「フクロウの方舟」掲載2007/2006年の近況報告

No.194(2007年12月31日) 今の家に引っ越す時、多摩川のサイクリングコースから離れてしまうこともあって、2台あった自転車(ロードレーサーとマウンテンバイク)を手放した。これが失敗で、深く後悔することになる。 どうしてもロードレーサーが欲しいと思い始めてから一年近く、12月15日とうとう新しい自転車がやってきた。大学生になった年に買った自転車も自分の寸法をとって作ってもらったが、今回はそれ以来。高村さん(ラバネロ)にお願いした。自転車のフレームを作る工房を見るのは初めてで、すごくおもしろかった。 最新のロードレーサーが、カーボンやチタンを多用したF1のようなものだとすると、僕がつくってもらったのは往年の名車風である。自転車のフレームも、チェロのエンドピンも、太くして剛性を上げるのは共通のようだ。僕のエンドピンはチタンとカーボンを使って、口径を大きくし軽く強くつくってある。他方、自転車は昔ながらの、クロモリの細いフレームだ。 走った感じは、これまで乗っていた20インチの小径車とは比べものにならず、どこまでも走っていけそうだ。多摩川は遠くなったが、今は広くて快適な荒川のサイクリングコースを走るのが楽しい。 12月後半の都響はずっとインバルの指揮だった。 マーラーの7番は初めてで、技術的にも難しかったし、とらえどころがなく難解な感じがした。 6番は新日フィルで弾いて以来。あの時はプログラムの前半にハルトマンのヴァイオリン協奏曲があって、ソロのイザベル・ファウストは素晴らしかったのだが、マーラーの最後の最後で集中力が切れてしまって、チェロの1プルトは落ちてしまった。 今回は6番の交響曲だけで集中もできたし、曲の要素も体によく入ってきた。 インバルのマーラーは素晴らしかったが、その後の第九はデフォルメし過ぎと思った。まるで、ベートーヴェンはマーラーの後に生まれた作曲家のようだった。 26日、サントリーホールでの第九を終えて、エキストラの人たちも一緒にチェロの忘年会。20代前半から60代半ばまでの人が、一つのものを演奏することは本当に素晴らしいと思う。 年内の仕事が一段落して、来年バッハの6番を演奏するので、その準備を始めて いる。 去年の12月、京都で弾くために相当がんばってさらったが、一年たって、弾き方や体の使い方に多くの発見があり、また新しい曲に取り組むような気持ちでさらっている。 新しい年が、良い年でありますように。 No.193(2007年12月30日) 今回も長崎でのアウトリーチは楽しかった。 特に印象的だったのは12月4日に訪れた神浦中学校。昨年行った池島へのフェリーが出る港の近くで、生徒は26人、音楽室の響きも良かったし、「今日学校に来ていてよかった」と言ってくれた子がいて、本当にうれしかった。 学校に行くとき、体験用にチェロがあれば、それを子供たちに弾いてもらう。そうでないと一方的になりがちなので、僕としては初めての試みで、声でハ長調とハ短調の和音をつくってもらった。 (この日の詳細なレポートが児玉さんのブログに載っているので、どうぞご覧ください。「児玉真のフィールドノート」 http://blog.so-net.ne.jp/shinkodama/2007-12-09) 長いこと避けていたのだが、また自分の演奏の録音を聴くようになった。 長崎でカステルヌオーボ-テデスコのフィガロを録音して聴き、深く反省して、帰京してからシュタルケルのCDを探した(DENONから出ている「VIRTUOSO MUSIC FOR CELLO」)。同じ録音のLPは実家にあって、小さいときよく聴いたはずだが、改めて、シュタルケルの切れ味の凄みが身にしみた。 高いポジションにシフトする時、たまに少しだけ音程が上ずる時がある(もちろん許容範囲)。察するに、演奏がとても安定しているので、修正用の細かいテイクを録らずに、大きいものをいくつか録って、出来上がりになってしまったのではないだろうか。 1978年の録音だから、シュタルケルは50代半ば、ピアノの練木繁夫さんが20代後 半、素晴らしい演奏だと思う。 No.192(2007年12月3日) 11月30日、文化会館ロビーでの室内楽の演奏会、雨にもかかわらず多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。 前日ペレーニの演奏を聴いたおかげで、いつもと全く違う感覚で弾けた。 12月4,5日は長崎でのアウトリーチ。 今回の新しい試みはロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」を題材に使った、カステルヌオーボ・テデスコの演奏会用小品だ。技巧的で弾くのは大変だけど、何度も繰り返し楽しいモチーフが出てくるので、小学校で弾いたらきっと楽しいだろうと思っている。 No.191(2007年12月3日) 11月27日、横浜の小机小学校でのアウトリーチ。 今回は少しの演奏の後に、西川絵菜さんの朗読する「セロ弾きのゴーシュ」に音をつけた。300人ずつを2回、体育館だったので大変かなと思ったけど、とても反応のいい子供たちと西川さんの豊かな朗読で楽しかった。宮沢賢治のテキストは本当に素晴らしい。 先日のブルネロの印象が強くて、僕も同じカサドの無伴奏を弾いた。彼がパンフルートのような音色を出すためにC線の高いポジションで弾く場所、狙った音色が出たかどうかはともかく、僕もC線に挑戦した。 11月29日、トッパンホールでハンガリーのチェリスト、ミクローシュ・ペレーニのリサイタルを聴く。チェロのリサイタルを聴くなんていつ以来だろう。 プログラムはヴェレシュ、コダーイ、バルトークと、ハンガリーの作曲家ばかり。やはり印象的だったのはコダーイの無伴奏で、第2楽章の旋律はまるで歌のようだったし、左手のオスティナートが入ってもヴィブラートが止まらないのには驚いた。どちらかというと地味なプログラムで、ペレーニの演奏には全くはったりや誇張がないのに、ずしりと満たされた。ペレーニとピアノのヤンドーの演奏以外のやり取りも楽しかった。 技術もすごいし、音量もかなり出ていると思うが、それを気づかせない素晴らしさがあると思う。彼のCDは何枚か持っているが、実際に聴くことはやはり大切と思った。 ペレーニの演奏を聴きながら、演奏会に出かけるのが億劫になった理由が少しわかった気がした。 音楽を押しのけてきこえてくる、演奏者の「自分が自分が」という主張と、もちろん音楽とお金は切り離せないが、商業主義にうんざりしているのだと思う。 当日のプログラムに渡辺和さんの愛情あふれる文章が載っていたので引用させて頂く。 「筆者が知る限り、ペレーニ氏は普通の紳士だ。芸術家の特殊な空気を漂わせたり、尋常ならざることを日常的にこなすストレスを周囲にぶつけることはない。・・・  ボウイングのテクニックは世界一と多くの同業者が絶賛するこのチェリストの音楽も、声高に相手を論破したり、才気走った思いつきで己を売り込むことはない。まともすぎる音楽を、きちんとまともにやるだけだ。ペレーニ・ミクローシュは、言葉の最良の意味での『ローカルな音楽家』を生きている。・・・」 No.190(2007年11月25日) 11月16日、やっと弓の毛替をしてもらう。 同時に松脂やら手垢やら、こびりついた楽器の汚れもきれいにしてもらった。帰宅して楽器の中の掃除もしたら音が大きくなったような気がする。ほこりやごみが振動の邪魔をしていたのだろうか。 東京は冬のような空になり、すっかり乾燥してきた。仕事は季節を選んでいられないので、多湿な日本の夏でも文句を言わないようにしているが、やはり空気が乾いてくるとうれしい。 弓の毛はぱりっとするし、ガット弦も音色がはっきりするような気がする。戸棚で眠っていたダンピット(乾燥しすぎると弦楽器は割れることがあるので、湿度を与えるためf字孔から楽器の中に入れる、緑色の細長い道具。蛇のようにも見える。ヴァイオリン用のは細い。コントラバスのものは太くて、ちょっとグロテスクだ。必要ないという人もいる)を出して、冬用に粘り気の強い松脂も買ってきた。 松脂といえば、昔金属の缶に入ったとても高価なものがあった。もう作っていなくて、持っている人は大切に大切に使うし、ごくたまにデッドストックが出回ったりする。 とても肌理が細かくて、音は何のストレスもなくふわっと立ち昇っていく、魔法のような松脂だった。この時期のチェロには細かすぎるかもしれないけれど。 今同じ名前で布袋に入ったものが販売されているが、似ていても魔法はなくなった気がする。 No.189(2007年11月9日) 11月2日は八戸、3日は五所川原で都響の演奏会があった。 2日は青森泊。翌朝時間があったので、駅近くを写真を撮りながらぶらぶら歩いた。あてもなく写真を撮るのは久しぶりだ。散歩の最中、りんご屋のおばちゃんの試食にまんまとのせられ、一箱東京に送ることになった。 五所川原公演の後、最終の五能線で鯵ヶ沢に向かう。鯵ヶ沢温泉はしょっぱい味がした。明け方、猛烈な雨音で眠りを妨げられるが、起きる時間には晴れ。 数年前のアサヒカメラ誌に、写真家瀬尾明男さんの「厳寒の津軽を歩く」という撮影ガイドが掲載され(02年2月号)、その写真と文章にすっかりやられてしまった。いつか五能線に乗って、日本海の写真を撮りたい、と思っていたのである。 鯵ヶ沢の町を歩いて海を見てから、再び五能線で深浦に向かう。最初に車窓から日本海が見えた時は感動した。とても深い色だ。 乗り継ぐ電車を待つ間、深浦でも写真を撮る。カメラはM6にレンズは35ミリだけ。影響されやすい僕は、瀬尾さんと同じフィルム、コダクロームを使う。デジタル全盛の今、すっかり時代おくれの道具である。夢中になって写真を撮るのは久しぶりで楽しかった。 昼の1時半過ぎに深浦を出てからはひたすら電車に乗る。東能代から特急、秋田からは新幹線に乗って、東京に着いたのは9時半。その足で早速フィルムを現像に出したら、コダクロームは今や1週間かかるらしい。この渋い発色のフィルムは製造中止で、国内での現像受付は12月20日に終わる。 現像があがってくるのが本当に楽しみだ。 No.188(2007年11月1日) 10月13日、マリオ・ブルネロの指揮する紀尾井シンフォニエッタの演奏会を聴いた。 演奏会はだいたいいつも、できるだけ舞台から遠い席で聴くようにしているが、この日は前から2列目の席だった。オーケストラ全体のまとまった音はとらえられないかわりに、ヴィオラ、コントラバス、ティンパニなど、近くの個々の楽器の音がよく聴こえて楽しかった。 武満徹の映画音楽のあと、ブルネロの弾き振りでニーノ・ロータのチェロ協奏曲第2番。 ブルネロのどの指にも止まらずにかかるヴィヴラートや体の柔らかさ、左手の移動、視線、などレッスンを受けているような距離で見て、あぁ僕にはすることがいっぱいある、と思った。 アンコールはカサドの組曲の終楽章。ファンタジーとアイデア満載の演奏だった。次の来日は来年秋だそうで、また楽しみだ。 10月30日、都響定期演奏会はゲルハルト・ボッセさんの指揮でハイドンのトランペット協奏曲と交響曲85番、101番。僕が弾いたのは101番の交響曲だけだったけど、トランペットの高橋君も素晴らしかったし、ボッセさんに包まれたような時間は素敵だった。 No.187(2007年10月21日) 今年のサイトウキネンで、音楽プロデューサーの中野雄さんにお話を伺う機会があった。 以前の近況報告に書いた、コーガンのCDを探すきっかけになったのは、中野さんのラジオ番組を聴いたからである。(近況報告のバックナンバー146、153を参照してください) とても丁寧な方で、コーガンの話をいろいろしてくださった。番組の放送は2ヶ月に一度、月初めの月曜深夜(正確には火曜日午前1時過ぎ、NHK第一放送)だそうで、11月の放送が楽しみだ。 先月久しぶりにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾く前、オイストラフの録音を聴いた。ライヴ録音で少し傷があるのだが、スケールの大きな音楽に、本当にあの時代のソ連の演奏家たちはすごかったんだと思った。 先日またシャフランのCDを見つけて買ってしまった。今度はバッハの無伴奏とベートーヴェンのソナタの4枚組全集。まだベートーヴェンしか聴いていないが、音楽への真摯な姿勢と、素晴らしい音色に触れると、自分はチェロを始めたばかりのように感じてしまう。 No.186(2007年10月17日) 中学生の時、才能教育の弦楽合奏団で当時の東ドイツへ演奏旅行に行った。その旅行でお世話になったツアーマネージャーのブリギッタさんの来日にあわせて、ささやかな同窓会があった。 あの頃の東ドイツの暮らしが、実際にどのようなものであったかは僕にはわからないけれど、建物の中はいたるところにホーネッカー議長の肖像画がかかり、街はひっそりとしていた。ベルリンのブランデンブルク門は、東側からは何百メートルも離れたところからしか見ることができず、入ることのできない警備された空白は、言いようのない重いものに感じられた。 僕の参加した旅行は83年と85年の2回。2回目の時に、確か手伝いのような形で付き添ってくれたドイツ人青年がいた。あわただしいスケジュールが終わり、僕たちの乗った飛行機が東ベルリンから離陸する時、彼は地上で大きく大きく手を振って見送ってくれた。あの頃東の人たちに出国の自由はなかったはずだから、帰国に浮き立つ僕たちを目にして、彼はどんな思いだったろう。 そのわずか数年後、ベルリンの壁は壊れ、世界がこのように変わるなど、誰が想像できただろうか。旅行から20年以上たち、通訳でお世話になったアンゲラさんは日本人と結婚して東京に住み、現在ベルリンに住むブリギッタさんは、東京の地下鉄の複雑さに驚いていた。 まだ東ドイツだった頃のドレスデン国立歌劇場やゲヴァントハウスのオーケストラの録音を聴くと、あの時代に素晴らしい仕事をした人たちを尊敬せずにはいられない。 No.185(2007年10月15日) 10月7日の日経新聞に柳家小三治さんのインタビューが載っていて、とても印象的だったので引用させていただく。 「落語は笑わせるものじゃない、笑ってしまうものなんです。それは師匠・小さんの遺訓であり、その前の小さん、そのまた前の小さんの遺訓。だから私は、客を笑わせることは恥ずかしいことだと思っています。」 昨今の落語ブームについて、 「アブクは必ずはじける。その後はアブクの下にある普通の水が出てくる。元に戻るわけです。別に言うことはありません。みんな好きなことを精いっぱいやればいいんです。」 No.184(2007年9月27日) 9月24日、都響の札幌公演、プログラムの前半にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲があった。ソリストは樫本大進君。 僕が初めてこの曲を弾いたのは95年、N響のエキストラとしてだった。確か、徳永兼一郎さんが最後にN響で演奏された時で、サントリーホールの舞台に出るのに、藤森さんや銅銀さんが体を支えたり楽器を持っていたりしていたと思う。その時のソリストはイヴリー・ギトリス。 徳永兼一郎さんの病気はかなり進行していたはずなのに、穏やかな表情で、 「素晴らしいねぇ」、 とおっしゃったことがとても印象的だった。そう、素晴らしかったのだ。第一楽章の展開部など、ギトリスの魔法で時間の流れが変わってしまったようだった。 以来、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾くたびに徳永兼一郎さんとギトリスのいた光景を思い出す。 長かった今年の夏がようやく終わり、すっかり秋の空気になって、札幌コンサートホールの周りの緑は美しかった。 No.183(2007年9月17日) 9月12日、飛行機で上がったり下がったりするのがどうも好きではないので新幹線で北九州へ。 この夏走り始めた新型車両に乗ったら新築の家のようなにおいが充満していてまいった。岡山を過ぎるとよく揺れるし、いい加減退屈してくる。 北九州芸術劇場のリーディングセッション「さらばブラームス」の稽古は10日から始まっていて、それに合流する形だ。今日は特に音を出さず、役者さんだけの通しを見てあれこれ考えをめぐらす。劇場の雰囲気も人間の雰囲気も音楽の世界とは違っていておもしろい。 演劇は台詞も演技もあるので、音楽よりずっと具体的だが、もっとはかない、刹那的なものを感じる。 9月13日、今日から舞台の横に上がって音を出してみる。 ある程度準備しておいた素材や曲を、演技と音に組み合わせてみて、使えるものを探す。本当は作曲ができるといいのだけれど。 新日フィルにいたころお世話になったヴァイオリンの原さんが今は九響にいるので、リハ終了後新幹線に飛び乗って博多に会いに行く。2人とも新日から離れているのに、何故だか話題は新日のことが多かった。最終の新幹線で小倉にとんぼ帰り。いつもは楽器や荷物を抱えてわさわさしているので、手ぶらで乗る新幹線は不思議な感じだった。 9月14日、通し稽古が始まった。 合間に楽譜の切り貼り、清書をする。いつもと変わらず泥縄である。音楽の入らない稽古を客席から見ているとおもしろい。東憲司さんの演出で、より立体的で様々な時間や空気感のあるものが見えてくる。 今日こそ飲まない、と思っていたのに、晩御飯の時、スタッフからおもしろすぎる話題が出てちょっと飲んでしまう。九州は食べ物も人もいいので、なんだか飲みたくなる。 9月15日、初日。 けっこう緊張した。楽ではない音楽を選んだせいもあるのか、本番前はちょっと元気がなかったが、終わればこっちのものだ。夜は劇場の裏方さんからいい話がきけてとても嬉しかった。 9月16日、東さん、役者さん、スタッフ、この演目に関わっている人がこれだけ同じ方向を向いていることはそうないことではないか。万全な環境をつくってくださって、後は自分の問題、非力を痛感するばかりだった。もっと上手くなりたい。こう弾きたい、というイメージが明確にあって、それができない今、大変もどかしい。 「さらばブラームス」では、音楽を演奏するだけではなく、効果音も出した。もともと電気的につくってある車の止まる音、ガラスの割れる音、風の音にチェロの音を重ねたら思いのほかおもしろかった。ノックの音は楽器をこんこんたたいただけ。 15時過ぎに終演して、打ち上げは舞台のばらしが終わってから。夜になってしまうので、失礼する。後ろ髪ひかれる思いで新幹線に乗った。帰りは飛行機のはずが、どうも台風の近くを飛ぶのは気がすすまないので地面に接したまま東京に向かう。明日からは久しぶりに都響の仕事だ。 No.182(2007年9月11日) 9月7日、久しぶりの休み。今年は一回しか釣りに行かなかったし、何故だか少し多くチェロを弾いていたような気がする。さぁて、あと少し! 9月8日、午前中はベルリオーズとラヴェルのパッチセッション。本番は3公演とも録音しているはずだが、初日に今ひとつだったところ、リスクのあるところを部分的重点的に録った。予定以上に時間がかかり、ちょっと疲れた。 夜はBプログラム2日目。ラヴェルはよかったと思う。デュティーユでさまよったところがあったが、後半のベルリオーズはぐっと締まった感じであっという間だった。楽しかった。 松本に来る前に散髪したが、4週間たってすっかり伸びてしまい、頭が大きくなった。ハリネズミのようだ。誰も僕の髪は見ていないと思うが、今日はTVカメラが入っていた。東京に戻ったら髪を切りに行こう。 9月9日、昨晩から荷造り開始。この後九州での仕事に必要なものもあるので、混乱しながら、片付けの苦手な僕は苦労して昼までかかって詰める。 デュティーユさんはリハーサル初日から、今日まで、Bプログラム全ての演奏会にいらっしゃった。新曲の演奏が終わると、その度に小澤さんがデュティーユさんを紹介するのだが、今日はジャケットの下にサイトウキネンのポロシャツを着ていて、茶目っ気たっぷりだった。 ラヴェルは岩崎洸さんと同じプルトで、ヴィヴラートについて、大きなヒントを頂いた。倉田先生とも久しぶりにご一緒させて頂いて、僕に足りないことを痛切に感じた。上村さんはオペラの間ずっと真後ろから拝見させて頂き、また原田禎夫さんにはカルテットの話をいろいろ伺った。小澤さんの音楽に対する集中力にはいつも圧倒される思いだった。 素晴らしい方たちと間近に接して、話をしたり、実際の手の動きを見られたのは大きな収穫だった。大切なヒントはいつも目の前にあるが、これまでずっとそのことに気づかないでいたのだ。 No.181(2007年9月9日) 9月3日、今日から小澤さんの指揮するオーケストラBプログラムのリハーサルが始まった。 委嘱新作のため、作曲家デュティーユさん本人が初日から指揮台の隣に座った。出来上がったばかりの曲が実際の音になり、小澤さんやオーケストラから疑問があると、すぐ作曲家に尋ねられる、というのはわくわくする瞬間だった。 9月4日、リハーサルの合間にコントラバスの黒木さん、池松さんの写真を撮る。 松本では感度の高いフィルムが入手しにくくて、結局東京から送ってもらった。時代はデジタルなんだなぁ。 先に黒木さんを撮っていて、最中に池松さんが来たら、とたんに黒木さんの表情が変わっておもしろかった。思ったより光が少なかった、ちゃんと撮れているだろうか。 今日からソプラノのルネ・フレミングさんがリハーサルに加わった。ロシア人の声とはまた違う素晴らしい声だ。着ているものもとてもお洒落。 9月5日、デュティーユさんは91歳。 僕たちとは全く違う時間を生きているようで、質問したり話しをしたりすると、とても丁寧にゆっくり対応して下さる。素敵だ。 夜はハーモニーホールで室内楽を聴く。Bプログラムにのっているホルンのジュリア、トロンボーンの山本君、矢部さん、川本さんにとってはオーケストラリハーサルの後の演奏会で、本当に大変な1日だったろう。上村さんのチェロがまた聴けてうれしかった。 9月6日、Bプログラムの初日。 台風の接近で特急あずさは午後の早い時間に運休となったし、中央道も土砂降りだったそうだから、演奏会場に来られなかった人もいたかもしれない。 No.180(2007年9月7日) 8月31日、オペラの3日目。 耳が慣れてきた。残念なことにロシア語はわからないが、例えばその音節が拍の前なのか拍の頭なのか、ということはずいぶん聴けるようになってきた。 ピットの中では歌に絡むパートと、リズムを刻むパートと、和声を受け持つパートと、そもそも入りくんでいるから、さらに歌のかみあわせがわかってくるともっとおもしろい。 少し疲れていたが、本番が終わったらすっかり元気になった。 9月1日、松本市制施行100年を記念してアルプス公園で公演があった。 オペラのアリアのいくつかと、合唱の部分を演奏した。アリアの独唱はカバーキャスト。 詳しくは知らないが、歌手には本番の何時間か前までキャンセルできる権利があり、そのためにカバーの人達が待機している。 スペードの女王はオーケストラが入ってからのリハーサルが2週間、本番が始まってから1週間4公演、カバーキャストはその期間ずっと体調を維持して、ひたすら待っていなくてはならない。 特に今回のように本来のキャストが素晴らしいと、カバーが出演することは必ずしも望ましい状況ではないので、本当に難しい仕事だと思う。 9月2日、スペードの女王最終日。歌もオーケストラもいい演奏だったと思う。結局よく見えなかったのだが、舞台も抜群だったようで、こんなにいろいろな要素が揃うことはそうないだろう。 3週間狭いピットにいて、出入りは不自由だし、隣近所とはよく弓がぶつかったけど、本当に幸せだった。 No.179(2007年8月31日) 8月26日、オペラの初日。 僕の松本滞在は4週間で、ほぼ2週たったところでやっと本番だ。期間の半分を過ぎると時間のたつのが早くなるので、あっという間に最終日になるかもしれない。 本番の声はさらに深みが増して素晴らしかった。リーザ役のオルガ・グリャーコワ、ゲルマン役のウラディーミル・ガルージンをはじめ素晴らしい歌手の声を聴くのは楽しい。 無事初日が終わり、夜はオープニングパーティー。明日から広上さん指揮のAプログラムが始まるので、人数がぐっと増えてきた。 ラフマニノフの2番は、以前本当に弾いたことがあるのか、という感じだったけれど、だんだんいい曲に思えてきた。明日のリハーサルが楽しみだ。 8月27日、広上さんのリハーサル初日。2週間ずっと狭いピットにいたので、開けた舞台で弾けることがまずうれしい。 ラフマニノフは案の定、これでもかこれでもか、というくらいこてこての曲だ。 8月28日、午前中は広上さんのリハーサル、夜はオペラの本番。 幕間の休憩に外に出て月食を見た。歌手はますます素晴らしく、声と一緒に弾いていることで、自分も何か変わってきていると思う。 8月29日、広上さんのリハーサル。初日はみんな弾きまくってごうごう鳴っているばかりだったのが、ずいぶん見通しがよくなってきた。 8月30日、Aプログラムの本番。本番はオーケストラのテンションも音量も5割増しくらいで、長いラフマニノフの2番が短く感じられた。 本番ならではのテンションは、ふたを開けてみないとわからないもので、それはこの仕事の醍醐味かもしれない。 No.178(2007年8月25日) 8月19日、ハーモニーホールでロストロポーヴィチのメモリアルコンサート。僕はチャイコフスキーの弦楽セレナーデを弾いて、その後は客席で聴いた。 オペラのソリスト4人がそれぞれ歌ったチャイコフスキーの歌曲は圧巻で、いつもピットの頭越しに聴いていた声は正面からだとこんなにすごいのか、と驚く。やっぱり声だ、楽器はかなわないなぁ。ピアノの江口 玲さんも出演していて、多彩な音色や表現が本当に素晴らしいと思った。 8月22、23日はオペラの通し稽古。幕間の休憩もたっぷりあるので、3時開演だと終演は7時近くなりそうだ。2幕が終わるまでがなかなか長い。でもそれだけの内容を暗譜して、しかも立ったままでいる小澤さんは ったいどういう人なのだろう。 いろいろな人がオーケストラにいて、いつもと違う音が聴けるのは楽しい。クラリネットの1番にはメトロポリタン歌劇場からスティーヴン・ウィリアムソンさんが来ていて、ツボを心得てなおかつファンタジーあふれる 演奏には毎回わくわくする。僕の目の前には上村昇さんが座っていて、毎日間近に音を聴けるのは本当にうれしい。 No.177(2007年8月19日) 8月15日、今日から歌手が入ってのリハーサル。独唱陣は素晴らしく、初日からそんなすごい声でいったいどうするのだ、と思った。 オーケストラの配置が変わって、低弦は上手寄りに移動した。舞台も字幕も少し見えるようになったが、小澤さんの指揮は見えにくくなってしまった。ピットは狭いので、全員の全てを満たすのは無理だろう。 舞台はかなり傾斜していて、しかも遠近感を誇張してあるので、客席から見ると不思議な感じだ。 夜はハーモニーホールで室内楽を聴く。ロバート・マンさん、渡辺さん、店村さん、原田禎夫さんのカルテットでバルトークの6番。素晴らしい演奏で、マンさんが87歳というのは信じられない。 8月16日、こんなに暑い松本は初めてだ。 オペラのリハーサルは午後からなので、午前中はさらったり譜読みしたりしている。毎日様々な声や楽器の音が耳に入り、刺激になる。 8月17日、今日のリハーサルでオペラの全ての部分の音出しが終わった。 舞台ではソリストだけでなく、合唱や子供、ダンサーまで、様々な衣装で様々な動きをしていて、どうやらかなりおもしろそうだが、残念ながらほとんど見えない。 8月18日、松本へ来て初めての休み。 早起きして今年も犀川に釣りに行くが、あまりの暑さに9時で退散。でも魚の顔が見られてよかった。 午後は学生の室内楽をあがたの森で聴く。今の僕は一人前になったつもりで仕事をしているが、彼らのひたむきな演奏に触れて、確実に失っているものがあると感じた。 No.176(2007年8月14日) 8月13日、平吉山荘での演奏会、今年もあたたかく迎えて頂き、本当にありがとうございました。 わずか2日の蓼科滞在でも、東京の騒音と酷暑から解放され、風の音をきき、木に包まれ、夜は降ってきそうな星空を見、すっかり生き返った。 演奏会では思いもかけない出会いや再会があり、とてもうれしかった。 終演後松本へ。夜、「スペードの女王」の勉強をする。いい曲だけど長いなぁ。オペラの内容はプーシキンの原作と少し異なるようだ。 8月14日、サイトウキネンが始まった。 今日は「スペードの女王」の譜読み。オペラは一人でさらってもおもしろくないので、練習の開始が待ち遠しかった。ただ、僕の座る場所はオーケストラピットの真ん中、今回も舞台は見えそうにない・・・。 No.175(2007年8月12日) この夏は蓼科でラフマニノフのソナタ、松本でチャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」、ラフマニノフの2番の交響曲、とロシアものが続く。 一昨年のサイトウキネン、先頃亡くなったロストロポーヴィチの指揮でチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」と交響曲第5番を演奏したことは忘れ難い。チャイコフスキーは、多分日本人の耳にもなじみ深い し、普段の仕事でもよく弾く。 でも、ロストロポーヴィチにとってのチャイコフスキーは、僕らの知っているものとはどうやら随分違うらしい、と思った。悲しみ苦しみ喜び怒りの感情の度合いがまるで違うし、彼とオーケストラとの関係はお世辞 にも良いとは言えなかったが、1回だけの本番はそんなことはどうでもいいと思わせるくらい、絢爛豪華で極彩色の、しかも深いものだった。激しい音楽であると同時に、とても懐かしい、過去の話のようだった。 オペラの原作、プーシキンの「スペードの女王」(岩波文庫)を読んでいる。一緒に収められている短編「ベールキン物語」も、まるでチャイコフスキーの音楽のようで、濃密な色合いに時がたつのを忘れてしまい  そうだ。 ラフマニノフの2番は、新日フィルにいた時に弾いているはずなのに、本当に憶えていない。最初のリハーサルで指揮者がいきなり全楽章を通したことは憶えているのだが。 久しぶりに勉強してみると、リズムの扱い方がチェロ・ソナタにとてもよく似ていると思った。 9月15・16日の「さらばブラームス」の打ち合わせを、演出の東さん、プロデュースの能祖さんとした。 7人の役者が朗読するなかに、僕のチェロも加わる、というもの。題にあるように、ブラームスの六重奏の有名なテーマも弾くし、効果音も出すし、とおもしろそうだ。 クラシックの演奏会はプログラムを決めてその先をどう演奏するか、が重大事だが、演劇の人たちといると、そのずっと前の何もないところから作り上げていく、先が予想できない楽しさがあると思う。 No.174(2007年8月11日)  為末選手の本を探していて目にしたのが、アンナー・ビルスマが表紙に写っている雑誌「考える人」(新潮社)。この雑誌は知らなかった。 ビルスマのインタビューと自宅の写真が大変興味深い。 自著「Bach, The Fencing Master」に触れながら、バッハが優れた弦楽器奏者であったことに言及する。弓づかいにはアップとダウン(上げ弓と下げ弓、つまり吸う息と吐く息)がある。アップボウで弾くと音はだん だん大きくなるし、ダウンボウだと小さくなる。 「・・・そう考えると、オーボエなんて実に素晴らしい楽器なのに、息を吐くことしかできない。・・・鍵盤楽器も同じ。だからもしピアノを弾きながら呼吸を表現するとしたら、演奏者が想像力で補うしかない。・・・19世 紀の有名な作曲家はバッハの時代と違ってほとんどがピアニストです。モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、・・・・・。みんなピアノという楽器の素晴らしさに夢中になり、・・・」 こんな指摘は初めてで、目からうろこが落ちる思いだった。弓の上げ下げを前提として書くか書かないかは大きな違いだろう。一つ一つのフレーズの意味が全く異なってくるかもしれない。 去年の秋から中断している「Bach, The Fencing Master」をまた読み始めようか。 No.173(2007年7月29日) 陸上400メートルハードルの為末大選手の「日本人の足を速くする」(新潮新書)がおもしろい。演奏につながることがいっぱいある。 日本人と欧米人の体の違いやウェイトトレーニングの弊害などの記述の後、 『どうやったらうまくいくのか、自分の頭で考え、工夫を凝らし、イメージして、体をコントロールする。その過程で能力が開発され、さまざまな状況に対応する力が伸びていくのだと思うのです。  もうできるようになってしまってからの反復練習には、現状維持の目的は認めても、「昨日より凄い自分」にたどり着く可能性がありません。  であるならば、なるべく回数や量は少なくして、質の高さで能力を鍛えるアメリカ式のよさを、日本人はもっと取り入れてもよいのではないでしょうか。』 さらうことも同じだと思う。 また、本番中に緊張や不安からいつもどおりの演奏ができなくなることがある。いかに良い集中に持っていくかが大きな問題だし、舞台で恐怖にとらわれて指が動かなくなった時は最悪だ。 『不安に思う、思考する、ということで、脳が多くの酸素を使ってしまうのです。  ということは、不安を感じず、余計なことを考えなければ、その分、体に回る酸素の量がアップすることになります。  事実、運動効率系のこうした計算は、実際に走っていて実感することができます。不安な気持ちを持っていたり、あれこれ考え事したりしながら走っていると、体が言うことを聞かなくなるポイントが早く訪れるの  です。』 最後の章では〝夢の陸上キャラバン隊〟のことが出てくる。昨年、100メートルの朝原選手ら合計7名のトップアスリートが杉並区の小学校を訪れ、為末選手がナビゲーター役を務めて、校庭で小学生にパフォ ーマンスを見せたそうだ。 いわば陸上のアウトリーチだ。目の前で走る・跳ぶを見た子供たちは、きっとびっくりしただろうなぁ。 No.172(2007年7月25日) 日間チェロを弾かないことにした。 まる3日弾かないのは去年マルタ島に旅行して以来だと思う。今、次々と発見があって楽器を弾くことが楽しくて仕方ないのだけれど、夏から秋にかけて仕事がきつくなる前に一度体を休めようと考えた。本当はヨ ーロッパの人たちのように3週間くらいバカンスがあると、心も体も長持ちすると思うのだが、残念ながらそれほど優雅ではない。 休んだ日数だけ、もとに戻すのにかかると思っているので、3日休んで3日リハビリの勘定だ。楽器を弾く感覚は実に不思議で、毎日弾いていないとあっという間に衰える。楽器を弾く手が他人の手のようになって しまう。ただ、連日何時間もさらったとしても、少なくとも目に見えるところにはどこも筋肉はつかないのだが。 いつもはさらう時間を捻出するのに四苦八苦しているのに、仕事も練習もない日は、夜になるのが本当にゆっくりだ。昨日、久しぶりの晴れに気をよくして、炎天の真昼間3時間自転車に乗ったらひどく日焼けして しまった。 今日は汐留ミュージアム、「ルオーとグロテスク」展に出かけた。圧倒されるような力強い黒を見て、こういう説得力のある演奏がしたい、と思った。 No.171(2007年7月23日) ドヴォルザークの7番のCDを探している時に見つけて、つい買ったのがグリュミオーとハスキルのベートーヴェン、ヴァイオリン・ソナタ全集。シャフランの7枚組CDも出しているBrilliant Classics(近況報告    No.146,148参照)から出ていて、もとはデッカによる1950年代の録音らしい。 この2人によるモーツァルトのホ短調のソナタは大好きな演奏だ。ベートーヴェンも劣らず素晴らしい。澄み切ってどこまでも伸びていく音のスプリング・ソナタやト長調のソナタは、音楽の喜びにあふれている。 仕事抜きでCDを買うとき、そういう録音をきいて育ったせいかもしれないが、どうしても50、60年代の演奏が多くなる。演奏も素晴らしいし、今風の耳あたりの良いものではないが、実体感のある録音も好きだ。 少し前、たまたまついていたFMからヨーロッパの若いヴァイオリニストによるブラームスの1番のヴァイオリン・ソナタが流れ、みずみずしい音楽が大変印象的だった。このソナタは作曲者自身によって、チェロの ためにも編曲されていることを思い出し、早速楽譜を入手して音を出してみた。 ブラームスがヴァイオリンとチェロを、はっきりと違う性格を持った楽器として扱っていることがよくわかる。チェロの曲に比べて、一つのフレーズに含まれる音域が広く、重音も多い。残念ながら、チェロにはヴァイ オリンの高音の美しさはないし、ヴァイオリンの曲を不器用なチェロで弾く都合上、しじゅう音域が上がり下がりして、フレーズの中で音の流れができにくい。(ヴィオラでシューベルトのアルペジョーネ・ソナタを演 奏する時のようだ・・・) けれどその世界はホ短調やヘ長調のチェロ・ソナタには全く無いもので魅力的だ。いつか演奏会で弾けるようになるだろうか。 No.170(2007年7月17日) 自宅にいたら、ゆらゆらと長く揺れるのでテレビのスイッチをつけた。また新潟が震源ということに驚いている。 前の大きな地震からの復興という思いをこめて、去年の夏から秋にかけて小出郷文化会館を拠点に、魚沼市や長岡市を演奏で訪れたばかりなのに・・・。 幸いお世話になった方には連絡がとれた。小出郷文化会館は『2年前の地震後に修繕した大ホール天井の一部などがまた割れました。』 少しでも早く余震がおさまることを祈るばかりです。 No.169(2007年7月16日) 台風の影響で雨の降る中、7月14日の都響演奏会には多くの方にお越しいただき、本当にありがとうございました。そして、大雨の被害がこれ以上拡大しないよう祈るばかりです。 No.168(2007年7月9日) 学生時代、桐朋にアンナー・ビルスマが来てレッスンを受けたことがある。 曲はバッハやベートーヴェンではなく、ロココの主題による変奏曲。実はこの人の十八番らしいのだ。彼が僕の楽器をとって、主題を弾いた時のことをよく憶えている。派手な音ではないが、楽器が底まで鳴って いると思った。弓の毛は弦にぴったりとすいつき、弦の振動が、左手の押さえている指先から体中の骨格まで伝わっているようだった。 それはそうだ、普段あんなに不安定で裏返りやすい裸ガットを張った楽器で演奏している人だから、よほど奏法がきちんとしているはずである。 その人の持つ音、というのがあって、それはその人が楽器をステップアップしてもそんなに変わらないような気がする。音には隠し難くその人となりが出るが、それと同じくらいその人の体格や骨格が影響する、と 最近考えるようになった。体は楽器の一部になると思う。 チェロをさらっているとあれこれと思いついて本当に楽しい。今はこんなことを考えている: 弓を持つ右手は、弦から弓に伝わる振動を常に感じ、それを止めないようにする。 同じく、弦を押さえる左手の指先も弦の振動を感じて、骨格を響かせるようにする。 昔からの癖で、演奏に夢中になると首がよく動き、体が前のめりになるのを止める。重心はいつでもどっしりとぶれないように。カザルスやフルニエの演奏する姿は安定していて本当に美しい。 No.167(2007年7月2日) 6月29日、杜のホールはしもとでの都響チェロアンサンブル演奏会には、あいにくの天気の中、多くの方々にお越しいただき本当にありがとうございました。美しい響きのホールと、素晴らしいスタッフの皆様にも  深く感謝しております。 僕が都響のチェロアンサンブルに参加して3回目、細かいことはともかく、勢いはどこにも負けない、という感じで楽しかった。反省することは多々あれど、所属するオーケストラのセクションだけで演奏会ができる のは幸せだと思う。 No.166(2007年6月25日) 6月21・22日の都響定期、前半は若いソリスト、ダニエル・ミュラー=ショットを迎えてシューマンのチェロ協奏曲。 大変印象深かった。あたたかく深い音色と安定した技術。彼の音は子音の成分が本当に少なく、ほとんど母音のみ、という感じで、ぱっと聴くと大きい音ではないようだが、きちんと客席まで届くらしい。春に来た  クラリネットのライスターの音も子音が少なくて、似ていると思った。 1日目のアンコールはブロッホ、2日目はラヴェルの、本来無伴奏でない曲を1人で弾いて、朗々と歌うあたり、見事である。 ベルンハルト・クレー氏の指揮によるベートーヴェンの7番は、かつてないくらい穏やかなものだった。 よく演奏される曲なので、どうしても手垢のついた、やっつけ仕事になりやすい。今回はとても丁寧なアプローチで、埋もれがちな声部を表に出し、いつもと違う音楽が見えたのではないか、と思う。第2楽章のモ  チーフ、最初の四分音符、次のマークのついた八分音符二つ、2小節目のスラースタッカートのついた四分音符二つ、それぞれを明確に弾き分ける指示には新しい発見があった。 なにより都響がきちんと機能できたことが本当にうれしかった。 No.165(2007年6月18日) 昨日は休みで久しぶりにチェロを弾かなかった。 演奏することとさらうことは切り離せない関係で、さらわなくてはならない、という強迫観念は本当に強い。その日のスケジュールのどこでさらうか、という考えはいつも頭の中にある。食事や睡眠を一週間分まと  めてとることができないように、練習も毎日しなくてはならない。さらいたくて仕方のない時は全く問題ないけれど、うだうだと夜の9時くらいまで先送りしてしまった日は最悪である。 さらわない、と決めた日は、ほんの少しの残念な気持ちと、心の深いところで安心している気持ちが同居する。 オーケストラに入ってよかったことの一つは、好むと好まざるとにかかわらず、様々なレパートリーを弾かなくてはならないことだ。時としてオーケストラの曲には、ソロの曲にはない理不尽な難しさがある。さらい たくない時でも興味のなかった曲を弾かなくてはならなかったことで、ずいぶんきたえられたと思う。 仕事が終わって家に帰って、ぶつぶつ言いながらさらう。もう学生時代のようにむやみと長くさらうことはできないけれど。 なぜさらうのか、譜読みや上達のためだけではない、自分が救われるためだ。何十年も弾いているはずなのに、いつも発見があり、相変わらずチェロを弾くのは初心者のようだ。 メトロポリタン歌劇場のガラコンサートの模様をテレビで見た。 歌のことは詳しくわからないが、どんな高い声でも支えというのか、重心が低く広くあることが大切ではないか、と思った。さらう材料が増えた。 見附さんにお願いしていたエンドピンが届いた。伸びきってしまった弦も交換し、楽器のセッティングが変わって新しい気持ちになった。 No.164(2007年6月9日) 映画「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」をDVDで久しぶりに観た。 何が良いのかさっぱりわからなかったけれど、今はわくわくする。「忘れられていた」老キューバ人音楽家たちの音楽は、地に足のついたふくよかなものだた。僕たちのしている音楽は血肉化しているだろうか?  それとも舶来品のままだろうか? チェロとエンドピの接している部分か出るクリック音のようなノイズが日増しに大きくなるので、エンドピンの受け口を交換してもらった。これまで使っていたのは8ミリ径のエンドピンで、様々な材質、その組み合わ  せ、あるいは長さなど、多種多様なコレクションがある。迷ったが、ノイズの再発を防ぐためと楽器の安定を考えて、10ミリ径に思い切って変えた。 受け口の構造は8ミリも10ミリも同じなのに、何故か8ミリの方にだけ、エンドピンと受け口の接触面に透明なパイプがある。これで音を存しているのでは、と実は前から思っていた。楽器屋によっては、このパイプ を取り出して木で埋めてから穴をあけなおす、という手のこんだことをしている所もある。10ミリの受け口はもともとパイプ入っていないので、それも変更の理由だ。 よれてしまったテールガットを交換し、受け口の取り付けにも工夫した。 通常エンドピンを固定するネジは、演奏者から見て楽器の右側にあるが、エンドピンにかかる力の方向を考えて(僕のアイデアではない)、裏板側にもってきた。音はずいぶん重心が低くなった。付属のエンドピン (チタン製?)は音がまとわりついて離れず、しっくりこない。チタンとカーボンと真鍮を組み合わせた10ミリ径のものを早速見附さんに注文した。届くのが待ち遠しい。(見附さんのHPは                 http://www.vcyoyo.ecnet.jp/) No.163(2007年6月3日) 6月1、2日は北九州市でのアウトリーチ。 行き帰りの飛行機で多和田葉子著「溶ける街 透ける路」を読んだ。昨年の日経新聞夕刊の連載がまとめられたもので、訪れた世界中の街とそこで出会った人々のことが書かれている。自身の著作を通して交 わる人たちの描写によって、その街の姿が濃密にたちのぼってくるようだ。 このところの急激なユーロ高もあって、そう簡単にヨーロッパには行けないけれど、僕にもしたい旅がある。 2,3週間くらいの期間で出発点はイタリアのフィレンツェかシエナ。予定は決めないでおいて、一つの街で数日過ごしたら、ガイドブックで調べてもいいし土地の人に教えてもらってもいいし、別のトスカーナの町へ 行き、また数日を過ごし、というものだ。 毎夏シエナのキジアーナ音楽院の講習に参加していた20代の頃、1週間ほど時間をつくってシエナを基点に小さな旅をしようとした年がある。残念ながら、ブルネロのクラスの東洋人のうち1人が緊急入院、1人  が2度の救急車、ということになってその計画はなくなった。 外国で息子が入院しているのだから迎えに、と国際電話をかけたら、その母親は連れて帰ってくるよう頼むばかりで、彼を献身的に見舞った後輩と共にあきれてしまった。その子を無理矢理退院させて、翌日は 帰国の便に乗せる、という朝、もう1人が2度目の救急車騒ぎで、僕も再び救急車の助手席に乗り病院へ向かった。 1人の退院と1人の検査の手続きのために2冊のパスポートを持って大きな病院の中を走りまわった。会計に英語のできる人は少なくて、行く度に、またお前か・・・、という顔をされたっけ。 羽田北九州間はスターフライヤー、という新しい会社の飛行機に乗った。座席と座席の間隔が広くて、足も楽だしチェロもすんなり収まってよかった。 昨年マルタ島に行った時の、アリタリア航空だったか、国際線の席の狭さには閉口した。1人ずつのビデオモニターは要らないから、そのかわり少しでも広くしてもらいたいと思う。 ピアノの高橋多佳子さん、ヴァイオリンの礒絵里子さんの3人でのアウトリーチは初めてで、九州の人たちの明るさと共に、とても楽しかった。小学校ではブリテンの無伴奏の組曲の終曲を弾いた。子供たちの前 で弾くためだけに新しい曲をがんばってさらうのもいい。 No.162(2007年5月27日) 5月12日、従兄の結婚式。大変お世話になった伯父と伯母の嬉しそうな顔を見て、本当に良かったと思った。 その数日前に、芦ノ湖に釣りに行った。4月に行きたかったのだけれど、忙しかったり天候不順だったりしたので。 当日は寒気の影響で天気の変化が激しかった。晴れ間ものぞく中、強風で白波の立つ湖を、雨や雷を恐れながら木の葉のように揺れるボートで移動しながら釣りをした。空調も照明も完備された環境で生きて いる僕たち、たまには五感を働かせて魚を追い求めてもいいだろう。釣れても釣れなくても、というつもりだったけど、魚の顔を見ることができた。 飛行機で移動するとき、チェロのためにもう一席用意する。お金もかかるし、チェックインにいつも手間取るし、好きなことではないが、最近ヴィオラを乗せる時も席を取るよう要求される、という話を聞いた。他の楽 器はどうだろうか、窮屈になってきたなぁ。 No.161(2007年4月27日) 4月22日、鈴木鎮一記念館での演奏会には多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。 一泊二日の短い滞在中いろいろな人に会えて楽しかったし、改めて松本の町は魅力的だと思った。本番では良い集中ができて、今つかみかけている何かを逃さないようにしたいと思う。 以前見附さんにカーボンの入ったチタンのエンドピンを注文した時(近況報告のバックナンバー158参照)、カーボンのエンドピンも試させてもらった。先端はチタンと真鍮の2種類。先端の材質で音はけっこう違う  ことに驚いた。 真鍮だけでできているエンドピンも持っていて、楽器の鳴り方がぺたりと平らになってしまった時、リハビリをするようにそのエンドピンを使う。するとまた実のある丸い鳴り方に戻る。音は手元にいる感じだけど。 カーボン+チタンのエンドピン、音離れは抜群でも、少々音が平たいことは気になっていた。これ以上エンドピンのコレクションを増やすまいと思っていたのだが、それではカーボン+チタンで先を真鍮にすれば、 と思い注文したらねらい通り!音の速さと厚みの両方を備えていて、今さらにチェロを弾くのが楽しい。 時々頼まれて音楽家の写真を撮る。 先日は弦、管楽器混成で8人のグループ。服を変えたり並びを変えたりして、全員や一人ずつの写真を撮った。36枚撮りのフィルムで8人のポートレートを撮ると、一人あたり4~5枚だろうか、できあがったプリン トをファイルに入れると、8人が7種類の楽器を持ったとても楽しい写真集が何冊かできあがった。 8人はオーケストラに所属していたり(所属先は3つにわたる)、フリーだったりして、スケジュールを調整するのが大変だったけど、がんばって撮ってよかった。9月の演奏会のちらしのできあがりが楽しみだ。 No.160(2007年4月19日) 4月10日、やっと弓の毛替えをしてもらう。 昨年12月に替えてから、バッハを弾くためによくさらったせいか消耗が早く、最近は松脂をつけてもつけても、ひっかかりが悪い状態だった。以前は半年そのままでも平気な時があったのに。学生時代、重音をさ らうと毛の消耗がはやい、とおもしろいことを言っている人がいたっけ。 毛がつるつるでは仕事にならないので、鈴木秀美さんが言っていたことなのだけ れど、歯ブラシで毛をこする。効果はてきめんだが、すぐまたつるつるになる。今度は消毒用のエタノールで松脂をふき取ってからごしごしすると、こんなにひっかかってよいのか、というくらいごりごりした感触に なる。 どのみち歯ブラシ効果は長持ちせず、やっと毛替えしてもらうと、やはりいい。徐々に消耗するのでわからないのだが、毛の弾力も確実に失われていたようだ。 チェロの、右足にあたるあたりからびぃびぃ雑音がするので、それも見てもらう。 楽器から出るノイズは意外にやっかいで、原因を突き止められないこともある。僕はパフリング(表板、裏板縁の象嵌)が浮いていると思っていたのだけれど、重野さんは表板とネックの間がはがれているのでは、と言う。果たして、そこに膠をいれたら、雑音は小さくなり、音がずいぶん強くなった。そのほんの少しの隙間で振動をロスしていたのだろうか。 古い楽器を毎日がちゃがちゃ弾いているのだから、どこかはがれたりするのも当然だろう。 No.159(2007年4月13日) 3月28日の都美術館、4月3日文化会館ロビーでの演奏会には多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。 コダーイの無伴奏で始まる演奏会は初めてで緊張した。ヴァイオリンとの二重奏では双紙君の音色が曲にぴったりでとても楽しかった。 4月1日は夏のような陽気だったのに、3日は雨で真冬の寒さ。ロビーでの演奏中、僕たちの背後から冷たい風が吹き抜けていたせいか、ポッパーの組曲の最後では順平さんの右手と僕の左手が売り切れて(コ ントロールできないくらい疲れて)しまった。うーむ。 荒天にもかかわらずあふれるくらいたくさんの方々に聴いていただけて、この日も楽しかった。あまり機会はないけど弦楽器の二重奏もいい。 一方オーケストラは、4月4日からテノールのヴィンチェンツォ・スコーラ氏、指揮のマルコ・ボエーミ氏と一緒の仕事。 最初の3日間はスコーラ氏のための録音で、プッチーニのオペラアリアばかり十数曲。知らない曲も多かったけど、プッチーニの美しく劇的な旋律を堪能した。指揮者も歌手もとにかく陽気で楽しい。あぁイタリア 人ってこうだった、と思い出したし、プッチーニの音楽とこの気質は切り離せないことがよくわかった。 4月8日の演奏会はもっとポピュラーなプログラムで、オーケストラ作品もあった。 本番でのスコーラ氏の声は、(こういうことを書いては録音を企画した人たちには申し訳ないのだが)、録音の時とはまるで別人の本当に素晴らしいものだった。やはり、ここ一番の声、というものがあるのだろう。 録音の現場ではどうしても安全志向になるし、テイクを重ねるごとに、だんだん音楽というより事務的な何かになってしまい、いつもすっきりしない感じが残る。編集作業があるから、最終的に出来上がるものは僕 たちの印象とはまるで異なったものになるかもしれないのだけれど。 No.158(2007年3月27日) これまでになかったことなのだけれど、先週ずっと世界水泳のシンクロナイズドスイミングをテレビで放映していて、つい見てしまった。 圧巻はやはり最終日のチームフリーで、8人、8つの顔・16本の手・16本の足での表現には無限の可能性を感じた。複雑で早い動きは、時々何が起こっているのか わからないほどだった。シンクロを見ていてひきこまれるのは、縦の動きをかなり自由に取り入れられるからではないだろうか。地面の上ではこうはいかない。 ロシアは強い。ロシアのコーチが言っていたように、バレエの伝統があって、だからあの振り付けや、音楽と動きの素晴らしい関係があるのだろう。スペインチームの練習風景も少し前に放映されたが、振り付け を考える際に選手一人一人のアイデアを生かしていて、きっとこれはおもしろいことになるだろうと思った。 支えの何もないところであれだけの動きをするのだから、とにかく大変なことだと思った。 3月28日にコダーイの無伴奏を弾くので、久しぶりにシュタルケルの録音を聴いた。何度聴いても壮絶な演奏で、この曲の録音はいっぱい持っているが、やはりこれだろう。 バルトークの息子がエンジニアを務めた1950年ころの古い録音だが、眼前にぐいぐい迫る音は圧倒的で、最近の何だかうすめられてきれいになった録音よりずっと真実味がある。 演奏は必ずしも楽譜に忠実ではない。リズムは独特なものがあって、コダーイを勉強し始めたころすっかり影響されて、気づかずにシュタルケルのリズムを真似ていたことを、少しおかしく思い出した。 この盤のカップリングでヴァイオリンとの二重奏が入っている。同じく切れ味の鋭いヴァイオリンを弾いているアーノルド・イーダス、名前を聞いたこともないしCDのライナーノーツにも何も書いていない。どういう人 なんだろう。こんな素晴らしい仕事をしているのに。 ずいぶん以前、見附さんのつくった、カーボンの圧入されたチタンのエンドピンを取り寄せた。すごく軽いので演奏旅行にいいと思ったけれど音は合わなくて、結局それは順平さんのものになった。 先日ふと思いついて順平さんに借りたら、かなり良い印象で驚いた。手元で踏み込める感じはないが、音の広がりは断然こちらで、本当にわからなくなる。楽器も僕も変わった、ということだろう。楽器との相性は もちろんあるし、エンドピンが変わると楽器も変わる。 見附さんのホームページをのぞいたら、カーボンの極太エンドピンというものが開発されていて、とても楽しそうである。(見附精機工業のHPアドレス http://www.vcyoyo.ecnet.jp/index.html ) No.157(2007年3月18日) CDプレーヤーが新しくなって、あらためて家にあるディスクを聴きなおしている。 ルーマニア出身のピアニスト、ディヌ・リパッティが33歳で亡くなる数ヶ月前の最後のリサイタル(HIS LAST RECITAL AT BESANCON FESTIVAL)の録音を最近よく聴く。凛とした、聴くこちらの姿勢を正してしまう ような、本当に素晴らしい演奏だ。 バッハのパルティータやモーツァルトのソナタの前に、アルペジオ(分散和音)をさっと弾いてから演奏が始まる。現在こういう習慣は無いけれど、演奏者も聴衆も音楽に入りやすくなるから、あったらいいのにと  思う。 先月聴いたブルネロの印象が強い。 彼は体を柔らかく使い、強いアタックも深い音になる。そのことは10年前にシエナで習ったときから知っていたはずなのに、今どんなに大切かわかる。どうしたら体や腕の重さをそのまま弓に伝えられるか、チェロ を弾いている間じゅう試行錯誤している。このことで前に進むにはかなり時間がかかりそうだ。 でも、何年やっても次々と取り組むことが出てくるチェロを弾けることは、本当に幸せなのだと思う。 月末から来月初めにかけて、弦楽器の二重奏の演奏会があり、そのリハーサルが始まっている。 コダーイのヴァイオリンとチェロのデュオは、きちんと取り組んでみると、さらってもさらっても手に入ってこない感じで苦労している。苦労しながらも、双紙君と実際に音を出してみると、大げさに言うと、音楽が生 まれていく瞬間に立ち会っているようで、わくわくする。 ポッパーの作品を弾くのは本当に楽しい。チェロの名手が書いているので、楽器の性能が存分に引き出される、まずそのことが心地いいのだろう。順平さんと来月弾くポッパーの組曲、終曲のマーチではかつて 経験したことがないほどオクターヴの重音が続く。決まったらきっと格好いい、と思って練習にはげんでいる。 No.156(2007年3月12日) 4本あるチェロの弦のうち、上2本はスチール、下2本はガットを使っていて、スチールは2ヶ月、ガットは3ヶ月で交換することにしている。 オーケストラでがしゃがしゃ弾く上に、最近はコダーイをさらうために頻繁に調弦を変えたせいか、いつもよりテンションのなくなった感じのガット弦を換えた。 新しく張ったガットはかなり伸びるので馴染むのに時間がかかる。試しに印をつけたら2センチくらいは伸びる。最初は暗くて太い音色が、落ち着くと明るくて倍音の多い音になる。やがて伸びきって弾力がなくな  る。 この何年か使っているのはピラストロのオイドクサ、という昔からあるガットで、最近の新しく開発された弦に比べるとずいぶん張力は低いだろう。1600年代や、1700年代はじめ頃の古い楽器に張ったら、きっと合 うだろうなと想像する。 強い弦を張ると、弾いた感覚も強くなるので、わかりやすいし安心するけれど、楽器の箱が鳴らずに弦だけびいびいいっているような状態に陥りやすいような気がする。 僕はオイドクサをとても気に入っているが、そもそもガットだから狂いやすいし、ハイポジションは音になりにくいし、その低いテンションに楽器が馴染むのにとても時間がかかるので、誰かに薦めたりはしない。多 分、使う人は多くないだろうから、製造が継続されるよう祈るばかりである。 No.155(2007年3月5日) バッハがそうであるように、コダーイの無伴奏チェロ・ソナタも特別なレパートリーであると思う。96年に京都の法然院で初めて弾かせて頂いてから、機会のあるたびに演奏してきた。 下2本の弦を半音下げ、様々な技法を駆使し、演奏時間は30分。難しいけれど、チェロのことを本当によくわかって合理的に書かれているので、きっと弾けるはずなのだ、と思う。 この曲には何かの感情があるとずっと思っている。ずっと思っていてもまだ言葉にはできない。 去年の2月以来、ほとんど一年ぶりに今月と来月演奏する。いろいろな経験を積んで、また同じ曲に取り組めるのは大きな喜びだ。以前よりずっと広い景色が見える。 毎日、  「さらわんといかん、さらわんといかん」 と言いながらさらい始め、一通り弾いて、  「芸の道は長く険しい・・・」 とつぶやく。 No.154(2007年2月25日) 今年のJTアートホールのチェロアンサンブル公演は2月20日だった。 リハーサルの合間にバッハの無伴奏の話で盛り上がった。あの組曲には魔物がいて、家でさらっているときは姿を見せないのに、本番では急に暗譜がこわくなる。 6曲あるバッハの無伴奏チェロ組曲は、それぞれプレリュードで始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエットあるいはブーレ、ジーグと前半後半に繰り返しを持つ5つの組曲で構成される。 第4番のプレリュードで(同じリズムがずっと続くので見失いやすい)わからなくなり、2往復くらいしてどうにか主調の変ホ長調に戻して終わった話。 第2番のアルマンド、前半を繰り返して次は後半に進まなくてはならないのに、後半がどうしても思い浮かばず前半をもう一度繰り返して、3回目を弾いている最中祈るような気持ちでいたら思い出せて、先へ進  んだ話。 第3番の組曲を弾いていて、プレリュードの次にアルマンドを弾くはずが、何故か最後のジーグを弾いてしまった話。 第5番の2曲目、アルマンドがどういう訳か1曲前のプレリュードで終わってしまい、でもこわくてもう一度アルマンドを弾くことはできず、3曲目のクーラントを弾いた話。 第5番のサラバンド、8小節ある前半を無意識に4小節で繰り返してしまい、初めて5小節目に入った時ぎょっとした話。 僕の話は、小さなイベントで2番のプレリュードを弾いていた時、暗譜がとびそうになって音がかすれながらどうにか弾いていたら、前の方に座っている聴衆の誰かに  「あ、間違えた!」 と言われ、にらみつけてやろうと思ったけれどそんなゆとりはあるはずもなく、弾き終わって探したらやはり誰かわからなかった。 広いステージでたった一人、暗譜がとびそうな時の背筋をはい上がる恐怖はたと えようもないが、状況が悲惨であればあるほど話のネタとしてはおもしろい。誰 かが経験を話すたびに皆で笑い転げた。 以前、著名なチェリストの来日公演で、第1番の組曲(ト長調)の後、第3番(ハ長調)のプレリュードを弾き始めたら、冒頭の下降音階がト長調になってしまった(ナチュラルのはずのファにシャープがついていた) 、という話もあるから、僕たちだけのことではないらしい。 No.153(2007年2月19日) 2月16日アンカーヒアでの演奏会、多くの方にお越し頂き本当にありがとうございました。 久しぶりに仙川で弾けて楽しかった。 以前の近況報告に書いた、レオニード・コーガンの演奏するショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲の1959年のライヴ録音が手に入った。シャフランの7枚組みと同じ、Brilliant Classics から出ているHistoric   Russian Archives と銘打たれたシリーズの、コーガンの10枚組に入っている。 途方もなく強靭なテクニックに裏付けられた演奏は、それ以上に強い意志を感じさせる、命がけの演奏だ。ディスクをかけかえるだけで次から次へとすさまじい音が聴けるのは、夢のよう。 2月17日、新日フィルが東京文化会館の大ホールに来ていて(都響の本拠地は文化会館)、なつかしい人たちにたくさん会えてうれしかった。 同日夜は白寿ホールでマリオ・ブルネロのリサイタルを聴く。 圧巻はやはり最後に弾いた、ソッリマのコンチェルト・ロトンドだろう。A線をGに、C線もGに(!)下げて、上からG・D・G・Gという滅茶苦茶な調弦の曲だが、すごく楽しかった。上二本の4度の音程感はギターのよう だし、音響を入れてディレイなど、様々な効果を出し、ミニマルミュージックやポピュラーの要素もあって、いかにもソッリマ、という感じだった。楽譜は出版されているということだったので探してみよう。 ブルネロは体も音楽も重心が低く、全ての関節が柔らかくて、あぁできたらいいな、と思う。 彼は着実にキャリアを築いて、最近特に人気が出てきているのに、いつ会っても素朴で温かい人柄と、じっと相手の目を見て話す誠実さは全く変わらず、だからやはり魅力的で素晴らしいのだと思う。 No.152(2007年2月4日) 新しいCDプレーヤーが届いた。 東京に出てきた年の冬、親にお金を借りてCDプレイヤーを買った。当時の僕にはかなり高価だったが、いろいろな製品を試聴して、どうしてもこれと思ったのだった。予算が無制限ならともかく、その価格帯では その小ぶりな機械だけから音楽が聞こえてくるような気がした。 以来15年以上、スピーカーやアンプは変わったけれど、僕が勉強していく上で、そして楽しみのために、本当によく働いてくれた。どんなに長い時間、このCDプレイヤーから出る音に喜び、苦しんだだろう。楽器 や弓と同じくらい、僕の音楽人生を支えてくれたと思う。 数年前からメカにガタが出始めて、そろそろとは思っていた。数日前一念発起した。 専門店であれこれ聴き比べるのは楽しかった。大編成のオーケストラを聴くと、ヴァイオリンの音がふくよかなもの、クラリネット・ホルンがよくきこえるもの、ファゴットがよくきこえるもの、低音がすごいもの、試聴 しながらこの楽器がここでこんな動きをしているのか!と改めて勉強になったりした。 オーケストラの曲を聴く時は、いろいろな楽器の音がとにかく明確に分離して欲しいし、ソロや室内楽では、どんな弓づかいをしているか、指づかいをしているか、どの弦を使っているか、克明に聴きたい。それは 、ふわっと心地よい音を聴くのとは、少し違うかもしれない。 そうした音が出る機械もあったが、予算を大幅にオーバーして、ぶっとい音の出るものに決めてしまった。 どきどきしながらアンプにつなぐと、果たして力のみなぎった音だった。 あれこれディスクをかけかえ、よく馴染んだ録音から今まで知らなかった音がきこえてくるのは本当に楽しい。僕の好きな、ちょっとだけ古い録音のクラシックはもちろん、ジャズや、キューバ音楽のラテンパーカ ッションなんてとんでもなくご機嫌だ。 もっと広く音楽を感じられるようになったら、とわくわくしている。 No.151(2007年1月31日) 1月26日の演奏会には多くの方にご来場頂き、本当にありがとうございました。 名古屋の電気文化会館では17歳の時のリサイタル以来、何度も弾いてきた。 今回舞台上でゆっくり音を出す時間があり、これまで弾いた曲を思い出したりしながら(本番を控えていない曲を弾くのはなんて楽しいんだろう!)、この長い残響の空間でチェロを弾くことの幸せを感じた。チェロ が楽器であるように、演奏者の体も楽器なのだ、と思う。 あまり演奏する機会のないベートーヴェンの弦楽三重奏は、なかなかスリリングで、本当に楽しかった。ヴァイオリンがもう一人いるかいないか、の違いだが、完成された形の弦楽四重奏とは遠く離れて、もっと  積極的な音楽の形と思った。 終演後あわただしく帰京し、土日は都響の仕事。日曜日の本番を終えて肩こりがひどいのでプールに行く。 2年くらい水泳から遠ざかっていたら、最近どうも具合があまり良くないので、泳ぐようにした。以前住んでいた町では近所のスポーツクラブの小さなプールに通っていたが、先日10年ぶりに入った東京体育館の 広く深い50メートルプールに感激してしまった。たくさんの水の中で自分はとてもちっぽけな感じだ。 少し泳いだくらいでは肩こりはもちろん解消されず、わらにもすがる思いで、首に巻いたり貼ったり塗ったりする製品を売る店にかけこむ。今までこういうものは自分には関係ない、と思っていたのだが。 昨年末の京都の演奏会に向けて結構頑張って、いつもなら頑張った後はしばらくぬけてしまうのに、結局正月もあまり休まずさらって、どうやら少々弾きすぎたらしい。京都ではあんなにがんばってできなかった ことが、今難なくできてしまう時があり、それが悔しくもうれしくもあり、ずっとさらっていた。 今、少しの休み。 指揮の大野和士さんのTV番組があり、プロフェッショナルとはどんな状況でも最善を尽くし、最後まであきらめない旨のことをおっしゃっていた。命がけでひとつひとつの演奏会に臨んでいるのがよくわかった。 僕もどんな状況でも最善を尽くせるようになりたい。 ----------------------------------------------------------------------------- 2006年の近況報告 No.150(2006年12月31日) コダックの伝統的なフィルム、コダクロームの国内販売終了の報を聞いて (wwwjp.kodak.com/JP/ja/corp/info061213.shtml)、やはり・・・、と同時に大変残念に思った。 もちろん僕はたいした数は撮っていないのだが、深く重厚な色は他には換えられないものではないか。来年1月、東北への演奏旅行があるので持って行こうと思っている。 もう何年も、普段の仕事だけでなく、写真を撮りに行く時や釣りに行く時もグー渡辺さん(www.guu-watanabe.com)の作ったショルダーを持って行く。 あまりによく使うので、初代は2度修理してさよならし、今は2代目である。その鞄も破れてきたので修理してもらった。糸を全部ほどき部品をばらばらにし、補強してからもう一度縫い上げる。新品を作るよりはるかに手間だと思うが、愛情あふれる仕事で鞄は生き返った。 年内の仕事が落ち着いてから重野さんに楽器の部品をいくつかかえてもらう。木は乾燥すると縮むので、今の時期にお願いした。 僕は職人さんの手仕事を見るのが大好きだ。 手仕事といえば、楽器をさらうこともそうかもしれない。 物心つくかつかない頃から始めたチェロは、練習していない日の方が圧倒的に少ない。残念ながらいつも意欲にあふれている訳ではなく、わかっていながら取りかかりの遅い僕は「さらわんといかんさらわんといかん・・・」とつぶやきながら毎日ぐずぐずする。 先日京都でバッハを弾いて改めて確信したのは、やはりどれだけさらってあるか、ということだ。ぎりぎりの時にそれがはっきり出てしまう。 今の楽器は93年から弾いていて、一時扱いかねて使っていない時もあった。ほんの最近1,2ヶ月、はじめてこのチェロが話をしてくれるようになった。具体的にはうまく説明できないのだけれど。膨大な時間を過ごしていながら、僕という弾き手のせいで、かわいそうに今までずっと眠っていたことになる。 今チェロを弾くことはとても新鮮で幸せで、今までどうしてこのことがわからなかったのだろう、という思いと、僕にそのことがわかるには三十数年という時間がどうしても必要だったのだろうか、という思いが交錯する。 新しい年もよき年でありますように。 No.149(2006年12月25日) 慌ただしい時期にもかかわらず、12月23日の演奏会には多くの方にお越し頂き、またエラート音楽事務所、アルティの皆様には細やかなご配慮を頂き、本当にありがとうございました。 静かに聴いて頂いたおかげで、演奏に深く集中することができました。クリアしなければならないことはたくさん見つかりましたが、一つ上に進めた気がします。 あのような場を頂けたこと、本当に感謝しております。 No.148(2006年12月22日) 93年の日本音楽コンクールで3位に入賞した時、受賞者演奏会で滋賀県のガリバーホールに行った。その時お世話になったのが京都のエラート音楽事務所、津川さんだ。 その津川さんからお話をいただき、今度の土曜日、京都でバッハを弾く。 これまでバッハ2曲とコダーイ、というプログラムは何度か組んできたが、バッハ3曲を一度に弾くのは初めてで、とりかかってみると中々大変なことである。 以前イタリアのシエナでM.ブルネロのマスターコースに参加していたとき、ブルネロがどこかでバッハを弾く、というので生徒何人かでくっついて行ったことがある。 彼の、いつ洗車したのかわからないほこりだらけのボルボに乗って、2時間くらいのドライヴで小さな町の教会に行った。リハーサルの間、僕たちは外で遊んでいて、結局演奏会は1番と6番と、あともう1曲弾いたのだと思う。 終わってからまたボルボでシエナに戻った。道中あまりの眠さにうつらうつらすると、運転席のブルネロに、「イチロウ、寝るな!」、と言われたことを思い出す。もしかしてその日の午前中も、彼はレッスンをしていたのかもしれない。やはりタフな人だったのだと改めて思う。 以前の近況報告でも書いた、シャフランの裏焼き写真パッケージの7枚組みCDには、バッハも4曲入っている。 特に3番の組曲は冒頭からすごいのだが、最後のジーグは大変なことになっていて、初めて聴いたときはひっくり返りそうになった。そんなに弾くと楽器がこわれますよ、と言いたくなる。 こういうバッハを弾く人は、今はまずいないと思うけれど、確信にみちたまぎれも無くシャフランのバッハだ。 シャフランのバッハをあれこれ聴いたら、すっかり毒気にやられてしまった。 バッハのチェロ組曲には書かれていない音がたくさんある。全ての音を書かずに、楽器の特性、演奏者のイマジネーション、聴衆の記憶によって、どれだけの音楽ができるか、という壮大な実験でもあると思う。 5番の組曲は作曲者自身によってリュート用に編曲されていて(BWV995、ト短調の組曲)、楽譜を見ながら聴くと、チェロ組曲では2声の箇所にバスパートが加わっていたり、重音のないサラバンドやジーグでは豊かな他の声部が書かれていて、目からうろこがおちるようだ。 23日の演奏会に向けて夏から準備してきた。さらっていると時々、チェロを弾いている体の動きが自分から離れていくことがあって、その時何がチェロを弾いているのだろう、と思う。 小さい時から弾いてきたバッハは今、とても豊かな音楽に感じられる。 No.147(2006年12月5日) 11月14日、ピアノの高橋多佳子さんのリサイタルを紀尾井ホールで聴いた。メインの「展覧会の絵」は次々と新しい絵が見えるようで、素晴らしかった。 11月19日、小出郷文化会館で中越地震復興祈念ガラコンサート。ピアノ2人、歌1人、打楽器1人、金管五重奏、我々のカルテット、で今年春からアウトリーチをしてきた総決算。演奏者のわくわくした感じと、スタッフの意気込みが一つとなってとても楽しかった。最後は破目を外した大変なお祭り騒ぎ。 11月21日からの都響はエリアフ・インバル指揮でアルプス交響曲など。 僕が初めて都響で弾いたのは十数年前の学生時代、急病の方の代わりにエキストラで呼ばれて。やはりインバル指揮でマーラーの「復活」だったが、2回の本番は訳のわからないうちに終わったことを思い出す。 今回はのびのび弾けて楽しかった。インバルの棒は、そこまで!、と思うくらいデフォルメすることがあるが、聴いているときっと丁度いいくらいなのだろう。 もう一つの楽しみは、ピアノのヴィルサラーゼだった。今回のプログラム、ベートーヴェンの4番の解釈は意見が分かれるかもしれないが、演奏家として別格と思った。ロシアの音楽家は同じ人間と思えないことがある。 11月29日からは宮城県登米市でのアウトリーチと演奏会。 まず南方中学へ。3年生ばかり80人ほど、いまどきの子たちがどんな風に聴いてくれるのか心配したが、皆明るくて楽しかった。夕方は佐沼病院のロビーで演奏。びっくりするくらい多くの方に来ていただいた。熱心に聴いてくださる入院の患者さんたちを見て胸がいっぱいになった。 11月30日、新田第2小学校へ。4,5,6年生の前で弾く。最初は遠慮していたのだろうか、終了間際になってどんどん質問が飛び出す。りんごのような赤い頬をしている子供は、東京ではあまり見られないなぁ。午後は米山中学校へ。ここは男の子たちがとても元気でうれしかった。 12月1日に登米祝祭劇場でラフマニノフのソナタを演奏するので、11月29日のアウトリーチでは第1楽章を、30日には第4楽章を弾いた。ピアノの田中さんには大きな負担をかけたが、学校や病院で規模の大きな音楽が演奏できてよかったと思う。 登米市内の伊豆沼には雁や白鳥が越冬していて、実際に白鳥のいる土地で白鳥を演奏したのは初めてだったのではないだろうか。夕方、雁が飛んでいく色づいた空を見ると、この季節にここでラフマニノフを弾ける素晴らしさを感じた。 登米祝祭劇場の小ホールは円形の平土間で、何も組んでいない状態だと、音が焦点を結んでしまうところがあり、かなり音響を心配したが、反響板を立てたりステージを上げたり、いい状態に仕上げて頂いた。 1日の演奏会には、遠くは仙台から沢山の方にお越し頂き、本当にありがとうございました。それから祝祭劇場のスタッフと、ボランティアのスタッフの皆様、3日間朝から晩までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。皆様から多くのものを頂きました。 今回も盛り沢山のプログラムだったけれど、いい流れをつかめてうれしかった。またがんばろう。 No.146(2006年11月18日) 都響の松岡さんに借りた、Anner Bylsma著 Bach,the Fencing Master という本が面白い。辞書片手にのろのろと、なんとか12月の演奏会までに読み終わりたいと思っている。 高校生の時、学校帰りに星が丘三越のレコード売り場で、シャフランの弾くラフマニノフのソナタを見つけた。どうしてその時買わなかったのだろう、以来二度と見ることがなかった。 今回ロシアのメロディアから出たシャフラン5枚組CDにラフマニノフが入っていて、とうとうその演奏を聴くことができた。その他にも2枚組のバッハの無伴奏全曲、Brlliant Classicsというレーベルから出た7枚組と全部で14枚もシャフランのCDを買った。 Brlliant Classicsは紙箱に入ったものだが、シャフランの写真を見ると何かおかしい、何がおかしいのだろう?弓が左手?写真が裏焼きされているのだ。いまどき珍しいミスだと思う。 まだ全てのディスクを聴いた訳ではないが、でもとにかくひっくり返るくらい素晴らしい演奏だ。 先日ラジオを聴いていたら、コーガンの弾くショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲の、1959年のライヴ録音が流れていた。分厚く、しかも研ぎ澄まされた音が飛んでくる、ものすごい演奏だった。鳥肌が立つ、あるいは膝が震える、と形容したらいいのか。 アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集「ポートレイト 内なる静寂」(岩波書店)を買った。 カルティエ=ブレッソンの言葉:「私は内なる静寂をとらえたい、私が訳したいのはその人格であって、表情ではない」 彼の有名な「サンラザールの停車場」の写真を見た、エリオット・アーウィットの言葉が印象深い。 「雰囲気、コンポジション、全てを備えているにもかかわらず、まぎれもなく日常生活の一瞬であるという、素晴らしい作品です。特別な準備はなにも要らず、必要なのは自分の観察力だけ。それに気づいたときから、私は自分もこのような写真が撮りたいと思うようになりました。」 No.145(2006年11月1日) 昨日10月31日、高尾山から陣馬山まで歩いた。久しぶりに何時間も歩くと、頭の中のくちくちしたものが流されてしまっていい。今日はお約束のように太ももとお尻の筋肉痛である。 1979年にアンナー・ビルスマの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲の最初の録音が出て、その頃からバッハの演奏が変わり始めたのではないだろうか。 カザルスがこの曲を再発見したことは有名な話で、以来どのチェリストにとっても大切なレパートリーである。 巨匠と呼ばれる人たちの校訂したバッハの楽譜はたくさん出版されていて、僕も何冊か持っている。この頃の演奏は、演奏者がこう弾きたいからこう弾く、というものではなかっただろうか。 対して、ビルスマに代表される古楽器あるいはピリオド楽器奏者のアプローチは、バッハはどのように考え、その時代はどんな楽器を使い、どんな演奏習慣があり、ということを考えるところから始まっていると思う。 僕は90年代の半ばから毎年のようにヨーロッパに行き、レッスンを受けたり演奏を聴いたりした。また、来日する演奏家の演奏に触れても、若い世代を中心にモダンの奏者もほとんどの人が古楽器の影響を受けてきたと思う。 No.144(2006年10月26日) 10月24日の都響演奏会は梅田さんの指揮で「英雄の生涯」など。 オーケストラのレパートリーでこんな頻繁に7度音程や9度の跳躍があるのは珍しいだろう。左手の活躍は大変なものである。 ヴァイオリンの矢部さんのソロは一段と素晴らしく、肌理が細かく良く通る音は楽器の鳴らし方の一つの理想ではないかと思った。 バッハの無伴奏チェロ組曲は、小学校5年生の時にこの楽器が好きになるきっかけとなった大切な曲であり、学生時代には試験やコンクールの課題となり、様々なレッスンやレクチャーを受け、本やCDでずいぶん勉強もし、いろいろな機会に弾いてきた。 でもバッハには、例えばベートーヴェンやシューベルト、ブラームスのように明確な音のイメージを持てていない。それは自分の想像力の貧しさか、あるいはそれだけバッハが自由な音楽だからなのか。音と音がつながりを失ってばらばらになってしまうことがある。 知識が増えて、重なり合う声部の弾き分けやフレージング、写本の違いによる音やアーティキュレーションの異同などにとらわれすぎて、自分にとってバッハとは何か、という問いかけが抜け落ちていたのかもしれない。 今初めて真剣に探し始めた。 No.143(2006年10月19日) 10月13日、午前中は村松小学校へ。もう少し楽器に触る時間があれば、と思いながら演奏が始まる。学校の音楽室への訪問コンサートだが、決して楽ではないプログラムを組んでいる。でも、高橋さんが本当に楽しそうにピアノを弾く姿を見て、素晴らしいと思った。 午後は長浦小学校。4,5,6年生が対象だった。高学年になると、特に女の子がシャイなことが多いが、ここでもどんどん思いもかけないような質問が出て楽しかった。 2日間で4つのアウトリーチを終え、翌日の演奏会場の琴海(きんかい)文化センターへ。ホールの隣は海で、さらうより先に海を見る。鯵や蛸を釣っている人たちがいて、やっぱり釣竿を持ってくればよかった、と後悔。一息ついて、ゆっくりさらって、落ち着いた。 10月14日、琴海文化センターでの本番。いろいろなところで演奏してきたけれど、会場のすぐ近くが海というのは初めて。練習に疲れるとみかんを食べながらぼんやり海風にあたることができて、嬉しかった。長崎はみかんもおいしい。 演奏会にはびっくりするくらい多くの方に来ていただき、本当にありがとうございました。岩永さんをはじめ、スタッフの皆さんの愛情あふれる仕事にもしっかり支えて頂きました。 今年後半の挑戦であるバッハの6番からプレリュード、サラバンド、ジーグを弾けたし、久しぶりに全楽章を演奏したショスタコーヴィチは、以前よりはるかにはっきりと全体の地図や部分の方向性が見えて、本当に楽しかった。高橋さんとまたどこかで弾けたら、と話した。 3日間これ以上ないほどの晴天に恵まれ、思い出深い長崎滞在となった。 No.142(2006年10月18日 10月11日は宮本文昭さんの演奏会で、後半はブルックナーの4番。宮本さんと一緒の4日間は楽しかった。 4番の交響曲の第一楽章には好きな場所がある。ヴァイオリンのトレモロの中ヴィオラの長い旋律が始まり、途中から金管楽器の壮大なコラールが加わる。その間チェロはまったくの休みで、左側からはヴィオラ、後ろからは金管、右からはヴァイオリンの懸命なトレモロにつつまれる。 二千席近い東京芸術劇場のチケットは完売、我々には大入り袋が出て、中には茶目っ気たっぷり「これにて打ち止め ききおさめ 宮本文昭」というシールも入っていた。 翌日午前の便で長崎に飛ぶ。ピアノの高橋多佳子さん、スタッフの皆さんと合流して神浦港へ。そこから船で池島に向かう。航路は外海なので、荒れると大変なことになるらしいが、幸い凪だった。 池島は炭鉱の島。現在は閉山されて、人口は減っているそうだ。石炭の積み出しに使われた長大なベルトコンベアーや、海水を淡水化する稼動していない巨大なプラント、人の住んでいない大きなアパートなど、初めてみる光景だった。 児童数も減って、池島小学校、中学校は一つの校舎になっている。建物はかなり高いところにあるが、台風が来るとしぶきが上がってくるそうだ。ところどころ去年の台風の傷跡がある。この日はタイトなスケジュールで、学校に着いてすぐ楽器を出して、とにかく弾いた。長崎の子供たちは反応が大きくて楽しい。 終わってフェリー乗り場へ。乗船前の少しの時間を盗んで、ごろごろしている猫の写真を撮る。船からは海に沈む美しい夕陽が見えた。車で遠藤周作文学館へ。海を臨む素晴らしい立地だ。文学館の長い残響に助けられて楽しい演奏会になった。前回の長崎でお世話になった方たちも来て下さって、嬉しい再会。文学館には遠藤周作と阿川弘之の往復書簡も展示してあって、とても面白かった。 ひたすら乗り物に乗った一日を終えて食べた長崎ちゃんぽんは本当に美味しかった。 No.141(2006年10月10日 10月7日の都響演奏会は、イェルク・デームス氏のソロでモーツァルトのピアノ協奏曲K.467とシューマンの4番の交響曲など。 80歳近いデームス氏のピアノは、僕たちとは住んでいる時間が違うのだろうか、言葉には表し難い素晴らしい世界だった。有名な第2楽章では、左手の3連符と右手の旋律との間に絶妙なゆらぎがあって、オーケストラは最初戸惑ったが、見事だった。 12日からは長崎に行く。初日のアウトリーチで訪れる池島を調べたら、周囲4キロの小さな島だ。同日夜の遠藤周作文学館も海の近くのようで楽しみ。 遠藤さんの著書をあまり読んでいないので「沈黙」を読み始めた。ずいぶん以前、朝日新聞の彼の連載のテーマが「共時性」(虫の知らせ、といわれるもの)で、大変興味深かったことを思い出す。 長崎では久しぶりにショスタコーヴィチのソナタを弾く。20代の後半によく弾いた曲だが、今は新しい景色が見える。一つにはオーケストラに入って、経験が増えたことだろう。ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタは1曲しかないが、この数年で4,5,10,11,12番の交響曲を演奏した。 ピアノの高橋さんは彼の曲を弾くのが初めてで、とても新鮮とのこと。慣れてしまうことには少し気をつけよう。 月末に小さな演奏会でベートーヴェンの「ハープ」と呼ばれるカルテットを弾く。これはまさに弦楽器の醍醐味だと思う。 年末に京都でバッハの無伴奏を弾くので、その準備も本格的になってきた。6曲のうち3曲を自由に選択する。かなり迷ったけど1,5,6番に決定。ちらしもできて、あとは進むのみ。 No.140(2006年10月2日 カナダ出身のチェリスト、ジャン・ギアン・ケラスの昨年のリサイタルの模様をTVで見た。 評判は聞いていたしCDも2枚持っているのだが、ベートーヴェンの3番のソナタを演奏する30分の間、言葉もなかった。 ぶれない、本当にぶれない。体もぶれないし、音楽もぶれない。1967年生まれだそうだが、大人なのか子供なのか、判然としない不思議な容貌だ。 弓の使い方が自由だ。ベートーヴェンの冒頭はフラウタンド気味(弓を浮かし気味)に軽い弓を使い、フォルティシモでは使う量を減らしてうんと長い弓で底まで鳴った音を出す。生で聴いたら、きっと抜群の音だったのだろう。 野平一郎さんのピアノも素晴らしくて驚いた。都響は明日(10月2日)、サントリーホールで作曲家としての野平さんの個展となる演奏会がある。 アンコールの「愛の喜び」は、やられた!と思った。とにかく素晴らしい演奏で、僕も頑張ろう。 No.139(2006年9月26日) 最近聴いたCDの中からいくつか。 20年くらい前の来日時の映像が印象深かったピアニスト、アンドレ・ワッツのCDを初めて買った。"Andre Watts plays Liszt"(EMI)というリストの名曲集は、記憶どおり期待どおりの素晴らしい演奏だった。ひとつひとつの音が澄んで、喜びにあふれている。 歴史的名盤とされるカザルスのバッハ、無伴奏チェロ組曲は小さい頃LPでよく聴いた。 その録音を「オーパス蔵」というところが復刻したCDを聴くと、宣伝文句に違わず素晴らしい音で,びっくりした。オリジナルのSP盤のノイズをかきわけるようにして聴いた音ではまったくない。 トルトゥリエはカザルスの音を果実に例えたが、それがわかるような気がする。この復刻CDは原盤の情報を取り出す過程に工夫があるらしく、太い音色や左手の指が指板をたたく音や、シフト(ポジションの移動)もはっきりとわかる。 ロシアのチェリスト、シャフランの弾くバッハの無伴奏全曲がもともと欲しくてCDショップに行ったのだが、売り切れ廃盤。でもロシアのメロディアから出ているシューベルト、シューマン、ドビュッシーの録音を見つけた。大きな商売になるものではないだろうが、CD売り場に行くたびシャフランの知らない録音を目にするのは本当にうれしい。 僕の狭い常識をはるかに超えた演奏で、感動した。シューマンのアダージョとアレグロは、同じ長さの弓で弾いているとは思えないほどチェロが朗々と鳴る。アルペジョーネの第2楽章を聴きながら、彼がもう死んでしまっていることを本当に悲しく思った。 No.138(2006年9月20日) 9月13日松本から帰京、14日に長岡入りして、15日はカルテットのアウトリーチで長岡市の小学校を2校まわる。 雪深い地域だけに、埋もれにくいようひょろりと背の高い消火栓や、積雪の重みをかかりにくくするために青黄赤が縦に並んだ信号機など、興味深かった。午前中に行った中島小学校は大変にぎやかだった。 午後の桂小学校では4,5,6年生22人の前で弾いた。口をあんぐり開けたまま演奏を聴く子がいて、とても印象的だった。楽しそうに聴く子が多くて嬉しかったが、感想や質問を求めると途端に下を向いてしまう。 今までに会ったことのない、純朴な子供たちだった。 16日からは久しぶりに都響の仕事。 松本では一緒にオーケストラを弾いていた趙静がソリストだ。サイトウキネンから数日でショスタコーヴィチの協奏曲を弾くのはなかなか大変なことと思うが、生き生きしている。 18日の本番、彼女は協奏曲を弾き終わって、都響が5番の交響曲を演奏している間も、さらっていたらしい。聞くと、19日にミラノに飛んで、20日にリサイタルとのこと。オーケストラは決して楽な仕事ではないが、ソリストであることも過酷だと思う。 僕はここで一息。マルタ島から帰って以来ずっと気を張っていたが、秋の仕事に向けて今、心と体を整えよう。 松本にいる時からチェロの音がしっくりこなくて、気になっていたので重野さんに調整と、弓の毛替えをしてもらう。そして、オーケストラでいっぱい弾いて、びよびよに伸びきった下の弦を交換する。湿度の高い日本の夏は、僕の使うクラシカルなガット弦には厳しいが、これからは良い季節だ。 No.137(2006年9月14日) 9月3日、エリアが終わった。素晴らしい歌手と一緒に弾ける体験はとても貴重だが、狭く暗いオーケストラピットの仕事は決して楽ではないので、無事4公演終えてほっとする。 9月4日は休みで釣りに行く。しっかり日焼けしてしまった。 9月5日からはオーケストラのプログラム。僕はショスタコーヴィチの5番だけなので、ずいぶん楽をしている。 エリアは一回の公開ゲネプロと4回の本番、シンフォニーは1回の公開ゲネプロと3回の本番があった。もちろん、毎回いいものを目指して演奏するが、本番は生き物でその都度違う景色が見える。 9月9日のオーケストラの公開ゲネプロは力が抜けた感じで悪くなかった。その日の本番はみんなちょっと力みがあって、でもそれが本番の緊張感で良いのかもしれない。 9月10日は休みで、僕は上高地へ。午後から雨だったが、山の空気をいっぱい吸い、猿の親子にも会えて、本当に心地よかった。 9月11、12日の2日間はどんどん演奏が変わっていった。集中力はいつも素晴らしく、曲は毎回短く感じられた。最終日12日は特に良かったと思う。 今回もいろいろな音楽家の音を間近で聴けて良かった。松本滞在中に季節はすっかり秋になり、帰京したら早速別の仕事だ。また頑張ろう。 No.136(2006年9月1日) 9月1日、松本に戻ってアラン・ギルバート指揮のサイトウキネンオーケストラを聴く。職業としているのに、オーケストラを客席で聴くことはあまりなく、それはいつもどきどきする体験だ。100人近い集団の中で弾くのは、部分を顕微鏡で覗いているようで、全体が見えにくい。 ステージがよく見渡せる客席で聴く、溶けあったオーケストラの音は本当に素晴らしい。武満のレクイエムでの弦楽器の豊かな響き、ヒルボリの新しい作品では立体的な音場が堪能できたし、メインのマーラーでお腹いっぱいになった。 9月2日からエリアの後半2回の本番が始まる。 No.135(2006年8月28日) 8月26日、松本に来て初めてのオフは一年ぶりの釣り。エリアは狭く薄暗いオーケストラピットでの仕事だから、広い所で生き物の気配を感じながらいつもと全く違うことをするのはいい。すっかりリフレッシュした。 8月27日、エリア初日。エリア役のヴァン・ダムは本番でも圧倒的な存在感だった。テノールのアンソニー・D・グリフィスは、以前のサイトウキネンで上演したピーター・グライムズがあまりにはまり役で、エリアの最中でも彼の声を聴くとピーター・グライムズを思い出す。 この数日、元ウィーンフィルのトランペット、ガンシュ氏はもうすぐ始まるマーラーの5番を控え室でよくさらっている。耳をつんざくような音量だが、いい音だ。こういうのは聴いたことがない。 28日にエリアの2日目があり、僕は一旦帰京する。松本ではその間、アラン・ギルバートの指揮でマーラーの5番など。本番は聴けそうなのでとても楽しみだ。 No.134(2006年8月24日) 8月21日、エリアのリハーサル初日。最初にざっと全体を通す。まさに音楽が生まれる現場にいるという実感でわくわくする。いたるところにバッハや、メンデルスゾーンの他の作品の影が見える。 一人で勉強しているより全員で音を出した方がもちろん楽しいが、オラトリオの内容自体ヘヴィだし、弾く量も多くて大変。小澤さんはすっかり元気になって、パワフルだ。 8月22日、まずセクションに分かれて分奏。岩崎洸先生、上村さん、趙静たちとオケの曲をさらうこともそうないだろう、すごく刺激を受ける。 後半は、今日からシュトゥッツマン、ファン・ダムも加わって第一部のリハーサル。二人とも本当に素晴らしい声だ。ファン・ダムはもう何歳だろうか。今日はいろいろな人のいろいろな音を聴いた。それを忘れないうちに一人でさらう。 No.133(2006年8月19日) 今年もサイトウキネンが始まった。僕の参加する最初のプログラムは宮本文昭さんの指揮でベートーベンの7番など。 宮本さんは「僕は技術が無いから」としきりに謙遜するが、素晴らしい指揮だ。要求する音楽が非常に明確だからだと思う。松本で小澤さんに指揮法を教授されたそうだが、時々表情や手の動きがそっくり! ベートーベンの7番はよく演奏する曲だけど、松本では別の曲のように聴こえることがあって楽しい。きっと明日8月20日はあついステージになると思う。明後日からはメンデルスゾーンのエリアが始まる。 No.132(2006年8月17日) 8月12日平吉山荘での演奏会、多くの方々にお越しいただき本当にありがとうございました。 演奏だけでなく、今年も蓼科に行けて、いろいろな人に会ったり、平吉先生の奥様と先生の思い出話をしたり、そういうことにも本当に感謝しています。 あまりの難しさに、人前で演奏するのは正気の沙汰ではないと思っていたシューベルトのアルペジョーネソナタをとうとう弾いた。無傷ではとうてい帰ってこれなかったけど、シューベルトの音楽の中にいた時間は本当に幸せだった。僕のレパートリーの大きな穴がひとつ埋まった。 前半には白鳥、黒鳥の歌、くまんばちの飛行、ろばと御者、と続く生き物シリーズ。この4曲はとても楽しく、秋に小学校に行くときにまた弾けたらいいな、と思った。 アルペジョーネを弾いて今年前半の区切りができた。後半はまた新しい目標に取り組みたい。 No.131(2006年8月11日) 8月6日、横浜フィリアホールでのConcert for KIDS。ホールにはギターの村治佳織さんとチェロのゴーティエ・カプソンのちらしがあって、手に取ったら、村治さんの文章の中に僕の名前があってびっくり。 ずいぶん前、沖縄ムーンビーチのキャンプでニャタリのソナタを村治さんと弾いた。その時の僕にはこの曲はちんぷんかんぷんで、レッスンを受けた福田進一さんに「ラテンの音楽を聴かなきゃ!」と言われた。 今年の4月の演奏会で久しぶりに弾いて、はじめて体に入ってきた気がした。一瞬ボサノヴァのようになるあたり、かなり素敵である。 カプソンは、去年アルゲリッチと共に新日フィルに来て、グルダの協奏曲で目の覚めるような演奏をしていったから、村治さんとの演奏会もきっと素晴らしいものになるだろう。 KIDSを2公演やって、ちょっと疲れて帰宅。その夜、テレビではギトリス、ブルネロ、小山のトリオを放映していて、釘付けになった。 そう、あの時のムーンビーチにはギトリスも来ていて、あの悪魔的な魅力に間近で接したのだった。彼は右手に火のついた煙草をはさんだまま、ストラディヴァリウスを弾く。銘器に灰が落ちるのでは、とはらはらするが、本人はおかまいなし。でもどんな滅茶苦茶な行動も、彼の演奏を3分聴けば、全て許したくなる。 時々コントのようになることもあったが、ギトリス節は健在で本当に素晴らしかった。ブルネロも相変わらず良く伸びるいい音だった。 ブルネロはどんなに強く弾くときでも、右手や体は柔らかいままだ。どうしてこんな大切なことに今まで気付かなかったのだろう。素晴らしい演奏を聴いて、さらう気力をもらった。 No.130(2006年8月6日) カルティエ=ブレッソンのドキュメンタリー、「瞬間の記憶」(渋谷ライズエックス)を観た。うまく説明できないが、僕はこのままでいいのだ、と勇気づけられた。 マルタ島の写真は、道具をあれこれ持っていったせいか、思ったようには撮れていなくて、少々凹んだ。このところ素晴らしい写真をよく見るので、よけいにそう感じるかもしれない。 頼まれて半年ぶりにポートレートを撮る。ヴァイオリニスト二人。普段厳しい仕事をしている人たちの顔のなんとすがすがしいことか。来年の演奏会がすばらしいものになりますように。やっぱり写真は楽しい。 マルタ島の写真の整理はなかなか進まないが、少しずつ白黒のプリントができてきて(渋谷のラボテイク)、その仕事の素晴らしさにほれぼれする。 「瞬間の記憶」の中に、マティスが白い鳩と写っている有名な写真を、熟練のプリンターが焼きこんでいくシーンがあり、なるほどこうするのか、と思った。 残念ながら、モノクロネガと僕のスキャナの相性が今ひとつで、パソコンの画面上では思ったような調子が出ない。 先日母のヴァイオリンを見たらすごい状態になっていて、重野さんにネック上げ、指板交換など手間のかかる修理を頼む。素晴らしい仕上がりで返ってきた。職人の手仕事を見るのが僕は大好きで、こうした仕事ができる人を本当に尊敬してしまう。 葉山の神奈川県立近代美術館にジャコメッティ展を見に行く。矢内原伊作やJ.ロードの著作で、呻き罵りながら製作に没頭するジャコメッティの姿が描写されるが、まさにそれらの作品が展示されていて、とても興味深かった。一つの姿勢を貫いた人生は素晴らしいと思う。 カルティエ=ブレッソンの写真の中にもジャコメッティの印象的なものがいくつかあったなぁ。 マルタ島は海に囲まれているのに、不思議と波の音が聞こえなかった。葉山は台 風の影響か、波が高く、久しぶりに体に響く音を聞いた。 No.129(2006年7月31日) 7月20日、都響所沢公演の翌早朝、カルテットでのアウトリーチのため新幹線で新潟に向かう。他のメンバーは前日入りして、温泉と美味しいものを堪能したらしいが、僕は寝不足で魚沼市の上条小学校、午後は宇賀地小学校へ。カルテットで学校に行くのは初めてで、とても楽しい。チェロだけ、あるいはピアノとチェロより響きに包まれるからだろうか。 7月24日、同じカルテットで再び魚沼入りして、演奏会。床も天井も木でできた子育て支援センターが会場だった。チェロは環境に左右されやすいのでアウトリーチでは厳しいこともあるけど、小出郷文化会館のスタッフが特製の素晴らしい床と反響板を持ち込んでくれて、コンサートホールでも得られないような音だった。たまにはこんな嬉しいこともある。榎本さんはじめ皆さんの熱意に本当に感謝。 モーツァルトの14番やラズモフスキーの1番、など。カルテットだけの演奏会は本当に久しぶりで、この純粋な形の面白さに改めて惹きこまれる。同時にソロよりはるかに厳密な世界であることも痛感した。 先日仕事に行く途中、チェロのケースをストラップからハンドルに持ち替えた途端、鈍い音がしてハンドルを留めている鋲が抜けてしまった。ストラップも同じ部品で固定されているから、もし階段でストラップが抜けたら、と思うとぞっとする。代理店に苦情を言って修理してもらう。 チェロのケースはいくつも使ってきたが、ケースそのものは丈夫でも、ストラップやハンドルの金具が問題になることが多い。学生時代、ストラップが外れてケースが新幹線のホームでバウンドした時は、悪夢をスローモーションで見ているようだった。今使っているのは画期的に軽くてコンパクトなケースの、ちょっと重いもの。もう少し丈夫なケースを、といろいろ見てみるがいつも厚さがネックになる。新幹線に乗る時、棚に載せたいから。 昨年の8月から上2本の弦を新しいメーカーのものに変えたが、このところD線が立て続けに何本も不良なのでヤーガーに戻してしまった。巻きが不均一らしく、何度替えてもどこかでびりびりいう。使い始めのときは良い弦が出た、と思ったのに。弾いた感じはヤーガーの方が硬い印象、音は通るかなぁ。引き続き思案中である。 No.128(2006年7月27日) マルタ島から帰ってきて、一ヶ月以上も思い出にふけっていたわけでは決してありません。 銀座のヤマハでジャンドロンの"The Art of Playing the Cello"という楽譜を見つけ、ぱらぱら見ていたら、N響の銅銀さんにばったり会い、4千円近くもするけど、買うか買うまいか、というような話をした。でも今どんなにお金を積んでもジャンドロンに会うことすらできないことに思いあたり、購入した。大変効き目のある内容で、僕もまだまだ上手くなれる。 7月7日、紀尾井シンフォニエッタ演奏会にマリオ・ブルネロが弾き振り。シューマンの協奏曲やモーツァルトのフリーメーソンのための音楽など、なかなか考えつかないようなプログラムだった。情熱的で伸びやかな演奏は変わらないが、それ以上に久しぶりに「善いもの」を聴いたと感じた。 楽屋に会いに行っても素朴な感じはまるで変わらず、うれしかった。 「シエナで受けた最初のレッスンはシューマンだったよ」と言ったら、「レッスンの通り弾いていたか?」だって! ちょうどワールドカップ決勝の頃で、紀尾井の後の演奏旅行では大変な喜びようだったらしい。 7月17日、ベルリンフィル12人のチェリストをサントリーホールで聴く。彼らの最近の録音は驚くべき水準だが、それは本当だった。僕たちのはるか上を軽々と行っている。 個人技は言うまでもなく、何より全体のハーモニーが素晴らしい。ステージの上を風が吹いている、というのか、空気が動いているのだ。楽器をたたいたりこすったり、口笛を吹いたり、指を鳴らしたり、ハンカチを投げたり(ピンクパンサーのときにピンク色のハンカチを二人が投げる)、そうした特殊奏法も素晴らしく、エンターテインメントとしても最高だった。きっと遠くから聴きにきている人もいることだろう。 7月17,18,19日の都響は大野さんを迎えて、火の鳥の1910年版と庄司さんのソロでショスタコーヴィチの協奏曲など。 庄司さんがリハーサルに現われたときは、子供が来た!と思った。弓の毛箱が大きく見えるくらい小さいのに、すごい演奏だ。特に3日目、所沢ミューズでは素晴らしい集中力で、恐るべき、という言葉がぴったりだ。ずいぶん以前、夏のシエナでウト・ウギのクラスに日本人の小さな女の子がお母さんと来ていたが、あれは庄司さんだったのだと思う。 大野さんの指揮は今回も素晴らしく、本当に楽しかった。また来てほしい。 No.127(2006年7月20日) 6月4日、毎日のように通りがかりながら入らなかった老舗のカフェ、コルディナでエスプレッソを飲んでみる。美味しいけどちょっと敷居が高い感じだなぁ。 マノエル劇場からカーマライト教会へ。ヴァレッタ旧市街でまだ足を伸ばしていなかった場所だ。シティゲートに行く途中、とてもおもしろいインテリアの店を見つけたけど閉まっている。今日は日曜、明日は9時過ぎにはヴァレッタを発つから、残念!昨日気付いていれば。 1番のバスでヴィットリオーザへ。 緑が多くて素敵な町だが人が少ない。猫屋敷をみつけておばちゃんに挨拶。迷いながら海の見えるところに出る。坂の途中にある教会で写真を撮っていたら、初々しい感じのカップルに写真を頼まれる。男の子からも女の子からもカメラを渡され、知り合ったばかりなのだろうか、など想像をたくましくする。 ヨットハーバーには呆れるくらい大きなクルーザーが並んでいる。船を見ているとすぐ、怪しげなおじさんが寄ってきて、ボートに乗らないか?ヴァレッタまで1LM、としつこい。海に出てから値段を吊り上げられてはかなわないのでバスで戻る。 ヴァレッタの共和国通りでは初々しいカップルにまた会う。いいなぁ。カフェのパラソルの下で聖ヨハネ大聖堂を見ながらのんびり昼食。 荷物をまとめ、明日の空港までのタクシーの手配をフロントに頼む。日本語で挨拶してくれて、大変愛想はいいが、部屋はほこりっぽい。深夜短波ラジオで日本からの国際放送を聞く。マルタ島に来てからは日本の情報は何もない毎日だったので、不可解な事件の報道にいきなり現実に引き戻された。 6月5日、さぁ日本へ帰ろう。空港ではヴァレッタ銀行Tシャツを着たおじさんチームとマルタTシャツを着たチームといて大騒ぎ。まっすぐな長い棒をケースに入れて何本も持っていたが、一体何の人たちだろう?見送りの家族と涙を流しながら別れを惜しんでいた。情が濃いなぁ。機内でもヴァレッタ銀行チームとマルタチームが大騒ぎ。まるで子供だ。 ミラノで成田便に乗り換え。2年前の演奏旅行もこの空港から帰ってきたのだった。ずいぶん日本人が多くて、現実に引き戻される。11時間で成田へ。スカイライナーで熟睡して、はっと気付いたら日暮里。びっくりした。 今度はいつヨーロッパに行けるだろうか。 No.126(2006年7月15日) マルタ島の移動手段で特筆すべきはバスだろう。島内はヴァレッタを起点として、バス網がはりめぐらされている。 ヴァレッタのシティゲートを出てすぐのところにロータリーがあり、バスがたくさんとまっている。時刻表はあるが、だいたいのところで運行されているようで、注意が必要。遅れるならいいが、早く発車することがあるようだ。 車両は運転手の持ち物らしく、大変ヴァラエティに富んでいる。ヨーロッパのどこかで最近まで走っていたような比較的新しいものから、ボンネットバスのような年代物まである。古い車は運転席のすぐ左隣にエンジンがあって、車内に頭を出している。一応分厚い布のカバーがかかっているが、上り坂になると大変やかましく、おまけにおそろしく遅い。排気ガスもすごかろう。 運転手に愛されているバスはぴかぴかに磨きあげられ、さまざまにカスタマイズされている。吊り輪が手作りだったり、降りるバス停を運転手に知らせなくてはならないが、日本のようにブザーがあるもの、天井に張り巡らされたひもをひっぱるとベルが鳴るもの、レールを押すとブザーがなるものなどいろいろ。 運転手に愛されていないバスは、ろくに掃除もされていなくて車内は砂でじゃりじゃり。ゴゾ島で乗ったバスはフロントウィンドウが外れていた。 乗車口に扉はないので、満員バスの最後に乗るのはおすすめできない。 道路は日本と同じ左側通行で、車は右ハンドル。日本のバスがマルタを走ったら、楽しかろうと思うのだが。消し忘れた日本語がどこかに残っていたりして。 バスの色はマルタ島が上から白赤黄、ゴゾ島は白赤グレーのそれぞれ3色。運賃は距離に応じていて、20セントから。日本円だと70~130円くらいだろうか。 細部がきっちり決められていない、その良い加減なところがとても好きだった。ごろごろしたエンジン音を聞きながら、乗り降りするマルタの人々や景色を見るのは楽しかった。 No.125(2006年7月13日) 6月3日、明日は日曜日なのでまず両替。それからヴァレッタの聖ヨハネ大聖堂に入る。内部は柱の装飾がすごくて・・・。教会の外では高校生のブラスバンドが演奏していた。つまらなさそうに演奏して、終わった途端にさっさと楽器を片付ける様子がおかしかった。 27番のバスで港町マルサシュロックへ。港は好きで、日本でもいろいろなところへ行ったけど、ここは特別だ。 波のほとんどない入り江に、色鮮やかで目の付いた丸っこい漁船があちこちに浮いている。猫はあまりいなくて、そのかわり雑巾のように汚れた犬がふらふらしている。玄関前で世間話をしているおばちゃんは上空を飛んでいくジェット旅客機に手を振っていた。 魚を食べようとレストランに入る。おすすめはスズキ、というので注文する。普通の量だ、と言っていたのに、30センチくらいの大きな塩焼きが出てきてびっくり。美味しかった。シーフードのスープも上品でよかった。愛想のとてもいい黒人のウェイターがいて、モンゴルのホーミーのように、口笛で倍音を鳴らしていた!どうやるのだろう?習っておけばよかった。 湾をしばらく歩く。犬の散歩をしているおじさんに挨拶。子供たちが水浴びしているビーチには、潮の影響か、小さな貝殻がたくさん集まっていてきれいだった。 また湾の中央に戻り、海をゆっくり見てからヴァレッタ行きのバスに乗る。帰りのバスの運転手は無愛想だったが、車はぴかぴか、運転も丁寧だった。 No.124(2006年7月10日) 6月2日、今日はゴゾ島まで出かける。マルタ滞在中一番の遠出だ。45番のバスでチェルケウァへ。そこからフェリーに乗る。大きな車も積めるフェリーは前後対称型で、前後ろどちらからも車は入れるし、どちら向きにも進める。 海の色は、これが群青というのだろうか、見たことのない濃く澄んだ色だ。フェリーの甲板は風が強くてちょっと寒いが、晴れ渡った空と海を見るとうれしくなる。 ゴゾ島で下船するとヴァレッタの馬車よりしつこく、「日本人!、日本人!」とタクシーの運ちゃんが寄ってくる。よほどいい思いをしたのだろうか。 25番バスでヴィクトリアへ。マルタ島もゴゾ島もバスの扉は無く、満員バスの最後に乗ったらそこはびゅんびゅん過ぎ去る地面の近所で、少々スリルがある。 ヴィクトリアでは城壁の中に入る。空と海と牧草地は素晴らしい景色だった。世界には見たことのない風景がいっぱいある。レースの店に入ったら、編みかけのレースを見せてくれた。これは気の遠くなりそうな手間だ・・・。だから今は機械編みが主流なのだという。店にはゴゾ島を取り上げた日本の雑誌が置いてあってびっくりする。 ヴィクトリアからさらに足を伸ばすのはやめて、ここでゆっくりする。昼食に入った教会前広場のカフェは地元の人も多くて、人間模様が楽しい。 隣のテーブルにベビーカーに乗った赤ん坊を連れた父親と、その友達がいた。大人が席を外したすきに、赤ん坊は机の上のライターをべろべろ舐めて、使い物にならなくしてしまった。若くて格好いい父ちゃんだが、ベビーカーを押していく姿はなんだかさえない。 カフェで食べたサラミは美味しかった。 教会に入ってから、教会の裏を歩いてみる。昨日のムディーナを思い起こさせるひっそりとしたたたずまいの路地だった。さっきのベビーカー父ちゃんが、今度は奥さんといるのを見かける。角にあるマリア像の掃除をしていたおばちゃんが、「英語わかる?パンを持っているから教会の母なの」と教えてくれた。 再びバスでフェリー乗り場に戻る。フェリーは夕方の割と早い時間で終わるらしい。乗り遅れたら大変だ。チェルケウァに着いてから一本バスを遅らせて、海を見ていた。本当にいいなぁ。 マルタ島に着いた日に入ったヴァレッタのカフェで夕食。店の子が覚えていて、前菜をサービスしてくれた。 No.123(2006年7月9日) ガイドブックによると、マルタ共和国は5つの島からなり、面積は淡路島のおよそ半分。マルタ島、ゴゾ島、コミノ島、あと2つは何だろうか?首都はヴァレッタ。 日本の情報はほとんどなく、小さな島はお伽の国のようだった。 公用語はマルタ語と英語。5月末に立命館のオーケストラと弾いた時、アメリカからの留学生が、マルタ語のことを「不思議な言葉」と言っていたけど、何を言っているのか本当に見当もつかなかった。 滞在した5日間の天候は基本的に晴れ。寒暖の差は大きく、朝晩は寒いくらいだった。海に囲まれているせいか、風はいつも強かった。 通貨はマルタリラ(=LM)、1LMは100セント。1LMは大体340円くらい。マルタの人たちはマルタリラとは言わずに「パウンド」と言っていたような気がする。1964年までイギリスの統治だったせいだろうか。 食事は、イタリアに少し似ているかもしれない。肉にしても魚にしてもつけあわせの野菜がいつもたくさんあって嬉しい。うさぎ料理は名物のようだ。デザートのケーキは大きくて、僕はちょっと手が出ない。 マルタの人々は背は高くないけど、がっちりしていて顔の彫りは深く、みんな美男美女に見えた。体の横幅と胸の厚みが同じくらいで、やせている人はほとんど見なかった。だから僕は変な東洋人、と思われただろう。帰国すると、日本人は最近しっかり食べているのか?と思うほど、あちらの人々は丸々としていた。 No.122(2006年7月1日) 6月1日。今朝は体が重くて、朝食後も部屋でぐずぐずしていたら突然の雷雨。 こちらの人たちは、かなり降っていても傘をささずに悠然と歩くので、それがおもしろくて、しばらく窓から見ていた。こうしてゆっくり過ごす午前中も素敵だ。 昼近くになって雨はあがり、ムディーナに向かう。81番のバスはヴァレッタから20分ほどでラバトに着き、歩いてムディーナに入る。 スペイン、コルドバのユダヤ人街のすいこまれるような路地も特別だったが、ここはもっと静かで時間が止まっている。空がよく見える広場は、雨上がりのせいもあってとても美しい。 昼食に入ったレストランはとてもよかった。ハンバーグをさらに薄い牛肉で包んだような、マルタ伝統の料理も、ボロネーゼのスパゲッティも美味しかった。マルタではいつも付け合せの野菜が多くてうれしい。 店内には首輪をつけた猫がよく入ってきて、給仕をしてくれる女の子は、しっ!、と追い払うが、本当はかわいがっているに違いない。 教会に入ると歌声が聞こえた。イギリスの高校の合唱団の演奏旅行らしく、ちょうど本番前のリハーサルのようだった。合唱の後、何故かフルートで「フォリア」が始まり、聴いていたらチェロが弾きたくなった。 再びバスでヴァレッタに戻る。旧市街はさびれた感じがぬぐえないが、シティゲートの外は活気にあふれていてほっとする。毎日の食べ過ぎでそろそろ胃袋がくたびれてきた。 No.121(2006年6月25日) 5月31日。5時に起きて、いそいでパッキングしてテルミニ駅に向かう。切符売り場が長蛇の列でぎょっとするが、親切な駅員のおかげで助かった。自動券売機を使えばいいのだ。 空港直通電車のホームは、広いテルミニの端の、さらにうんと奥にある。以前後輩がその距離を甘く見て帰国する飛行機に乗り遅れた。僕も楽器と荷物を持って、彼方にいる発車間際の電車をよろよろ追いかけ、間に合わず茫然としたことがある。今日は大丈夫だった。6時22分発の電車に乗る。 フィウミチーノ空港のグッバイローマというカフェで朝食。こういうところでもエスプレッソやクロワッサンが美味しくてうれしい。ローマを飛び立つとすぐ海が見え、しばらくするとシチリア島の上空を通過。マルタ島はもうすぐだ。 飛行機を降りると、ローマとも違う空気に、初めての土地に来たことを実感する。入国カードを書いて通関。何年か前は日本を出るときにも出入国カードを書いていたっけ。 空港からホテルまでタクシーに乗る。前もって6.5マルタリラを払う。シルヴィオというよくしゃべる運転手。 「マルタを観光するなら車、レンタカーかレンタスクーターだ。なに?免許がないって?バスは時間がかかる。マルタ島の観光地の85パーセントはタクシーで6時間あれば回れる。今ホテルまで10分走って6.5だろ。でも僕のタクシーなら説明付きで一時間あたり8、つまり全部で48マルタリラ。おまけに空港までの送りもつける。どうだ?」とまくしたてるが、彼のあまりに積極的な運転は10分でたくさんだった。 ホテルで昼寝してからヴァレッタ旧市街を歩く。この国も犬や馬の落し物に気をつけて歩かねばならぬ。 メインの共和国通り以外はずいぶんさびれている印象で驚く。猫は聞いていた通りそこここにいる。うまく言えないが、猫はどこでもやっぱり猫である。 ロウアーバラッカガーデンの向こうの広場でおじさんたちが大変真剣な表情でゲームをしていた。ちゃんと審判がいて、球と円筒を黙って投げている。ひとつのチームのTシャツには、ヨセフ農場のエッグサプライヤー(卵屋さんチームか)とあった。 夕食はホテルで。カスティーユホテルの5階はテラスもあるレストランで、上から見た暮れゆくマルタ島は、ほこりっぽい路地や動物の落し物など想像もできないくらい美しい。 No.120(2006年6月18日) 5月30日、今日は一日だけのローマ観光。ヴァティカンに向かう62番のバスではよほどカモに見えたのか、イタリア人の婦人に荷物をしっかりもつように注意される。まわりのどの人も自分のかばんにしっかり手を添えている。 奈良の東大寺も大きいが、サン・ピエトロ寺院は本当に大きい。丁寧に見るとどれだけ時間があっても足りない感じだ。クーポラ(寺院の円屋根)に登る。途中までエレベータで、最後はひたすら歩く。高所恐怖症気味の僕は足をぞわぞわさせながら狭い螺旋階段を上がった。 地上130メートルのクーポラの上からの眺めは本当に素晴らしい。7ユーロ払わねばならないが、その価値は十分に有り。 クーポラを降りるとものすごい数の観光客が押し寄せていてびっくりした。早い時間に来てよかった。 たくさんの物売りの間を抜けて、サンタンジェロ橋からジュリア通りへ。あちこち迷いながらナヴォーナ広場を通ってパンテオンを目指す。初めてパンテオンを見たとき、路地を曲がると突然巨大な建物が現われて驚いたのだったが、やはり今回も突然目に入って驚く。これを見にローマに来たんだなぁ。 パンテオンを見ながら昼食。美味しかった!一皿のパスタ、一杯のエスプレッソのためだけにイタリアに来てもいいと思う。 象のいるミネルヴァ広場、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会を見てから、40番と75番のバスを乗り継ぎコロッセオに向かう。コロッセオもすごい人出だった。まず入場券を買うのに行列しなくてはならない。 コロッセオからは地下鉄B線とA線を乗り継いでポポロ広場へ。落書きだらけの地下鉄は、車内でドラムセットやアコーディオンを従えて、女の人が歌っていたり、すごい剣幕でスリをつまみ出す人がいたり。 そびえ立つオベリスクを見にポポロ広場に行ったのに、肝心のオベリスクは修理中で見えず残念。マルグッタ通りからスペイン広場へ。このあたりはお洒落をして、ブランド品の買い物袋を持った人がいたり、フェラーリ(確かにイタリアの車だ)が走り回ったりして、真下を走っている地下鉄とは天と地ほど違う。 トレビの泉まで足を伸ばしたらいい加減くたびれて、クアットロ・フォンターネ通りから、その名の通り4つの噴水のある交差点を曲がって9月20日通りのホテルに戻る。 夜食べた手長エビとあさりのパスタがまた美味しかった。シーフードとドライトマトの味の合わせ方がとても新鮮。周りのイタリア人は本当によく食べる。 さぁ、明日はいよいよマルタ島だ! No.119(2006年6月13日) 5月29日、大きなカバンを引っ張っていつもの駅に向かう。行き先はローマだ。 楽器は昨日預けた。さらわなくてはならない、という強迫観念にはしばらくの間さよならする。飛行機に乗るとき隣の席はいつもチェロなのに、今回は両側を人に挟まれて、12時間はさすがに窮屈だった。 6年前に演奏旅行でローマに飛んだ時、着いた晩は美味しいものを、と話していたのに、パリからの乗り継ぎ便が大幅に遅れて夜の11時過ぎの到着、おまけに一人の荷物が届かずさんざんだった。 今回は大丈夫。空港からテルミニ駅への直通電車に乗り、テルミニからは夕暮れのローマを9月20日通りのホテルまで歩く。フロントで近所のレストランを教えてもらい、いそいそと出掛ける。10か20くらいしか単語を知らないけど、イタリア語を話すのは楽しい。眠くて眠くて、眠りそうになりながら食べたペンネ・アラビアータ、美味しかったなぁ。 No.118(2006年6月8日) 5月29日からローマ、マルタ共和国をまわり、6月6日に帰国しました。楽器なし音楽も関係なしの海外旅行は初めてで、楽器も人間も休み。 酷使してきた楽器は職人さんに預けてずいぶん凹んだ指板を削ってもらい、こびりついた松脂やらなにやらもすっかり落としてもらってぴかぴかになりました。 久しぶりにチェロを弾くと頭はくらくらし、指はゆですぎたマカロニのようにふにょふにょです。 出国する前、こんなのではなく何か別の弾き方を、と感じました。漠然としているのですが、心も体も白紙に戻った今、それを探しています。 No.117(2006年5月31日) 去年の秋に名古屋大学の同窓会誌に僕の文章が載りました。それを3回に分けて掲載します。時間や僕の年齢は一年ずれていることをご了承ください。 <その1> 大学1年の夏に草津の音楽祭に参加し、C.ヘンケル氏のレッスンを受けたことが決定的な転機でした。チェロを始めたのは4歳で、専門的な教育は受けていませんでしたがかなり一生懸命でしたし、高校(菊里の普通科)では音楽科の人たちと交流があったにもかかわらず音楽大学に進むことは発想にありませんでした。 けれどヘンケル先生のレッスンで音楽はこんなに素晴らしいものかと思い、どうしてもチェロだと感じたのです。その年のうちに東京までレッスンに通うようになり、大学2年が終わった時点で桐朋学園のディプロマコースを受験し、入学します。 とりあえず名大は休学し、音楽に専念しました。当時下宿で音を出すことができなかったので、朝から晩まで桐朋にいてさらって(練習して)いました。小さな学校で、校舎は名大の中央図書館くらいしかありません。でも本当に刺激的でした。在学中に数々の忘れられない出会いがありました。故S.ゴールドベルク、故A.シュナイダー、L.フライシャー、A.ビルスマ、カーティス音楽院の学生、パリ音楽院の学生・・・。 少し様子が見えてくると、ひょっとして名古屋も卒業できるかもしれない、と思い半年で復学しました。 随分運がよかったと思います。例えば金曜日の11時50分まで桐朋でソルフェージュの授業を受け、仙川12時発の京王線に飛び乗ると、東京駅1時発の新幹線に間に合い、ゼミにどうにかこうにか出席できました。藤瀬先生のご理解がなければとても無理だったと思います。 まるで子供の作文のような恥ずかしい卒論を書いて1年遅れて卒業証書を頂きました。テーマは1929年の恐慌に関することでした。 経済学部にいたことはきっと音楽にもプラスでしょう、というようなことを聞かれることがありますが、僕自身はほとんど何も関係が無いと思っています。ただ、一つの現象に対して様々な考え方がある、ということを知ったのは本当に大きなことでした。(続く) <その2> 名大にさらに1年遅れて桐朋も修了し、その年の日本音楽コンクールで賞を頂きます。音楽で点数をつけたり、優劣を決めたりするのは好きではありませんが、賞をもらって経済的に自立できるようになりました。それからしばらくフリーで仕事をします。随分自由な時間だったと思います。20代後半で大きなことといえば毎夏イタリアに勉強に行っていたことでしょう。 トスカーナ地方にシエナという古い町があり、そこで伝統のある音楽講習会があり、僕はM.ブルネロという素晴らしいチェリストに出会います。忘れもしない最初のレッスンはシューマンのコンチェルトで、情熱と知性の合致に目から鱗が落ちる思いでした。再現部に辿り着いた時「(ソロのパートは提示部と一緒だけど)オーケストレーションが分厚いからいっぱい弾かなくてはならない」と言って凄まじく熱い音で弾き始めたのです。部屋がびりびり振動するくらいの音量で、あまりのことに膝が震えました。 彼は、午前中のレッスンが終わってからも各国からきた生徒とよく遊んでいました。溜まり場になっていたアパートに来て、パスタのゆで具合にこだわって一緒にご飯を食べたり。最終日生徒の演奏会が終わると、さんざん打ち上げで騒いでから、真夜中のカンポ広場いっぱいに水かけっこ(water battleと呼んでいた)が始まり、全員がずぶぬれになる頃夜が明けて、町のバールが開くのを待って皆でカプチーノを飲んで、また来年!と解散しました。 いつもチェロに専念していた訳ではなく、釣りや写真に熱中したこともあります。野良猫の写真は世界観が変わるくらいおもしろくて、チェロはどうでもよかった時期もあります。それに職業上いろいろな音楽家に会えるので被写体にはまったく困らなかったのです。 今はチェロに戻っています。ただし今もその頃の名残で猫を見るとカメラを出します。(続く) <その3> 30歳を過ぎてからオーケストラに入りました。 西洋音楽のレパートリーを大きな樹に例えると、残念ながらチェロのソロの曲は、限られた作品を除いて、どうしても枝や葉になってしまいます。このあたりがピアノやヴァイオリンと大きく異なるところです。 交響曲は作曲家が大変なエネルギーを注ぎますから、幹になっている作品が多いと思います。バッハの管弦楽作品、ベートーヴェンの9曲の交響曲、モーツァルトの交響曲・ピアノ協奏曲、ブラームス、バルトーク・・・。 時として100人近い編成になるオーケストラの中で一人のチェロ弾きは小さな歯車かねじですが、その醍醐味はソロではどうしても体験できません。 今年の2月、F.ブリュッヘン氏が来日して新日フィルと二つの仕事をしました。一つはラモー、モーツァルト、シューマンのプログラム、もう一つはシューベルトの2曲の交響曲でした。それぞれ3日間のリハーサルでしたが、大げさなことは何もしていないのに3日目のリハーサルで景色がまったく変わるのです。魔法でした。彼が何かをいじった訳ではなく、僕らの中で滞っていた音楽の通り道を整えただけ、という印象でした。あの2週間は特別な、体験するしかない時間でした。今でも大きな励みです。 音楽家は楽な仕事ではありません。技術は毎日弾いていないとあっという間に衰えるし、チェロは持ち運びも大変だし(飛行機ではもう一席必要です。どうにかして欲しい、食事は一人前しか出てこないのに)、時として舞台では強いストレスがかかります。 でも34歳の僕を振り返ると、高校と大学受験前の数ヶ月間を除いて、ものごころつく頃からいつもチェロと一緒でした。どの時期を思い返してみても思い出がチェロにも結びついているのは幸せかもしれません。 これまで音楽的に何か問題があると、いつも技術的に解決しようとしていました。でも今は楽器が声になるように、感じたことを技術に翻訳しないでそのまま音にできるようになりたいと思っています。 No.116(2006年5月28日) 大竹昭子著「須賀敦子のローマ」(河出書房新社)は写真が豊富に入っていて楽しい。 十年近く前、シエナの講習の帰りに半日だけローマ見物をしたことがあります。その時のことを思い出しました。 シエナのアパートでルームメイトだった、ジャンニ(ナポリからシエナ・ジャズのコースを受けに来ていた)が見所を教えてくれて、それを頼りにローマを歩きました。 8月のローマの暑さで熱射病になりかけながら。コロッセオ、バチカン、ナヴォナ広場、パンテオン、スペイン広場、とずいぶんいそがしく回りました。路地をおねおね歩いて、パンテオンが突然目の前に現れたときの印象は強烈でした。街中にいきなりローマ時代の巨大な建築が現れるなんて。 あの頃、街を歩くことにたいして興味もなかったし、写真も撮らなかったから、もし今ローマに行けたらどんなに喜びが大きいだろうと思います。 大竹さんの本を読んで、久しぶりに須賀敦子著「トリエステの坂道」(新潮文庫)を読んだら、やはり素晴らしかった。本屋で何気なく手にしたこの本がきっかけで、僕は多くの須賀さんの著作を読むようになりました。詩人ウンベルト・サバのこと、作家ナタリア・ギンスブルクのこと、夫の家族のこと、そして夫ペッピーノのこと、それらひとつひとつが胸に迫るようです。 「ふるえる手」という文章から: 「しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だって思った。  こうして、『ある家族の会話』は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。イタリア語で書くか、日本語で書くかは、たぶん、そのときになればわかるはずだった。」 立命館大学のオーケストラとのドヴォルザーク、無事終わりました。 うしろから来るひたむきな音に支えられて、本当に楽しかった。丁寧に振ってくださった指揮の上野さん、この話をもってきてくれた健太郎、オーケストラのみなさん、本当にありがとうございました。 今の大学生はどんなだろう、と思っていたら、とてもすがすがしくてびっくりしました。演奏会後の打ち上げ、一次会の締めは大声で校歌を歌って、そういうのも楽しかった。僕は2時過ぎに失礼しましたが、みなさんきっと朝まで騒いでいたのでしょう。いいなぁ。 No.115(2006年5月23日) 十数年住んだ仙川の街には今も月一回行きます。学生時代から同じところで髪を切ってもらっているからです。散髪だけでなく、よく通った店にも顔を出します。忙しくなると外食ばかりになり、洋食、うどん、とんかつの3つの店をいかにローテーションさせるか、が日々の大問題でした。 「いらっしゃいませ!」と一度聞いたら忘れられなくなる声で迎えてくれるうどん屋のおばちゃんに会おうと寄ったら、同じ店なのに入る前から感じが違う。知らない人がお店にいて、聞いたらなんと4月から経営が変わった、とのこと。時々おまけしてもらったり、演奏会で花をもらうとさしあげたりしていたおばちゃんの声を聞きたかったのですが、こうして街は変わっていくのかもしれません。 先日湘南の海岸を歩いていたとき。「豆がうまい!」と思いながら豆大福を食べていたら、左手に持った食べさしをいきなり強い力で奪われました。 とんび! 以前江ノ島でソフトクリームを持った人がとんびにやられるのを見てから、食べ物をもった人がいると、あぶないなと思っていたのですが。参りました。その日はとんびを見かけるたびに悪態をついていました。 今日立命館大学のオーケストラとのリハーサルがありました。一月でぐんと音が変わっていたのに驚きました。27日の本番が楽しみです。 No.114(2006年5月15日) 5月4日付けの近況報告で触れたルネ・フレミングの著書には歌うためのさまざまなテクニックが出てきます。 オペラの歌手の驚異的な声量はいかに体の各部を響かせられるか、ということにひとつの秘密があるようです。また、胸郭を広げて、肺活量をふやすということもあります。我々弦楽器奏者ももっとうまく体を利用できないかと思います。 僕の体の発育はとっくに止まっていますが、胸郭がもう少し大きくなったら、もっと音色が豊かにならないか、と考えています。今からでも少しずつ体は変えられると思う。 最近の近況報告は読書日記のようになっています。ずいぶん以前に単行本で読んだ野口昭子著「回想の野口晴哉 朴歯の下駄」がちくま文庫から出ていたので、思わず手にとりました。 初めて読む方は、?、と思うかもしれませんが、本当におもしろかった。うまく説明できまないのですが、あるがままに生きればよいのだと感じました。 バッハの無伴奏やコダーイの無伴奏、大きな協奏曲などは暗譜で弾きます。 暗譜というのは不思議な能力で、大変な量を覚えている訳ですが、それは一夜漬けのように覚えているのではなく、無意識に入っているような気がします。 意識より下のところ、潜在意識と音楽はすごく関係があるのではないだろうか。それはコントロールしようとしてもできないものかもしれないけど、もっと生かす方法があるのではと考えています。 「今週の一枚」はずっと毎週月曜日に更新してきましたが、もう少し間隔を短くします。5日間隔くらいで更新できたらと思っています。厳密には「今週の・・・」ではなくなりますが。 No.113(2006年5月10日) 5月7日から4夜連続で放映されたNHKスペシャル「プラネットアース」は圧倒的な映像でした。カメラマンの執念の賜物というべきシーンが次から次へと出てきます。BBCとの5年をかけた共同制作だそうです。次回10月の放映がとても楽しみです。 今月下旬からアンリ・カルティエ=ブレッソンのドキュメンタリー映画が公開されるのに先立ち、ブレッソンの妻であり、自身も写真家であるマルティーヌ・フランクの文章が5月9日の日経新聞に掲載されました。 「アンリは『写真家はスリのようなもの』とか、『写真は短刀の一突き』などとたとえていた。けれども攻撃的に被写体に向かう人ではない。・・・」 「・・・彼の写真につきものの『決定的瞬間』は歴史的瞬間という意味ではない。アンリ自身は『決定的瞬間を持たないものなど、この世に存在しない』と考えていた。  ・・・友人、彫刻家ジャコメッティをとらえた代表作も、待ち合わせ場所のカフェに向かってくる姿があまりに奇妙で、カメラをとっさに構えた。サン=ラザール駅裏では、柵のすき間にカメラを突っ込み、男が水たまりを飛び越える一瞬をとらえた。そんな魔術的な瞬間が写っているのに本人が気付いたのは、後になってからだと思う。」 5月8日更新分から「今週の一枚」はスキャナでフィルムを取り込んだ画像です。カラーでも驚くほど簡単に色やコントラストを調整できるので、あれこれいじったデータを写真屋でプリントしてもらったら、びっくりするくらい赤い写真になりました。モニターの調整など、これはこれで大変なようです。自分で暗室作業をしなくなって、眠る時間もさらう時間も取り戻しましたが、スキャニングや画像編集はやはり気をつけないと時間の感覚をなくしそうです。 No.112(2006年5月4日) 5月4日から6日まで、都響は「ラ・フォル・ジュルネ」に参加しています。 フランスの音楽祭を東京に持ってきたもので、有楽町の国際フォーラムを連休中フルに使っています。毎日朝から夜まで4ないし5つのプログラムが平行して進み、一つの演奏会は1時間程度で低価格、子供可。チケットは15万枚売れたそうです。1500人入る演奏会100回分の券売は、クラシック音楽のイヴェントとしては異例だと思います。 5,6日はスペインのビルバオ合唱団と一緒です。体も分厚いが音も分厚くて楽しい。 綿密にオーガナイズされた演奏会にはなりにくいと思いますが、5月のすがすがしい気候のもと、たくさんの人々が集まり、音楽のあるゆったりとした時間にいるのはなかなか素敵なことではないかと思います。 ルネ・フレミング著「魂の声」(春秋社)は、もし10年前にこんな本に出会っていたら、と思う新刊です。功成り名を遂げた現役ソプラノ歌手の自伝です。 世間に認められるまでの過程、歌う上での技術的精神的な問題をどのように乗り越えてきたか、プライベートと仕事の関係など。あれ?、と思うこともありますが、すごくおもしろかった。これから音楽の世界に出る人は是非読んでは、と思います。 歌について、具体的なテクニックの話もたくさん出てきます。ソプラノの音域をいかに歌うか、という話にヒントを得て、チェロの毎日当たり前に使う4オクターヴの音域を、それぞれの音域の特徴をもっと捉えて弾いたら、と考え始めています。 No.111(2006年4月30日) 4月27日日経新聞夕刊に掲載された長塚京三さんの文章がとても印象的だったので、引用させて頂きます。 「役者には、どう引っくり返ってもできないことが二つある。本当はもっとあるが、それを言っていては始まらないので二つに留める。 演じている自分の姿を見えないこと。自分のセリフを聴けないこと。この二つである。  だから役者は、相手のセリフに耳を澄ます、眼を皿にして相手の一挙手一投足を観察する。さらに演出家の眼と耳を借りる。・・・・・ 往々にしていい役者は、よく聞く者、よく見る者である。一般社会と、さして変わるところはない。」 「稽古場には、百万言のエクスキューズをもってしても贖いきれない「成否」が託されている。プロの威信が懸かっている。稽古は、納期を横目で睨みながら、黙々と根を詰める職人仕事に似ている。」 僕にはこれらの言葉がとても重く感じられる。 ドヴォルザークを弾く演奏会が近づいてきたので、いろいろなCDを聴き返し始めました。ダニール・シャフランの録音から。なんてすごいんだろう。同じ人間と同じチェロとは思えない・・・。比べるのが間違いだけれど、自分の下手さにがっかりして、でも発奮する。 年末にバッハの無伴奏を3曲弾く演奏会があり、そのプログラムを毎日思案中です。 当初案は1,4,5番。2,4,6番という組み合わせが僕にとって一番困難だと思うのでこれはしない。今までずっと避けてきた6番を入れるか、比較的よく弾いてきた5番が実はとても困難なのか、あれこれ悩んでいます。夏までには決めなくてはなりません。 No.110(2006年4月22日) 僕が写真に夢中になってからの短い期間だけでもカメラや感材は驚くほど進化しました。けれど、サントリーミュージアムで展示されたブレッソンの古い年代に撮影された多くの写真を見て、道具の進歩とは何だろうかと思わずにいられませんでした。 音楽が聴くことであるように、きっと写真は見ることなのでしょう。 ブレッソンの言葉:「・・・写真をとるにさいしては、つねに対象と自己にたいして最大の尊敬をはらわなければならない。それは生き方そのものなのである。」 J.M.シング著「アラン島」(みすず書房)を読みました。 「僕はアランモアにいる。暖炉にくべた泥炭の火にあたりながら、僕の部屋の階下にあるちっぽけなパブからたちのぼってくるゲール語のざわめきに、耳を澄ませているところだ。・・・」 という書き出しで始まる本書は、過酷な日常と、夢か現かわからないような話がちりばめられ大変幻想的です。 時間を見つけて本屋に行くことが好きです。書棚にある無数の本を見ると、僕が気づいていない、でも本当に僕が必要な本にどれだけ出会えるのか、といつも思います。 画像をコンピュータに取り込むためにスキャナを導入しました。まだよく使い方がわかりませんが、とにかく大変便利な道具です。「今週の一枚」はフィルムで撮影したものをプリントして郵送して、それをスキャンしていただいています。あと2週ほどたったらフィルムから直接取り込んだ画像になる予定です。 画像編集ソフトで、明るさ、コントラスト、色み、などプリントでは難しかった調整も容易です。でも渋谷のラボでプリントされた白黒写真ははっとするくらい美しいです。 No.109(2006年4月15日) 4月8日の都響はミッシャ・マイスキーの伴奏。ドヴォルザーク「森の静けさ」と協奏曲、ショスタコーヴィチの協奏曲、アンコールにバッハの無伴奏を2曲。リハーサルは前日なので2日間で大きな協奏曲2曲だけでもほぼ3回ずつ弾いていることになり、これはただ事ではない。 マイスキーの使うモンタニャーナのチェロは小さく改造されていて、でも楽器全体のプロポーションが崩れていないことに気づきました。スクロール(楽器最上部の渦巻き)のつくりも本当に美しい。アンコールのバッハを聴いて、やはり素晴らしい楽器と思いました。甘い音色の高音域だけでなく、低音も魅力的でした。もしカットダウンされていなかったら、演奏の困難は別として、きっとものすごい低音だったでしょう。音のつながりなどとても勉強になりましたが、帰宅してフルニエを聴くとほっとしました。 4月12日は都響定期でモーツァルトの29番とブルックナーの2番。 翌13日は頑張って早起きして大阪のサントリーミュージアムへ。東京の桜はほとんど終わっていますが、新幹線沿線ではさまざまな桜と菜の花が見えて大変美しかった。 初めて見るアンリ・カルティエ=ブレッソンのプリントは、本当に素晴らしかった。厳密でないライカのファインダーで、あれほど精密な構図ができるのには驚きました。50ミリレンズはこんなに使うことができるんだなぁ。400点を超える写真を見ると、まるで彼が人間でないように思えてきますが、4月7日付けの近況報告で触れたミラー著「マグナム」にはブレッソンのエピソードがいっぱいあって、やはり人間なのだと思う。 大阪から京都へ移動して立命館大学のオーケストラとリハーサル。マイスキーの演奏会は本当に勉強になった。最終の新幹線で帰京、車中では翌日の間に合っていない譜読みをする。 14日は10時半から都響のリハーサルでベルクの3つの小品とブルックナーの9番。 2公演続けてのブルックナーでお腹いっぱい。終了後新百合ヶ丘に移動してソロと室内楽。 自分で決めながらどうしてこんなにきついプログラムと思いながら、アルペジョーネやニャタリのギターとチェロのソナタなど。温かい聴衆の皆さんのおかげでとても楽しい演奏会でした。 あわただしい日程が無事終わってほっとしています。17日の定期演奏会が終わったらどこの海に行こうか思案中です。 No.108(2006年4月7日) 4月5日に横浜のみなとみらいホールで京都フランス音楽アカデミーの教授陣による演奏会がありました。 ピリオド楽器による弦楽四重奏でバッハ「フーガの技法」、低いピッチとテンションのかからないセッティングを施された楽器から出る音は、輪郭こそ立たないものの豊かな音量で驚きました。さまざまに改良された現在の楽器は多くのものを失っていることを改めて実感しました。 後半はメシアン「世の終わりのための四重奏曲」。メシアンは僕には入りにくい音楽ですが、素晴らしい演奏で何か見えた気がしました。ソルフェージュするだけでも大変な曲ですが、たまたま記譜するとあのような難しい楽譜になるのであって、メシアンは本当は楽譜にしたくなかったのでは、と勝手に思いました。 イヴァルディ先生の揺るがないピアノはもちろん、ミュレール先生の素晴らしいボウイング、クラリネットのギュイオ氏の信じられないようなクレッシェンド、ヴァイオリンのプーレ氏の素晴らしい終曲など、日常から離れた時間でした。 名前と噂話しか知らなかった女流チェリスト、ザラ・ネルソバの1950年代のデッカによる録音を入手しました。CD5枚組です。まだドヴォルザークの協奏曲しか聴いていませんが、噂に違わず鋼のような音で仰天しました。すごい。 ミラー著「マグナム~報道写真半世紀の証言」(白水社)を読みました。個性の強い才能あふれるカメラマンの波乱万丈にひきつけられて、分厚い本は読み進むのがもったいないくらいでした。中からレナード・フリードの言葉を引用します: 「・・・写真家でいるには、こどもでいなくてはいけない、いつでもいろいろな事を不思議に思い、知りたがり、何にでもびっくりできないとね。そういう気持ちが大事だ。写真を撮るのにかかる時間はほんのわずかだけど、それが何を意味するかを、残る生涯かけて考えてゆかなければならないんだから。」 マグナム創立メンバーの一人、ブレッソンの写真展が大阪のサントリーミュージアムで開催されているそうです。ちょっと遠いですが何とか行けないか、と考えています。 No.107(2006年3月30日) 3月25日の都響演奏会はチャイコフスキープログラムでスラブ行進曲、弦楽セレナーデ、悲愴の3曲。 弦楽セレナーデが終わった時点でくたくたでしたが、やはり悲愴も目いっぱい弾いてしまい(悲愴の中に、無礼講で弾きまくっていい、と僕が勝手に決めているところがあります)、きついプログラムでした。 いろいろな団体で何度も演奏しましたが、その度にチャイコフスキーはどんな状 態で悲愴を書いたのだろうか、と思います。特別な曲だと思っています。 終演後新幹線で京都へ。夜は立命館の学生と宴会。 翌26日は11時からフランス音楽アカデミーで今年もC.イヴァルディ先生のレッスンを受ける。 ピアノの原さんとブラームスの1番のソナタとシューベルトのアルペジョーネの1楽章。先生のピアノは透徹した音と巨大な岩のような確とした音楽で、やはり素晴らしかった。テンポの考え方、音楽が進むだけではなく漂ったりすることなど、いろいろなヒントを頂いた。こうして音楽のために音楽のことを考える時間のなんと幸せなことか。レッスン場所の都合でチェロのミュレール先生にお会いできなかったのはとても残念。 イヴァルディ先生や通訳の立石さん、原さんたちと昼食をとってから立命館へ。3時からドヴォルザークの2,3楽章のリハーサル。今日も本当にチェロをよく弾いて、もう手は限界。 帰京の途中、名古屋に寄って母の用事。何台かヴァイオリンを見て、チェロも一台弾いた。知らない楽器を弾くのは知らない世界を覗くようで楽しい。 ばたばたと新幹線に乗って11時に帰宅。飛び回るスケジュールは嫌いではありませんが、さすがにぐったり。 4月14日に新百合ヶ丘駅近くの小さなホールでソロと室内楽の演奏会があります。 ピアノ+チェロ、ヴァイオリン+チェロ、ギター+チェロ、ピアノ+クラリネット+チェロ、という組み合わせのプログラムをたった一晩で弾きます。どんなことになるかとても楽しみです。 No.106(2006年3月23日) 中橋健太郎君とは学生時代にピアノとチェロのデュオを組んでいましたが、卒業してからはすっかり疎遠になっていました。ピアノ科だった健太郎は指揮者になる、という夢を持ち続け、小澤さんのオペラの仕事などで時々会うようになりました。 5月末に立命館大学のオーケストラでドヴォルザークの協奏曲を弾かないか、と彼から電話があり、喜んで引き受けました。 昨日京都で初めてのリハーサルがありました。お互いいろいろなことをくぐり抜け、十何年振りに一緒に演奏できるのは本当に素晴らしい時間でした。本番は彼の指揮ではありませんが、でもあと2回の練習があります。立命館の学生は皆とても若く見え、ということは僕が年をとったということなのでしょう。とても素直な学生たちで嬉しかったです。 健太郎と同じ新幹線で帰京しましたが、ビールの豪快な飲みっぷりは痛快でした。かつての食べっぷりを彷彿とさせるようでした。 なんとなく感じていたことをはっきりと言葉にしてもらうと新鮮な驚きがあります。 エドワード・ホール著「かくれた次元」(みすず書房)は、そうかそうだったのか!、ということがいっぱい書いてあって、大変興味深かったです。個体間の距離や密度が動物や人間にどのような影響をもたらすのか、また文化が異なると人間のコミュニケーションのとり方にどんなに違いがあるか、など日頃もやもやしていたことに考えの糸口を与えてもらったようです。 No.105(2006年3月17日) 昨日からマーラーの4番のリハーサルが始まりました。残念なことに僕のマーラーの経験は本当に少なくて、これまで1,2,6番の3曲しか経験していません。去年演奏した6番に比べると4番は随分楽しい曲に感じられます。 指揮の広上さんと、97年の夏、イタリア、シエナのカンポ広場でばったり会った時の話をしました。あの時から、音楽家として環境面、意識の面で大きな変化があったことをおっしゃっていました。ついこの間のことのように記憶していますが、もう10年近くたちます。僕もずいぶん変わったと思います。 広上さんのリハーサルは、とても楽しいです。 カメラにはさんざんお金を使ってきましたが、ズームレンズは買ったことがなく、毎日持ち歩くカメラにどのレンズをつけるかが実は重大事です。大袈裟だと笑われそうですが、どの広さのレンズで撮るかは、世界をどのように見るか、ということだと思っています。 レンズをあれこれ付け替えることはなく、出かける時に何ミリ、と決めて出かけます。全てが28ミリ(かなりのワイドレンズ)の画角に入る時があります。ゆったりと世界を見たくて35ミリだったり、切り取るために50ミリだったり。 去年はどうしても28ミリという時期が続きました。今は35ミリか50ミリか毎日頭を悩ませています。演奏旅行があるとあれこれ旅先のことを想像し、何ヶ月も前から道具を考え ついには前日の荷造りの時にいろいろ出してきて、やっと1本か2本のレンズを決めます。 デジタル全盛の世の中、レンズにはズームどころか手ぶれ補正までついているのに、まぁ、悠長な話ではあります。 久しぶりにブレッソンの写真集をめくってみて、画面の構成や透明な距離感に圧倒されました。いったい何をどうしたらこうなるのか、皆目見当がつきませんが、とにかくすごいなぁ。 No.104(2006年3月10日) もともとはハンガリーのチェリスト、ペレーニの弾くコダーイの無伴奏の新しい録音が欲しくてCDを買いに行ったのですが、"Kodaly・Musique de chambre"(コダーイ・室内楽)というCDの中にフルニエの弾く無伴奏を発見し、さらにナヴァラとスークの弾く二重奏も入っていて、そちらも買いました。 気付かなかったことに、カップリングで「チェロとピアノのためのアダージョ」が収録されていて、その演奏はロシアのガヴリッシュというチェリストでした。以前の近況報告にも書きましたが、ガヴリッシュの弾くラフマニノフのソナタが大好きで、この曲は彼の演奏と切り離して考えることができません。コダーイのアダージョも紛れもない彼の演奏で、冒頭の深い低音の音色に心がふるえるようです。 鶴見俊輔著「回想の人びと」(ちくま文庫)を読みました。登場する人々のことや、鶴見さんの文章に、自分は本当にうすっぺらいと感じました。 なかなか行けなかった城ヶ島に久しぶりに行ってきました。 いつも半径3メートルくらいで生活しているので、時々どうしても水平線を見、波の音を聴きたくなります。漁港では、会いたかった猫に再会もできました。漁師さんが餌をあげている洋猫です。写真もいつになく沢山撮り、写真の出来はともかく、すっかり元気になりました。 No.103(2006年3月5日) 先月の京都でヴァイオリンの安永さんとご一緒させて頂いた時、いくつか忘れられない言葉がありました。 モーツァルトの交響曲や協奏曲ではファーストヴァイオリンが旋律を受け持ち、内声のセカンドヴァイオリンやヴィオラが八分音符でハーモニーとリズムを持つことがよくあります。そんな時、アンサンブルの縦の線だけを考えると、旋律は伴奏の八分音符に合わせるべきと考えがちです。そうではなく、旋律は自由に歌い八分音符もメトロノームのようにかたくなでなく自由に、「束縛しない八分音符」ということをよくおっしゃっていました。 アンサンブルはいつもぴったり合っている必要はなく、1小節とか2小節の単位で辻褄があえばよい、という考えも新鮮でした。 以前沖縄のミュージックキャンプでギトリスと間近に接した時、随分滅茶苦茶にテンポを揺らす人だ、と思いました。が離れて聴いていると、どうやら8小節くらいのフレーズではかなり正確な時間らしいと気付きました。つまりすごく自由に弾いているのに、伸びた分はどこかで縮めたりして、全体の長さは変わらない、ということです。ギトリスのことを思い出しました。 また、どのように演奏するか、という時に我々はよく言葉で表現します。強くとか弱くとか、長くとか短くとか、あるいはもっと抽象的な言葉で。でも、安永さんは時々それを言葉にしたくないようでした。言葉にできないから音楽をする、ということを演奏会の後でおっしゃっていました。 苓北町で撮った写真の現像があがってきました。うーん。写真はごく個人的な楽しみなので、まったくの独りよがりですが、以前の方が思ったように撮れていたような気がします。もしかして今はそれだけ音楽に集中できているのかもしれません。 暗室作業ができなくなって、撮影する本数はぐっと減りました。でも限られたフィルムを大切に撮っていくのは、もっと胸が躍る時間です。 No.102(2006年3月1日) 苓北町へは熊本で乗り継いで天草空港まで飛び、さらに車で20分ほど。最近飛行機の揺れが得意ではなくなっているので、熊本空港で天草エアラインの小さな飛行機を見たときはひるみましたが、ダイレクトな乗り心地は悪くなく、また低い飛行高度からの景色も楽しかったです。 先週はオーケストラの仕事で山形県の酒田市に行きました。北国の張った空気と、天草の暖かな陽射しのコントラストは新鮮でした。 到着して少し練習して、苓北町泊。翌25日の午前中はなんと自由な時間、もちろんカメラを持って散歩しました。海沿いをずっと歩いて幸せだったのですが、午後演奏会場に着いた時にはひどいくしゃみで、どうやら今年の花粉症が始まったようです。雨が降ってくれたおかげか本番はなんとか持ちこたえました。 今回のプログラムのメインはベートーヴェンの作品70-2のピアノ三重奏曲。同じ作品70のもうひとつのトリオ「幽霊」や有名な「大公」トリオにはさまれて、あまり演奏されませんが、本当に素晴らしい曲です。ベートーヴェン中期特有の、ひとつひとつの音に力がみなぎった曲です。 実はこの曲には大変苦い思い出があり、以来自分なりに努力をしてきました。ヴァイオリンの寺岡さん、ピアノの原さんのお陰もあって精一杯の演奏ができたことと思います。 苓北町の皆様には本当にあたたかく迎えて頂きました。ありがとうございました。 26日に帰京して久しぶりの休みです。3日間もチェロを弾かないのはいつ以来だろう。これからも長く弾き続けるにはこういう時間が本当に大切だと思います。 仕事が始まるまで少し時間があるので、今日から気になっていたことを見直しています。 最近都心の大型書店に行くのが楽しみになりました。目当ての本をそびえたつ本棚の中から探す喜び、思いもしない本を見つける喜び。長いこと雑誌と漫画ばかり読んでいましたが。 苓北町への2泊3日の旅の間、本当に楽しく読んだのは高野潤著「アマゾン源流生活」(平凡社)。どうしても蛇や虫の話が多くなるので、全ての人にはお勧めできないのがとても残念です。 少し前に一生懸命読んでいたのはクロスビー著「史上最悪のインフルエンザ」(みすず書房)。「スペイン風邪」を扱った本で、第一次世界大戦中恐ろしい数の死者を出したインフルエンザが戦争の行方だけでなく、戦後の講和会議にも大きな影響をもたらしたこと、フレミングによるペニシリンの発見にもつながったことが書いてあってとても興味深いです。読後、鳥インフルエンザに関する ニュースを聞くとぞっとします。 No.101(2006年2月20日) 1月の新日フィル最後の仕事の時、ヴァイオリンの篠原さんにCDを頂きました。ボロディンカルテット(オリジナルメンバー)によるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲集です。 旧ソ連邦で音楽家はどんなであったのかいつも思いをめぐらすのですが、この演奏も尋常ならざる緊張感がみなぎっていて、すごいです。すごいなぁ。 年末にテールガットを換えて、楽器の響きが劇的に良くなったのですが、その状態に慣れてしまったのかあるいは少しガットが伸びたのか、当初の感激がなくなってしまったので、重野さんに調整をお願いしました。伸びた分だけ、テールピースの位置を2ミリ弱エンドピン寄りによせました。音色ははっきりしたように思いますが、4本の弦のバランスが難しくなったような。 楽器の調子は毎日違います。楽器の鳴る鳴らないは自分のせいではないかと、ときどきぞっとします。 経済ニュースを見ていたらフィルムカメラの特集をしていて、そのあまりに急激なデジタルへのシフトのためにニコンや富士フィルムが大変厳しい状況にあることがよくわかりました。 今週は室内楽で熊本県の苓北町というところにお邪魔します。ゆったりとした日程で、おまけに海の近くだそうなのでどんな光景に出会えるのか、大変楽しみです。     No.100(2006年2月15日) ベルリン・フィルのコンサートマスター、安永徹さんが素晴らしい、ということは何度も耳にしていましたが、とうとう2月7日から一週間、京都で一緒に弾かせて頂く機会に恵まれました。 安永さんの弾き振りでハルトマンのヴァイオリン協奏曲、市野あゆみさんのソロでモーツァルトの17番のピアノ協奏曲、そして41番の交響曲。 初日のリハーサルはショッキングで、自分の浅はかさを痛感しました。音楽に対する姿勢、考え方、感じ方、技術、全てに圧倒されました。モーツァルトのあるモチーフをどのように扱うか、あるいはある4小節のフレーズをどのように感じるか、そしてそのためにはどんな技術を用いればよいか、大勢が集まって弾く場合にはどんな右手左手の技術があるか・・・。 ひとつひとつのことが、あぁ本当にそうです、でも自分はまったく気付いていませんでした、という具合です。 日本で仕事をしていると、一つには日本のオーケストラが大変忙しいということはあると思いますが、こうしてはならない、こうしなくてはならない、という雰囲気があって、自分もそのように仕事をしていました。 けれど、安永さんは一人一人に音楽の自発性を要求し、今どうするか決めずにそれぞれが欲するように弾いて結果それが集まってくればよい、縦の線がそろうことより大切なものがある、というリハーサルでした。 決め事をつくるのではなく、音楽が生き生きと、即興性を持って動き始めた一週間でした。12日の演奏会当日、市野さん安永さんのソロも大変素晴らしかったし、交響曲は事故はありましたが、とても楽しかったです。 安永さんの音は、速くて、伸びきった華やかな倍音と豊かな響きを持っていて、可能かどうかは別問題として、目指すべき方向を頂いたと感じました。 リハーサルも演奏会も京都コンサートホールで行われました。空き時間に立ち寄ったホール近くの本屋で甲斐扶佐義著「京都猫町さがし」(中公文庫)という写真集を発見。こんな猫に会ってみたくて、撮影場所を早速僕も歩いてみましたが一匹も出会えませんでした・・・。 カナダ出身のチェリスト、ジャン=ギアン・ケラスの弾くドヴォルザークの協奏曲のCDを聴いています。パワー重視の演奏が多い中で、伸びやかで本当に素晴らしいと思います。 No.99(2006年2月6日) 1月6,7日の定期演奏会が新日フィル最後の仕事になりました。 3年に満たない短い期間でしたが、驚くほど多くの本番があり、オーケストラの経験が少なかった僕には貴重な時間でした。楽しいことばかりではありませんでしたが、いくつもの素晴らしい出会いがあったことを本当に感謝しています。 50代のアメリカ人、スティーブン・フィナティというチェリストがいて、僕たちはいつも本当にくだらないことばかり言っていました。トリフォニーでの仕事が続くとき、彼も僕もよく隣あわせに楽器をホールに置いて帰りました。1月7日にフィナティが、「僕のチェロがさみしがるから、新しい仕事場に行っても夜はトリフォニーに楽器を置きにこい」と言ってくれました。 1月16日から東京都交響楽団の所属です。昔から知っている人も多いのでまた楽しく仕事しています。 1月31日はJTアートホールで向山さんのチェロアンサンブル。もう10年も12人のメンバーが変わらず続いているのは素晴らしいと思う。リハーサルはいつも大騒ぎで、大変楽しいです。チェロだけのアンサンブルになると普段あまり使わない5オクターブの音域がよく出てきます(大変高い音域なので僕は超音波と呼んでいる)。でも皆それぞれに涼しい顔して弾いているからすごい。年一回大切な切磋琢磨の場です。 2月5日は、名古屋の桃八という小さな会場で、久しぶりに無伴奏の演奏会。演奏会の度に期するものがありますが、今回のバッハの4番は・・・。見えるようになった景色や、感じられるようになった音を演奏会の場で実現するべく一層の精進をいたします。 演奏会後の交流会で、これまで演奏会のアンケートでしかお名前を存じ上げなかった方たちと実際にお話できてとても楽しかったです。お話はできませんでしたがいつも来てくださる方々にも、本当にありがとうございました。 2月7日から12日まではずっと京都で仕事です。ベルリンの安永さんと一緒に弾けるのでとても楽しみです。 このところ、ニコンのフィルムカメラ部門の大幅縮小、コニカミノルタのカメラ事業からの撤退など残念なニュースが続きました。時代は急激にデジタルに移行しているので当然かもしれません。フィルムと印画紙の生産が続くことを願うばかりです。デジタルやオートのカメラも使ってみましたが、結局マニュアルのカメラがしっくりくるし、フィルムが好きです。 サルガドの写真集「Migrations」を買いました。大きくて高価なのでこれまでためらっていましたが、とうとう。一体どうしたらこんな写真が撮れるのだろうと思って見ています。