけれど、結局歩いても歩いても歩きつくせないパリ市内で、一週間の旅は終わってしまった

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シャルトル駅では若い女性がキャリーバッグを二つ引いていて、階段に差し掛かるとすぐ、若い黒人男性が重そうな方のキャリーを上まで持ち上げ、女性の'Merci beaucoup!'を聞くと、じゃあね、という感じでいなくなった。当地にいる間、なんだか生き馬の目を抜くような雰囲気を感じることもある一方、こういうさらりとした優しさもあるんだな、と思った。
駅からノートルダム大聖堂までは歩いて間もなく。ツーリストオフィスに行き、町の地図をもらう。若い女性が英語で丁寧に説明してくれた。宿泊すると夜の美しいライトアップが見られるそうだ。大聖堂に入ると、この町にこんなに人がいたのか、と驚くくらいの人がいた。ステンドグラスを丁寧に見てまわる。幸い少し陽が射してきた。

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いったん教会を出て、町を少し歩く。もらった地図を見ながら歩くのだけれど、初めての場所に加えてどの道も曲がりくねっていて非常にわかりにくい。そして老眼が進み、いちいち眼鏡を外さないと地図に書いてある通り名が読めない・・・。(7年前は平気だったなぁ)。サンテニャン教会を見て、迷いながら中心部に戻り、目星をつけていた店に入ろうとしたら、ランチメニューの看板が下げられていた。まだ昼の1時を回ったばかりなのに。

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仕方なくまたうろうろして大聖堂前のカフェに入る。入ったらここでもランチは終わった、と言われがっかりするも、気を取り直して注文した料理は素晴らしかった。ゆっくり食べた後、坂を降りて川沿いに歩く。道が曲がっていてアップダウンが多く、常に景色が大きく変わる、イタリアのシエナのようだ。川沿いはすごく静かで、丁寧に育てられているらしい花や草の澄んだ甘い匂いがする。
今度はシャルトルに2晩くらい泊まり、この小さな町を満喫し、そしてまた鉄道でどこかの小さな町へ行き、また2泊くらい、・・・、そんな旅がしてみたいと思った。東京は、日本の中でかなり特殊な場所だと思う。それ以上にパリはフランスの中で特殊な所なのだと思う。世界中から観光客が集まってくる。人であふれるパリから1時間と少しで、こんなに静かでゆったりとした時間があるとは。そして、シャルトルで気付いたことは子供や若者が多く活気があり、ツーリストオフィスやカフェで若者たちがきびきびと動き回るのをみるのはとても心地よかった。(年をとったな、と思う)

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川沿いを歩き、教会跡らしい建物で写真展を見て、公園を通りノートルダム大聖堂に戻り、外周を丁寧にみて、もう一度中に入る。パリ市内にもたくさん教会があり、いくつか入った。外がどんなに騒がしくても、一歩入るとそこは隔絶された空間で、敬虔な祈りの場であることがわかる。そんな場所が街のあちらこちらにある。

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シャルトルでも、多くの観光客と、信仰を持つ人たちがいた。シエナの白と黒の石が交互につまれた美しいドゥオモ(聖堂)が見たくなった。今見たらどんなことを感じるだろう。

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午後遅くなるとすっかり晴れて暖かくなってきた。パリに戻る。

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一時間と少し電車に乗り、再びパリの雑踏へ。ホテルの最寄り駅で降りると、気持ちよく晴れた陽の光が入る夕方のカフェは、楽しそうに過ごす人々であふれていた。いっせいに花が咲いたようだ。まさに花の都と思う。途中甘いクレープを食べ、満ち足りる。実は一昨日モンパルナス通り近くの、小柄なおじちゃんが切り盛りするいい感じのクレープ屋で、ガレットを頼んだら驚くほどしっかりとした量があり(東京の小洒落たガレット屋で出てくる量と全然違う。これはいったいどういうことだ?)、とてもデザートのクレープを食べることができなかった。それを残念に思っていた。
ホテルに戻り荷物をまとめ、名残を惜しんで、もう一度エッフェル塔を見に行く。今回の旅行では外国にいる緊張感と同時に、日本にいるよりずっとほっとしている部分もあった。明日はこの国を出る。

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