「フクロウの方舟」掲載 2008年の近況報告
No.244(2008年12月31日)
来年久しぶりにリサイタルをしようと考え、とりあえず名古屋のホールだけとって(2009年10月)、あとは見事に白紙だ。
弾きたくて弾く演奏会の時は特に、早めに会場入りして、チェロやピアノのいい場所をステージの上であれこれ探し、ピアノのふたを開けたり閉めたり、そして念入りに全てのプログラムを通して、おまけに具合の悪いところを練習したりするから、本番前にすでにへとへとだ。
往年のピアニスト、ジェラルド・ムーア著「伴奏者の発言」にはこんな文章がある:
『声楽家の中には、音楽会のための会場で練習を一回ぐらいした方が効果的であると思っている人がある。私は会場の音の響きぐあいは、ホールいっぱいの人がいる場合と誰もいない時とでは全然違ってくるので、会場で練習をしても大して利益がないと思っている。聴衆がすばらしい音の吸収剤となるのであって、それがなければ音はほとんど反響してしまう。もし歌手と伴奏者が、誰もいないホールで歌ったり演奏したりすることによって、その場所をみたすに必要な音の量を計ることができると思うならば、彼らはおそらく失望することだろう。これは演奏の際になされなければならないことなのである。』
こころしたい。
2009年が実り多い年でありますように。
No.243(2008年12月29日)
どこかで弾くあてはないけれど、シューベルトのアルペジョーネ・ソナタを最近よくさらっている。
この曲はコンクールの課題曲に選ばれて、学生時代に否応なく弾かなくてはならなかった。どうしても技術的なことが気になって、あまり好きではなかった。シューベルトのほかの多くの曲と同じようにアルペジョーネ・ソナタも、聴いているとそうは聴こえないが、とても難しい。目先のことにとらわれていた以前の自分は情けないが、今この曲は好きだ。
同じようにとても弾きたいのが、シューベルトの変ロ長調のピアノトリオだ。
やはり難しいし、何度も同じことが出てくるので、あまり好きではなかった。例えば、有名な「グレート」と呼ばれる交響曲も難しく(第一ヴァイオリンの難しさは特筆すべきだろう、いつも感心する)、千小節を超える長大な終楽章では延々と同じフレーズが繰り返される。
ずいぶん前、ツァハリアスというピアニストに変ロ長調のトリオのレッスンを受けた時、シューベルトの音楽は、「今ここにいることの心地よさだ」と言われた。そう言われてすごくよくわかった気がした。同じことが何度も出てくるのは、ずっとその音楽の中にいたいからなのだ。
このトリオの一番好きな演奏は、ルービンシュタインのピアノ、シェリングのヴァイオリン、フルニエのチェロによるものだ。本当に憧れる。CDのライナー・ノーツに印象的な言葉がある:
『シューベルトは、死というものとまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・自分が死ぬとき、私は周りに誰もいてほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えてゆく動物のように、私は死にたい ― たったひとりで』(ルービンシュタイン)
『シューベルトのトリオを一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)
No.242(2008年12月19日)
12月13日、竹芝桟橋から出港。おがさわら丸はすべるように海の上を進む、かなりのスピードだ。夜は月明かりで海面が照らされて幻想的だった。夜の海には吸い込まれそうになる何かがある。
14日、昼前に父島到着。昼食までは元気だったのに、昼寝したら動けなくなる。
要するに船酔いだ。こんなにひどいのは僕だけで情けない。無理矢理夕方からのリハーサルに出たら(よっぽど言い訳して休もうと思った)、食あたりした時のように弓を持つ右手がふるえたが、しばらく弾いていたらずいぶん元気になった。ミュージックセラピーということか。
15日、多少持ち直して朝少しさらうと、あまりの手の感覚のなさにびっくり。午前中島を案内してもらう。宮之浜、墓地、境浦では座礁した貨物船、トーチカ、防空壕、通信施設跡、夜明山、初寝浦展望台の軍用施設跡ではその生々しさと「愛とはけっして後悔しないこと」という落書きが、すごいコントラストだった。小笠原海洋センターではたくさんのウミガメを見た。
夜は父島小中学校体育館で弦楽四重奏とソプラノの演奏会。とても楽しかった。
ようやく元気になり、打ち上げのビールがうまい。
16日、ははじま丸で母島へ。ははじま丸は少し小さくてよく揺れる。母島はもっと自然が厳しく平地が少ない。島を案内してもらう。北港へ。北村小学校跡ではガジュマルのすごい生命力に圧倒される。
夜母島小中学校体育館で演奏。島の人たちがじっと聴き入る様子には、弾いているこちらが胸打たれるようだった。打ち上げの後、グリーンペペを見に連れて行ってもらう。暗闇で緑色にぼんやり光る小さなキノコだ。ずいぶん車を走らせてから、少し山に入ると、一つだけ光っているのがあった。時期外れのようだが、連日の雨のおかげかもしれない。ぬかるんだ赤土には気をつけていないと足をとられる。
17日、10時半発のははじま丸で父島へ。母島から来ると父島が都会に感じられる。母島は本当に島、という感じだった。父島で昼食をとって14時発のおがさわら丸に乗船。船が港を出るときは、感動的だ。父島でも母島でも本当によくしていただいた。今回は見事に晴天がなく、星空が見られなかったのが残念。帰りは曇りのせいか月も星も出ていないので、夜の海は本当に真っ暗で、デッキに出るのも怖い感じだった。
18日、これ以上眠れないくらい寝ても寝てもまだまだ着かないと思っていたが、竹芝には少し遅れて16時の到着。母島を出てから帰宅するまで30時間以上、時間的にこれより遠いところはそうないのではないだろうか。幸い帰りの船酔いはたいしたことがなかったが、家でチェロをさらうと地球がぐらぐら揺れて困った。明日は岡谷へ。
No.241(2008年12月12日)
都響の仕事で東北に行った。
大館へは盛岡から15時過ぎに出る花輪線というローカル線で3時間近く。景色を楽しみにしていたのだけれど、日が暮れるのが早くてちょっと残念だった。
大館も青森も雪、なのに太平洋側の八戸は全く積もっていなかった。本当に寒かった。第九を演奏した翌日、八戸市民病院で室内楽を弾くために残る。午前中時間があったので、種差海岸まで足を伸ばした。海岸のすぐ近くまでまだ緑の残る芝生の丘が続いていて、素晴らしいところだった。腹の底まで響く波の音をずっと聴いていたかったが、30分もしないで戻らなくてはならなかった。また是非訪れたい。
来週は小笠原の父島と母島で仕事。週末に船に乗る。おがさわら丸は東京の竹芝を朝10時に出港して父島到着は11時半、もちろん翌日だ。
No.240(2008年12月5日)
J.B.プリーストリー著「イングランド紀行」の冒頭が素晴らしい。
『異国からイングランドに来た人が第一歩を踏み出しそうなサウサンプトンから旅を始めようと思った。サウサンプトン行きの長距離バスがあった。イングランドには長距離バスの行かない土地はないかのようだ。・・・』
僕も旅に出たくなる。
僕がカメラと写真に夢中だった頃、「安原一式」というカメラの話題がカメラ雑誌の誌面をにぎわせていた。安原伸著「安原製作所 回顧録」には、まさにその頃のことが書かれていて、とても興味深く一息に読んだ。著者がカメラメーカーを退社して、安原製作所を興し、製造を中国に委託し、実際に販売が始まり、やがてデジタルカメラの時代となり・・・。
カメラを作る側から書かれた文章を読むのは実は初めてではないだろうか。これまで読んだカメラに関する文章は、ほとんど全てがカメラを買い、使う立場で書かれたものだったのだ。音楽も演奏するのと聴くのとではずいぶん違うが、カメラも作るのと買うのとでは大きな開きがあるのかもしれない。
同書から:
『これから先、フィルムカメラが復権しデジカメに取って代わることはないだろう。フィルムカメラは今あるものを使い続けるしかなく、まともに動く物は次第に減ってゆくだろう。フィルムがいつまで供給されるかはフィルムメーカーの厚意に頼るしかない。フィルムに愛着のある人にとって大事なことは、今フィルムがあることに感謝し、やりたいだけのことをやっておくことだ。好む好まざるにかかわらず時は過ぎ物事は変化する。できるかぎりのことをしておけば全ては楽しい思い出になり、やり残した物は悔いとなる。』
No.239(2008年11月30日)
11月20日、名古屋の宗次ホールでイェルク・デームスのリサイタルを聴いた。
デームスがピアノの前に座ると、ペダルに足を置いてすぐ演奏が始まる。1928年生まれだから80歳だろうか、無駄な動きも演出もはったりも何もない、音楽だけが聴こえてくるリサイタルだった。シューベルトの即興曲、ベートーヴェンの30番のソナタ、ドビュッシーの小品、フランクの前奏曲、コラールとフーガ、アンコールのショパン、どれも極上の時間で、深く伸びる低音、みずみずしい高音、消えてしまうのが惜しいような素晴らしい音に包まれた。和音の変わり目がどんな時間の変化を伴うのか、わくわくしながら聴いた。
比べるべくもないが僕ときたら、舞台に出るとまず椅子の高さやエンドピンの長さが気になってごそごそし、調弦をし、ピアニストに目配せして、やっと演奏が始まる。そして得意気に、あるいはおそるおそる弾く音楽はどうだろうか?
実は来年、久しぶりに自分の演奏会を企画したいと思っている。素晴らしい手本を示してもらった夜だった。
No.238(2008年11月23日)
今年の後半は演奏旅行が多い。
移動している時間の方が、演奏している時間より多いことだってあるかもしれない。だからチェロのケースも大切な商売道具だ。ほとんど毎日、たとえ雨でも雪でも持ち歩き、車に乗り、電車に乗り、船に乗り、新幹線の棚に上げ、空港の保安検査場を通って飛行機の座席に収まる。
15年くらい前、A社から格好良くて驚くほど軽いケースが出た時は衝撃的で、高価だけれどどうしても欲しいと思った。確かコンクールの賞金で買ったのではないか、と思う。その時はうれしくて、持って駅の階段を駆け上がってみたりした。
そのケースは酷使してすっかりヤレてしまったので、5年前から同じA社の重くて丈夫で少し安いケースを使い始めた。少々重い(それでも昔のものに比べたら格段に軽い)ことを除けば、がっちりしていていい。もう一つ良いところは、前の青黒いケースと比べてこの白いケースは、雑踏でぶつかられることが少ない。形は同じなのに、目立つのだろうか。それに、白い方が直射日光があたっても熱くなりにくい。
しかし、演奏旅行が続いたせいか、僕が弱いせいか、いつも楽器を担ぐ左肩の調子が悪くなり、もう一度軽いケースを考え始めた。
A社のケースは職業チェリストの中で圧倒的なシェアを持っている。ただ、いくつか問題もある。大きな力がかかると楽器に損傷が及ぶ場合があること、ストラップやハンドルをケースの筐体に固定する金具が二つの鋲で留められているが、この鋲が抜けることがあること、弓を固定する伸縮性の布が強くて、弓に横向きの力がかかり反ってしまうこと、・・・。
B社の新しいケースもよくできていて魅力的だ。横に置きにくいこと、背面にデザイン重視のためか文字のようなふくらみがあること、楽譜を入れにくそうなことなどが気になっていた。
PB社のものもしっかりつくってあるが、厚みがあって飛行機の座席にのせにくいかもしれない。
ストラップやそれをつなぐ金具は使っているうちにめくれてきたり、折れたり、外れたりする。ここが丈夫ならケースはもっと長く使えるのに、と思う。
学生時代に使っていたG社のケースは、僕の不注意もあるが、駅に降りたった時にストラップが外れ、ホームでケースがバウンドした。悪い夢を見ているようだった。駒とテールピースが割れただけで、幸い楽器は無事だった。
それでもやはりA社かな、と思いながら楽器店に行ったら、Musiliaという見たことのないケースがあった。軽くて丈夫らしい。それにA社やB社に比べるとうんと安い。台湾で作っているらしい。
内装材が薄くて、断熱が少し気になるが、トラブルの元になるストラップと筐体をつなぐ金具が無い大変ユニークなつくりだ。楽器や弓の固定も問題ない。
周りに使っている人がいないので少し冒険だけれど、このケースに決めた。
No.237(2008年11月19日)
先月の桐朋チェロアンサンブルの時、堤先生とシュタルケルの自伝について話をした。シュタルケルは自身のことをあまり語らず、あの本を読んで初めて知ったことも多い、とのことだった。音楽よりまず、彼が戦争を生き延びてアメリカに渡った経緯に驚く。
以前、ゲルハルト・ボッセさんの指揮で、R.シュトラウスのメタモルフォーゼンを演奏した時、ボッセさんが曲の成立状況に触れて、「戦争が終わった時、再び音楽ができるようになるとは思えなかった」というようなことをおっしゃった。
ロドリク・ブレースウェート著「モスクワ攻防1941」は名もない人々から、著名人まで、一人一人のモスクワ攻防戦を丹念に追った労作である。
ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトウリアン、カバレフスキー、オイストラフ、ギレリスなど、音楽家のエピソードも出てくる。ロシアの音楽や音楽家の強さ、大きさにはいつも畏敬の念を抱くが、彼らはこんなに困難な状況を経ていたことを知って驚く。
ロストロポーヴィチがサイトウキネンでチャイコフスキーを指揮した時、リハーサルでオーケストラと難しい雰囲気になった。変わったことを要求している、と皆感じたのだ。しかし、ロストロポーヴィチはまったく意に介さず、決して自分の主張を変えなかった。この人たちは生きるか死ぬかの状況をくぐりぬけた強さを持っているからだろうか。
舞台の上で困難な状況におちいると、絶体絶命、もうだめ、と思うが、多分命に別状はないのだ。もう少し強くなろう。
No.236(2008年11月12日)
すっかりデジタルカメラが一般的になって、フィルム交換をしていると、感心されることがある。
撮影済みのフィルムを現像に出して、できあがりを見るまでの時間は、今でも待ち遠しく、またまどろっこしい。けれど、その時間が大切なのではないか、と思っている。何日も前の、忘れてしまったものも含めて、自分の意識を再びたどり、その時間に入る。
「もうひとつの国へ」に収められている森山さんの写真には、はっと胸ぐらをつかまれるようだ。写真はこうやって撮るものなんだなぁ。
No.235(2008年11月7日)
小学生の頃はよく本を読んでいた。今また読むようになった。夢中になれる本がある時は幸せである。読み終わるのがもったいないと思いながらも、時間を惜しんで読むので、すぐ終わってしまう。
森山大道著「もうひとつの国へ」から引用させていただく。
『事物と人間と出来事が、光から影へと至るグラデーションに彩られて、きりなく交差するあらゆる路上の生々とした現実を、カメラという名の小箱に封じこめて持ち帰り、新たなるもうひとつの現実として蘇生させる場所が、他ならぬ暗室である。半ば無意識に近い行為として在る撮影のときを、はっきり意識的な時間として認識する作業が、プリントを作ると言うことではないか。・・・』
『 - ぼくにとってのアートとは、ぼくの日常性のなかに、一瞬の裂け目をつくり、そのすきまから異界を覗き見させてくれるもののことである。・・・』
No.234(2008年11月3日)
11月2日の演奏会、多くの方々にお越し頂き本当にありがとうございました。横浜フィルの方々にも大変お世話になりました。
久しぶりのロココはとても楽しかった。
休みの日の午後、家にいて外を見ながらぼんやりプーランクのピアノの曲を聴いていると、時間の感覚がなくなってしまいそうで、幸せだ。こんな日はそんなにないけれど。
No.233(2008年10月28日)
経済ニュースから目が離せない。今日10月27日のトップニュースは、株価がバブル崩壊後最安値をつけた、というものだった。いったいどこが底なのだろう。
10月24日の日経新聞に岩井克人氏の「自由放任は第二の終焉」という文章が掲載され、とても興味深かったので部分を引用させて頂く。
『ケインズの美人投票とは、最も多くの票を集めた「美人」に投票した人に賞金を与える観衆参加型の投票である。それに参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従っても、主観的な好みに従っても無駄である。平均的な投票者が誰に投票するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も賞金を狙っているなら、平均的投票者が平均的投票者をどう予想するかを予想しなければならず、さらに何段階も予想を重ねる必要さえある。その結果選ばれる「美人」とは、皆が美人として扱うから皆が美人として扱うという「自己循環論法」の産物にすぎなくなる。
プロの投機家がしのぎを削る金融市場を支配しているのは、この美人投票である。それは、需給の実体条件とは独立に、価格高騰の予想が実際に価格を高騰させるバブルや、価格急落の予想が実際に価格を急落させるパニックの危険を常に生み出す。』
7月には1ユーロ170円目前だったのが、今120円を切っている。楽器やその部品はヨーロッパから入ってくることが多いから、影響は大きいと思う。弦は9月に値上げされたばかりだ。急激な円高は、とても好ましいものとは思えないが、弦楽器や弓の相場の高騰の一因がユーロ高にあるとされているから、少しでも落ち着いたら、と思う。
No.232(2008年10月27日)
最近フルニエの、1930年代から1950年頃までの録音をよく聴いている。中学生の時から聴いていたものもあるが、次から次へとその素晴らしさに気がつく。音のよさは言うに及ばず、ヴィブラートや音楽の動き方など、自分の至らなさを知れば知るほど、遠い存在だということがよくわかる。今フルニエやシャフランの演奏を実際に聴けたら、感激してしまうだろうなぁ。
一曲全ては無理でも、せめて一フレーズ、納得のいく演奏ができたら、といつも思う。
No.231(2008年10月18日)
10月16日、福井県立音楽堂で小編成のオーケストラの本番。
様々なオーケストラの団員やフリーの人がいて、いつも聴けない音が聴けたのが嬉しかった。ホールはとても立派で、周囲には蕎麦だろうか、花が一面に咲いて、小さな電車が走っていた。
翌日小松空港から帰京。搭乗した飛行機のスタッフの中に、10月5日のチェロアンサンブルを聴きに来て下さった方がいて、びっくりした。
羽田の手荷物受け取りでは、原田禎夫さんにばったりお会いして、また驚いた。北海道で演奏会があった帰りだそうだ。前日、チェロの荒庸子さんと左手の指と指板との関係について、シャピロはこうだった、岩崎洸先生はこう言った、上村さんはこう言ったらしい、では禎夫さんはどうやって弾いているのだろう、という話をしたばかりだった。
空港からそのまま重野さんの工房へ。2年半たって少々掘れてしまった指板を削ってもらう。僕のマカロニのようにふにゃふにゃした左手で、きっとおかしな具合に減ってしまった指板を平らにしてもらって、巻き返しを計ろう、という算段だ。左手の指の働きを少しでもよくして、より通る、明瞭な音になってはくれまいか。
No.230(2008年10月14日)
半年ぶりに江ノ島に行った。
多い時は毎月のように通っていたから、このところ、かなりチェロを弾くことに気持ちが向いていたということだろう。でも、どうやら頑張りすぎで、おもしろくて好きでさらっていたのに、心身ともに疲れて、伸びしろのあまりない状態だったかもしれない。夏の風邪がなかなか治らなかったのも、そろそろ休もうよ、という信号だったのかもしれない。
夕方の江ノ島では、みいみい鳴く猫たちに囲まれた。新しいカメラ(コシナのR4M)も快調だ。
10月12日、都響のリハーサルの後、房総半島の先の方まで出かけて、横浜フィルの合宿に少しだけ参加した。アマチュアオーケストラの合宿は初めてだったけど、明るく活気があって、とても楽しかった。翌日も朝から都響の仕事があり、ほどほどにしようと思っていたのに、結局夜中まで一緒に騒いでしまった。11月の演奏会が楽しみだ。
No.229(2008年10月6日)
9月30日から桐朋学園同窓会のチェロアンサンブルのリハーサルが始まった。合間に桐朋の学生ホールに降りて行くと、学生が子供のように見えてびっくりした。年を取ったということか。
10月3日の名古屋は夜公演、翌朝8時前の特急で富山へ。夕方5時過ぎに終演して、再び電車で帰京。何十本のチェロと何十人のチェロ弾きが駅のホームを埋めて、電車を待っている光景は異様だった。同じ車両に乗った方々にはさぞ迷惑だっただろう、ごめんなさい。5日はサントリーで11時ゲネプロ、3時開演。なんだかばたばたしていたが、37人集まって、いろいろな考えにふれられておもしろかった。
夏のサイトウキネンで、久しぶりにフィルムで撮った写真の現像ができてきた。
はずれも多いが、いくつかぴったりはまっているものもあって、これがフィルムで撮るよさだと思った。デジタルではモニターを見ながら撮りなおして撮りなおして、目標に近づいていくけれど、到達はしない感じがある。
買って売って買って売って買ったカメラを(近況報告205参照)、結局、何本かのレンズと共に手放して、フィルムのカメラを一台手に入れた。相変わらず愚かである。今度はマニュアルのレンジファインダー機で、21ミリレンズまで対応するファインダーは、視差も補正されて、このところずっと広角レンズが楽しい僕にはとても嬉しい。
No.228(2008年9月30日)
松本で熱を出して寝込んでいた時、元気になったら、生まれ変わったようにチェロが上手になっていないか、と思った。
どんなに些細なことでも、できなかったことができるようになるためには、大変な努力を要することが身にしみてわかっている。今まで何十年も毎日さらってきたことのほとんどは、自分の得意なところや好きなところを丁寧に何度もなぞっていただけ、と気付き、嘆息する。自分が変わることは本当に難しい。
9月25,26日の都響定期のソリストは、オーギュスタン・デュメイで、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
演奏家を水の入った容器に例えると、僕らは多少の差はあっても、水の入ったコップだ。デュメイは水のなみなみと入った大きな入れ物のようだった。(実際こんなに大きなヴァイオリニストは見たことがないが)
オーケストラの音を楽々と越えて行くふくよかな音だった。かなりの音量のはずだが、音色や音質を求めたら、結果としてよく通る音になった、そんな感じがした。特に中、低音は誰かがどこかで増幅しているのではないか、と思うほど幅が広く、後ろのオーケストラまでつつんだ。
ごしごし一生懸命弾けば必ずしも素晴らしい音が出るわけではなく、共鳴体として、楽器と自分の体を生かしきることが一番大切ではないか、と思った。
No.227(2008年9月23日)
これまで都響チェロアンサンブルの衣装は、上は色シャツ・下は黒、ということになっていた。
その色シャツが、黒にラメ入りだったり、なんだかヨン様風だったり、とバラエティに富みすぎているので、9月20日の秋田公演では、男8人を黒シャツに統一した。ユニクロに行って、8着で¥15,920也。少しはまとまって見えただろうか。
終演後仙台に移動して、翌21日はソロの演奏会。実現まで一年近くかかったけれど、動き始めるとあっという間だった。
遠方からも、多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。
懐かしい方々にもお会いできて、とても嬉しかった。急遽素晴らしいチェロ台まで作って頂き、随分助けられた。この台がなければあんなに低音は伸びなかっただろう。
会場のあたたかい雰囲気の中で、ふっ切れた感じで弾けて、本当に楽しかった。頑張ってよかった。まだこの楽しさの中にいたいから、当日の録音は聴かずにいる。
終演後あわただしく帰京して、23日からブルックナーのリハーサル。あと2日演奏会で弾いたら休みになる。久しぶりに海や猫の、撮っても撮らなくてもいい写真を撮りに出かけたい。
No.226(2008年9月14日)
9月21日の仙台での演奏会について、多くのお問い合わせを頂き、嬉しい限りなのですが、本当にごめんなさい、すでに満席でチケットの発売は締め切らせて頂きました。どうかご了承ください。
No.225(2008年9月9日)
松本駅にはサイトウキネンフェスティバルの横断幕が掲げられていて、その写真は多分、何年か前にブルックナーの7番を演奏した時のものだ。
ティンパニのファースさん、コントラバスのツェパリッツさん、オーボエの宮本さんが写っていて、時代は変わってしまったんだなぁと思う。
今日9月9日は、松本滞在中一番の晴天で、空気が入れ替り、季節はすっかり秋になった。
Bプログラム最終日も楽しかった。武満のヴィジョンズを弾き終わった時、小澤さんは、「これは終わり」と、ほっとした様子だった。
こんなに静かで、内に秘めた感じのマーラーは初めてだった。
終演し、別れを惜しみ、部屋に戻ってごそごそ荷造りをする。明日早朝のあずさで帰京したら、そのまま都響の仕事が始まる。
No.224(2008年9月8日)
9月6日、オーケストラBプログラムの初日。今年のBプログラムは楽しい。僕の体調不良のせいかもしれないが、オペラもAプログラムも天井の見えない、こもった感じがあった。
マーラーの1番は、広い森のようだ。うっそうとした森の中で、まず植物や動物の細部が見えてくる。ヴァイオリンが素晴らしくて、細かい音まで全部聴こえてくるのにはわくわくする。 開放的な、でも抑制された感情が、終楽章最後の輝かしい二長調で歓喜の時を迎える。
こうして演奏できることは、誰かからの贈り物のような気がする。本当に感謝したい。
自分の演奏にがっかりし、方向を見失ってしまいそうな今、原田禎夫さん、岩崎洸さん、上村昇さん、こうした素晴らしい方々の間近で弾けることは本当に有難い。ほんの一音、一フレーズ聴くだけで、どれほど助けになることか。
そして小澤さん、下野さんのリハーサルの進め方を見ていて、今までならふんふんと聞き流していたようなことの中に、とても大事なことがあるのがわかる。
長かった今年の松本もあと少し、頑張ろう。
No.223(2008年9月5日)
8月26日、オペラの初日に、妙に手がぽかぽかしている、と思ったのが始まりだった。軽い風邪ですぐ治ると思った。
27日からは「わが祖国」も始まり、一番忙しい頃、シャクトリムシのように伸び縮みする熱に、苦しんだ。
30日の演奏会、「わが祖国」は好きな曲だし、楽しかったのだが、部屋に戻って熱を計ると39度まで上がっていた。夜遅く病院に行き、検査を受け、点滴をしてもらった。
31日はオペラの3回目、演奏は素晴らしかったが、僕は後半電池が切れたみたいだった。終演後、もう駄目と思いながらベッドにもぐりこむ。この日の39度は前日と同じとは思えないくらいきつかった。
昨年の「スペードの女王」では小澤さんが風邪で辛そうだったけど、あぁ本当に辛かったんだなぁ、とよくわかる。
9月1日は待望のオフで、釣りのはずが、朝病院に行って点滴を受け、薬を変えてもらい、ホテルのベッドで身動きできなくなっていた。
9月2日朝、熱が下がった!
一週間高かったので、平熱に戻ると変な感じだ。熱がある時の本番は、指先までぽかぽかするし、ぼぉっとして緊張もしないので、そんなに悪いことばかりではない。
今日はオペラ最終日、久しぶりに平熱でピットに入ると、差し込んでくる頭痛もなく、咳もあまり出ず、やはり楽だった。
事故もなくオペラが終わり、本当に良かった。小澤さんは「終わらないんじゃないかと思った!」と言いながら、ピットにいるオーケストラと握手していた。
9月3日からはメンバーがまた少し変わって、オーケストラBプログラム。「巨人」のリハーサルでは、小澤さんが本当に生き生きしている。オペラは本当に難しかったんだなぁと思う。
ひどい風邪の後で、「巨人」を弾けることが、本当に嬉しい。
No.222(2008年8月26日)
平吉山荘での演奏会の録音を聴いて、ただただ反省。オペラの合間にホテルの部屋でさらいながら、今まで何をやってきたのか、と自分を呪っている。
あと数ヶ月、問題と直面して苦闘を続けると、突然信じられないくらい上手くなったりしないだろうか・・・。
オペラは21日が通し稽古、22日がプレゲネプロ、24日が公開ゲネプロ、明日26日が初日だ。いつも、通し稽古が始まるまでが長く感じられるが、本番が始まれば時間は滞りなく流れる。
そして27日からオーケストラのリハーサルが始まる。今、広い所で存分に弾くことを待ちこがれている。
No.221(2008年8月22日)
8月17日、ハーモニーホールでロバート・マンさんの室内楽を聴く。マンさんは今年88歳、現役最高齢のヴァイオリニストではないだろうか。
チェロは原田禎夫さんで、相変わらず素晴らしかった。こういう演奏をすることの難しさが、今よくわかる。すごいなぁ。
雑誌「文学界」9月号で、小川洋子さんの「猫を抱いて象と泳ぐ」が完結した。読み終わるのがもったいなかった。最近、ノンフィクションばかり読んでいたけれど、やはり物語を読むのは楽しい。
言葉にできないから音楽をする。言葉を使う小説も、言葉にできない何かを表現しているのではないだろうか。
小さい頃抱いていた、うまく言いあらわせない感覚、まして大人には決して説明できない何かが書かれているような気がして、胸がいっぱいになった。
8月15日から練習しているオペラ「利口な女狐の物語」は、やっと音がまとまってきた気がする。
去年の「スペードの女王」はなにしろ音楽も歌手も派手だったから、かなり積極的に行けたのに比べて、ヤナーチェクはガラス細工のように精巧で繊細だ。
ステージがかなり面白くて目を奪われるだろうから、聴いている人には、オーケストラピットの苦労はわからないかもしれない。でも、きっとそれでいいのだろう。
No.220(2008年8月17日)
8月14日平吉山荘での演奏会、遠方からも多くの方々にお越し頂き、本当にありがとうございました。
R.シュトラウスのソナタは、かなり苦労して、でも試行錯誤の結果がようやく少し見えてきた感じだ。
終演後、松本に移動。
翌15日からサイトウキネンのオペラの練習が始まった。東京を出るまで、さらったり譜読みしたり、あれやこれやの準備をしたり、かなりせわしなかったので、一つのことに集中すれば良い今、本当にほっとしている。
16日からはオーケストラピットに入ってのリハーサル。まだ第一幕だけだが、ステージでは狐やら犬やら、おんどりめんどり、蚊やとんぼ、はえまでとんだりはねたりしている。はえの目は茶こし!
No.219(2008年8月12日)
また弦の話。
パッショーネは良いのだが、やはり硬いのと、上の弦の高音の伸びを止めてしまうような気がして、一段ゲージ(太さ)を細いものにしてみた。この数ヶ月の悩みが嘘のように消えて、弾くのが楽しい。
弦を細くすると、音も軽くなりがちなので難しいこともあるけれど、今回はうまくはまったようだ。
11月に横浜フィルというアマチュアオーケストラでロココを弾かせてもらうので、先日早速一回目のリハーサルがあった。
後で録音を聴いて自分の音程の悪さにがっかりしたが、1人でさらっているのとは違って、オーケストラと弾くのは楽しい。ロココを弾くのは久しぶりで、以前と全く違う曲に思えて新鮮だし、何よりわくわくする。
僕の持っている中で一番力のある弓は、弦に触れてから音が出るまでの、含みの部分が少なくて、どうしてもかたい音になってしまう。毛替の時に重野さんに相談したら、しなやかな毛を提案され、実際毛でこんなに音が変わるのか、と驚いた。また、馬の尻尾の毛にも、元と毛先があることを初めて意識した。考えてみたら当たり前の話だ。
道具が良くなると、上手くなったような気がする。
でも自分を変えるのは本当に難しい。三十数年弾いてしみついたものと、毎日とっくみあっている。なんとなくさらうのは、今までの癖を強化するだけだ。自分を知った上で、それに向きあうのは楽ではなく、呆れてばかり。あまりぼんやりしている暇はない。
No.218(2008年7月20日)
本当はトゥランガリラを弾く前に読もうと思っていたが、クレーメルの自伝を先に買ってしまったので、最近やっと読み終えたのはレベッカ・リシン著「時の終わりへ メシアン・カルテットの物語」。
第二次世界大戦中、ドイツ軍に捕らえられたメシアンが、収容所で作曲し初演した「世の終わりのための四重奏曲」の物語である。(日本では一般に「世の終わりのための」と呼ばれるが、「時の終わりへの四重奏曲」とした方がふさわしいらしい)初演した4人のその後の人生も書かれ、興味が尽きない。
楽譜に印刷された、メシアンによる序文の邦訳もある。
リズムの拡大や縮小、冒頭からでも末尾からでもどちらから解釈しても音価の順が変わらない非逆行的リズムなど、トゥランガリラで頭を悩ましたばかりなので、よくわかる。おもしろい!
「世の終わりのための」は何年も前に1回だけ演奏したことがある。その時はこの序文も読まず、何もわからず何も感じず弾いた。僕に依頼して下さった方に申し訳ない、恥ずべき演奏だった。
目の前の音符に追われる生活をしているが、やはり作曲者や、作品の成立事情はできるだけ知っておくべきなのだろう。
昨年、デュティーユさんにお会いして、温かくチャーミングな人柄にびっくりした。6月に都響に来たペンデレツキ氏は、不機嫌な頑固親父という感じで、でもとてもおもしろかった。「カプリッチョ ジークフリート・パルムのための」の楽譜にサインを頼んだら、ものすごく面倒くさそうに書いてくれた。デュティーユさんとは対照的である。
バッハやモーツァルト、ベートーヴェンといった人たちは、僕にとってほとんど人間を越えた存在だが、何百年か前には確かに彼らが生きて呼吸していたのだから、信じられない思いだ。
No.217(2008年7月20日)
ヤワなところがどこにもない、と言ったらいいのか、九州交響楽団は濃く熱いオーケストラで、トゥランガリラを弾く4日間の仕事はあっという間に終わった。楽しかった。九響の皆さんにはすっかりお世話になり、本当にありがとうございました。
先週FMで、オイストラフの1955年来日時の録音が放送されて、素晴らしかったので、早速CDを求めた(オイストラフ・イン・ジャパン1955)。
昨日読み終えたギドン・クレーメルの自伝「クレーメル青春譜」(アルファベータ)には、彼のモスクワ音楽院時代にオイストラフのクラスにいたことが詳細に書かれていて、とても興味深かった。困難な時代だったからこそ、あんな凄い演奏ができたのだろうか。巨匠、というより巨星という感じがする。
「クレーメル青春譜」のエピローグには印象深い文章がある:
『・・・自分自身の内なる声をどこに見出すかは、依然として重要な問いである。その声を探し、小さな声であれ、大きな声であれ、美しい声でも、それほど美しくなくても、見つけられたなら、人は勝利したのである。それは困難な道だ。・・・』
No.216(2008年7月15日)
明日からメシアンの「トゥランガリラ」が始まる。何年か前、新日フィルで一度弾いているが、僕の素晴らしい忘却の力でほとんどの音を見事に忘れていた。
その時の印象は、やかましくて、生理的に合わない、要するに好きではなかった。今回スコアを借りて、ゆっくり読んでいくと、突然おもしろさに気付いた。おもしろい!仕掛けの見事さ、多様な楽器の組み合わせの妙など、深い森に入り込んだようだ。
7月13日の都響はボエーミ氏の指揮で、テノールのラ・スコーラの演奏会。
ボエーミ氏は相変わらず絶好調で、今いい音楽ができさえすれば、という刹那的な感じは大好きだ。今僕の頭の中はトゥランガリラの精緻な音符でいっぱいだが、イタリアオペラを本能のままに、ゆらし、ヴィブラートをいっぱいかけ、ポルタメントもためらわず山盛り、という日があってもいい。
リプキンの小品集「MINIATURES & FOLKLORE」を聴いた。なんだこの人は・・・。力が抜けてしまった。歌の仕事をすると、歌にはかなわない、と思うが、リプキンのチェロは歌のようだ。技術的な制約はどこにもない。
相変わらずエディロールで録音して聴いて、まぁたいてい落ち込んでいる。
録音したファイルをコンピュータに取り込み、CDに書き込み、それを聴くと、エディロール本体からヘッドフォンで聴くよりずっといい。少し落ち込みの度合いが減る。
新しいエディロール(R-09HR)はノイズが少なくなって、音質もぐっと大人になったし、編集ソフトもついているので楽しい。もう少し頑張ろう。
No.215(2008年7月10日)
7月9日の演奏会、多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。懐かしい方々にもお会いできて、嬉しい一日でした。
6月22日からの4日間、75歳のペンデレツキが都響に来た。自作を2曲と、メンデルスゾーンのスコットランド、という内容だ。
作曲家が自作を指揮するのは、やはりおもしろい。「弦楽のための小交響曲」、特に第2楽章の速い3拍子は、四分音符と八分音符しかないのに、音とリズムが体に入らない書き方で、本番は緊張した。おもしろい音楽なのに、緊張すると手がいかなくなる怖さがあった。たまにはこれくらいぴりりとした方がいいだろう。
オーケストラが慣れない音符にかじりついて、音楽がなくなってしまうと、「Presence!」とよく言っていた。冗談で「全てのことを楽譜に書くことはできない」と言っていたが、本当にそうだった。楽譜にはほんの手がかりしか記されていなくて、音楽は書くことのできない何か、すごく生命感のあるものだった。ペンデレツキを見て、巨匠と呼ばれた人たちのことを思い出した。
最近の僕は楽譜にとらわれて、一体何をしていたのだろう。
ラドヴァン・ヴラトコヴィチがソロを吹いた、ホルン協奏曲もとてもおもしろかった。
ペンデレツキの指揮は、お世辞にもわかりやすいとは言えず、おまけに左手で振るので、とっさの時にとまどってしまう。さらに加えて、巨大なお腹なので、ヴィオラの外側の人たちは、その左手がほとんどお腹にかくれてしまい、本当に見にくかっただろう。
もしいろいろな接続部分のアンサンブルがうまくいっていたら、相当聴きばえがしただろう。
この週はFMでヨーロッパの演奏会のライヴ録音が放送され、リプキンのドビュッシーのチェロ・ソナタ、ヴラトコヴィチのシューマンのアダージョとアレグロも聴けた。
リプキンのファンタジーあふれる演奏は、相変わらず素晴らしかったし、ヴラトコヴィチの太くあたたかいホルンの音色は、手本としたくなるものだった。
6月29日の都響は、竹澤恭子さんのソロでブルッフの「スコットランド幻想曲」。
演奏には様々なことが要求されるが、テクニックにも増して大切なことは、どんな音で弾きたいか、どんな音楽をしたいのか、そこの素晴らしさだと思う。熱い竹澤さんの後ろで弾くのは本当に楽しかった。
No.214(2008年6月22日)
また弦の話。
下2本をパッシォーネからオイドクサに戻して幸せだったのだが、ゲージを太くしたせいか、上2本の音がどうしても伸びない。それで結局またパッシォーネにした。
新品のスピロコアはなじむまでしばらく、あのじゃりじゃりした音と友達でなくてはならない。それでもせいぜい4,5日のことと思うが、パッシォーネは2ヶ月かかって、やっと落ち着いた様子だ。周りがスチールでごりごり弾いているなら、僕もこのくらいじゃりじゃりしていていいだろう。
この先しばらくパッシォーネを使うなら、なにしろ張ってすぐには安定しないので、そろそろ予備をつくらなくては。
No.214(2008年6月16日)
ハンガリーのチェリスト、「ヤーノシュ・シュタルケル自伝」(愛育社)がめっぽうおもしろかった。
新聞の書評を読む限りでは、その乾いた独特の筆致ばかりが強調されていて、期待できなかったのだが。
シュタルケルが第2次大戦下のハンガリーで大変な目にあっていたことは全く知らなかった。ほんの少し何かが違うだけで、命を落としかねないところにいたのだ。出自や政治体制に対する思いは、僕たちの想像が遠く及ばないほど重いものかもしれない。
音楽家にまつわる数々のエピソードは本書の白眉だ。
もちろん、伝説的なコダーイの無伴奏の録音のことも書いてある。ピーター・バルトークがどのようにマイクを設置したかわかるし、二重奏で共演している素晴らしいヴァイオリニスト、アーノルド・イーダスの謎も解けた(2007年の近況報告No.158参照)
オイストラフ、ハイフェッツ、メニューイン、フルニエ、ピアティゴルスキー、カザルス、ストコフスキー、ライナー、フリッチャイ、クレンペラー、バルビローリ、カラヤン、ホルショフスキー、アラウ、コダーイ、・・・。数え切れないほど多くの、大きな人たちと実際に接した話には興味がつきない。楽譜や録音、映像でしか知らなかった巨匠たちが、生身の人間として急に生き生きと動きはじめる。
文章は確かにクールで、例えば、
「シェボックが次々にLPを出していたレコード会社、エラートが、ベートーヴェンのチェロ・ソナタと変奏曲の全曲、それにブラームスのチェロ・ソナタをレコーディングするよう私たちに求めてきた。・・・私たちは全ての曲を1週間で録音した。」
こんな調子だ。
チェロ弾きは普通、ベートーヴェンの5曲のソナタと3曲の変奏曲、ブラームスの2曲のソナタを1週間で録るものだ、と思われては困る。とても大変なことを、まるで花瓶の置き場所を右から左へ動かすような調子で書いている。
こんなところもある。
「・・・私と同じタイプの音楽教育を受けている者なら、誰でもそれなりに指揮をこなせると私は思っているが、だからと言ってその人が指揮者になれるというものではない。・・・確かに音楽界では指揮者はソリストや教師よりも格が高いと見られるが、私は経験も準備も足りないマエストロたちに長年不愉快な思いをさせられてきたので、彼らの仲間に加わりたくはなかったのだ。傑出した指揮者たちは何年も何十年もかけてその技を磨いている。・・・」
本の最後に補遺として「組織的な弦楽器奏法」があり、本当にありがたい。
文章だけだとわかりにくいが、以前菅野博文さんがシュタルケルのメソッドとして教えてくださったことが、改めて大きな意味を持ったし、都響の平田昌平さんもシュタルケルの弟子なので、早速いろいろ教えていただいた。チェロを弾くのがうんと楽になった。
もし学生時代にこの本を読めていたら、人生はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。
No.213(2008年6月7日)
先月台風がいくつも日本に接近した影響で、八丈島への船便の欠航が続き、貨物の輸送が滞ったため、都響の大型楽器が運べず、信じられないことに、八丈島公演が中止になった。
どんな人たちがいて、どんな海が見られるのか、楽しみにしていたので、本当に残念。
GRⅡで撮ったモノクロ画像を、写真家の相田憲克さんがエプソンのプリンターで、月光のバライタ調インクジェット紙にプリントしてくださった。
デジタルに対して持っていたネガティブな印象が大きく払拭される、素晴らしいプリントでびっくりした。GRⅡでもここまでできるのか、と思うと、またプリンターなど新しい道具が欲しくなってしまう。いや、今は踏みとどまろう・・・。
No.212(2008年6月3日)
新しい弦、パッシォーネをしばらく使ってみた感想:
音の輪郭ははっきりしている。
馴染んできても弦は変わらず硬く(伸びが少ない)、ペグ(糸巻き)で調弦するとスチールのような感触。
G線はクロムスチール巻き、C線はタングステン巻きで、そのせいか湿度によるピッチの変化が2本の弦で異なる。同じように変化しないので、ちょっと使いにくい。
結局オイドクサに戻した。
しかし今度は一回りゲージ(直径)の太いものにした。日本には真ん中のゲージしか入っていないので、取り寄せてもらった。昔、オリーヴを使っていた時、一回り細いものが欲しくて、パリの酒井淳君にわざわざ送ってもらったことがある。ゲージの違うものは日本で手に入らない、と思っていた。
太くして、低音の深みはずっと出たと思う。音色は暗くなって、ミディアムゲージの伸びやかさは失ったけれど。音ははっきりしにくいから気をつけなくては。
まだどちらか決めかねている。
ガットは特に、馴染むのに時間がかかるから、知らずに張ると、「何だこれは・・・」、となるかもしれない。
子供の頃、楽器店でヴァイオリンのガット弦を伸ばす金属製の道具を見て、一体何のことか全く理解できなかった。今よくわかる。値段はちょっと高かったなぁ。
No.211(2008年5月26)
5月16日から小泉さんの指揮で都響定期、ブルックナーの3番のリハーサルが始まった。こちらは19日夜に本番が終わり、翌20日は仙台に移動して、仙台フィルの仕事。こちらも小泉さんの指揮でブルックナーの3番。仙台フィルの定期は23、24日の2公演あったから、都合9日間毎日ブルックナーの3番を弾いたことになる。こういうことはこれからの人生でもきっとそうはないだろう。
5日間の仙台滞在は、皆さんに本当に良くして頂いて楽しかった。
リプキン・ショックはいまだ冷めず、あれは何だったのだろう、とずっと考えている。
チェロがあんなにすごい楽器だったとは。僕はチェロの可能性の少ししか知らなかったのだ。チェロからあれだけのものを引き出す彼の音楽には脱帽。
最近ハイフェッツの録音もよく聴いている。
ヴァイオリンの名手だ、ということはずっと前から頭でわかっていたから、例えばオーケストラの仕事で初めてツィゴイネルワイゼンを弾いた時は、当然のように彼のCDを求めた。でもそれは仕事のための勉強でしかなかった。
今、彼の凄さがよくわかる。どうして気付かなかったのだろう。テクニックはもちろんだけど、本当に素晴らしいのは彼の強いハートではないだろうか。揺るがない意志が、どの音にも、どのフレーズにもある。古い録音なのにこれだけストレートに伝わってくるのだから、もし実際に聴いたら本当に強烈だったろう。
オーケストラの仕事は、どちらかというと、職人の要素が強い。でももう少しだけ破目を外してもいいんじゃないか、と最近思う。
No.210(2008年5月19日)
写真に夢中だった頃は、仕事に行くときも、ほとんどいつもカメラを持ち歩いていた。
でも今は荷物を減らしたくて、持たずに出かけることもある。それは丸腰で外に出る感じで、何か心許ないし、だいたいそういう時に限って、いい瞬間に出会う。
デジタルカメラに興味はなかったけれど、しばらく前、たまたま入った家電量販店でリコーのGRデジタルⅡを触って、心動かされた。小さくててきぱき動くし(楽器と一緒でも気にならない大きさだ)、液晶も見やすい。このところほとんど28ミリレンズしか使っていないから、明るいGRレンズも魅力的だった。
最大の問題は画質で、もちろん、僕の好きなフィルムのようではない。そこは最近出たシグマのDP-1の方がずっといいが、値段と大きさと使い勝手がどうも・・・。
とにかく、数ヶ月さんざん考えてGRⅡを手に入れた。
写真を撮ることが好きな人がきっと開発に携わったのだろう。カラーと白黒の切り替えや、露出補正も手早いし、いつも水平線が斜めになる僕には嬉しい、水準器まで付いている。
実はハッセルブラッドが欲しいと思った時期があって、地面に置いてあの正方形のフォーマットで、寝そべる猫を撮ったらさぞ楽しかろうと思ったのだが、35ミリフィルム以外に手を出すのはやめようと、諦めた。
GRⅡは正方形で撮ることもできて、これは楽しい。僕は縦長の写真を撮ることが多い。正方形なのについカメラを縦位置で構えてしまうが、正方形には縦も横も無いことが新鮮な驚きだった。
メモ帳のように毎日あれこれ撮って遊んでいる。
No.209(2008年5月17日)
5月15日、都響定期のソリストは、イスラエルのチェリスト、ガブリエル・リプキン。
上手いらしい、とはきいていたが、練習が始まるとあまりのでっかい音に驚いた。
チェロ協奏曲というのはたいていいつも、オーケストラの音がどうしてもチェロにかぶってしまうので、バランスが難しい。あるとても有名なチェリストは、神経質すぎるくらいオーケストラを落とさせていたっけ。
リプキンは、文化会館の大リハーサル室からあふれてしまいそうな爆音だ。都響のチェロは決して音の小さい方ではないと思うが、我々6人より彼1人の音の方がずっと存在感がある。大泉洋のようなもじゃもじゃ頭を振り乱しながら、すごい演奏をするので、思わず笑ってしまった。
ソリストというのは、こういう人のことを言うのだ。圧倒的だ。
使っている楽器は大柄で、アーチが大きくて、ものすごくいい顔をしているけれど、見たことのない感じだった。尋ねると、「ガラーニ」、だそうだ。知らない名前だ。とても美しい裏板を見せてくれた。
エンドピンは湾曲していて(どうやってしまうのか)、その先端はとがっていなくてネジ山が切ってある。椅子はエンドピンのストッパーがくっついた、ドラマーが座るようなのだし、とにかく変わっている。
こんなに大きい音を持っているのに、「サントリーホールの音響はどうだろう?」なんて心配しているのがおかしかった。
演奏会が始まって彼が出てくると、大げさな言い方をするとホールにいる全ての人間が、彼の一挙手一投足を注目しているのがわかる。固唾を呑んでこれから始まるものを待っているのだ。チェロのネックに左耳をくっつけて、親指で弦をはじいて調弦するので(こんなことをする人は初めて見た)、余計に注目してしまう。
実際弾き始めると、その時彼の中で何かが新しく起こるらしい、リハーサルとは違う音楽が来るので、いつも目と耳が離せなかった。すごく惹きつける人だと思った。
爆音、というのは正しくないかもしれない。ものすごくいい音で、おまけにでかいのだ。なんとうらやましいことか。
でかいけど中身がなかったり、ざらざらだったりする人は時々いる。しかしこういう人はそんなにいない。大きい音を持っているから、ピアニシモが本当に引き立つ。音量が落ちてくると、次に何が起きるんだろう、とどきどきした。音楽の振幅が尋常でなく大きい。
音程のとり方も独特で、特にショスタコーヴィチの第2楽章では、上ずっているような気もするのだが、平均律とかけはなれた、強い音程感覚を感じた。シャフランの音程に通じるものがあるかもしれない。
アンコール、最初にバッハのブーレを弾いて、次にデュポールの8番をアレンジしたものを弾くまでは良かった。3曲は多すぎた、2曲だったらヒーローだったのに・・・。
しかし31歳、ガブリエル・リプキン、恐るべし。
指揮は26歳のヤクブ・フルシャ。とても好感が持てたが、リプキンにいいところをもっていかれた感じで、後半のプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」がちょっとかわいそうだった。
いつもなら、良い刺激を受けると早速さらう。しかし今回は彼我の差の激しさにショックを受け、翌日葛西臨海公園の100メートルを超す大きな観覧車に乗った。それはそれは半端ない高さで、足はすくみ、手にはじっとり汗をかき、手すりをしっかり握りしめて動けなくなった。
演奏会の舞台の方がよほど楽だ。
No.208(2008年4月24日)
テレビで、ピアノのアンドラーシュ・シフの演奏会の模様を見て、その素晴らしさに、すぐCDを求めた。
ベートーヴェンのテンペスト、ワルトシュタインの入った2枚組み(ECM1945/46)。こちらもライヴ録音で、それが信じられないような完成度だ。何の説明も要らない、演奏を聴けば全てわかる、そんなことがベートーヴェンの中期のソナタでできるのは、本当にすごいと思う。
内容もさることながら、ジャケットのデザインも洒落ていてうれしい。このところ毎日聴いている。
土曜日にシェヘラザードを弾く。
以前FMでベルリン・フィルのライヴ録音が放送されて、全体はもちろん、それぞれの楽器の名人芸にたまげたことがある。トロンボーンのファンファーレなんて、よく研いだ大きな刃物で、ざりっと心臓をえぐられるような凄みがあった。
チェロのソロも何箇所かあるので、珍しくCDを何枚か聴き比べた。今回聴いた中では、チェリビダッケとミュンヘンフィルのライヴ録音が圧倒的だった。普通ではない、ゆっくりとしたテンポで始まるが、まるで壮大な絵巻物を見るようだ。まさに千一夜物語にふさわしい。
No.207(2008年4月14日)
3月中旬から4月初旬にかけての都響6公演とも、いつも新しい曲があって、久しぶりに譜読みに追われた。
それだけでなく、ショスタコーヴィチの12番やラ・ヴァルス、ドン・ファンは、特にドン・ファンは何度も弾いているはずなのに、あっぱれ、と言いたくなるほど憶えていなくて、これもまるで新しい曲のように読まなくてはならなかった。やれやれ。(この素晴らしい記憶力の欠如のおかげで、何十年たってもチェロを新鮮な気持ちで弾けるのだろう。)
譜読みは、基本的には面倒な作業だ。仕事の前日夜に追い込まれて無理矢理読む、なんてことは最も避けたい状況だ。
このところ、僕としてはよくさらっている方だと思う。それは楽しいから、とか、技術を維持するため、とかいうより、例えると背中がかゆかったり足の裏がかゆかったりして、かかずにはいられない、つまり、目の前に今すぐどうしても解決しなくてはならない問題があるから、さらわずにはいられない、という状況だろう。
常に前に進んでいる、という自覚はある。だから、数ヶ月前の本番を思い返すと、あの時これができていれば、これがわかっていれば、と思う。けれど、その時はその時で最善を尽くしているのだから、仕方ない。
上達という螺旋階段をじりじり登っているつもりだが、登っているはずの階段が実は下がっていて、一周したら前より下手なところにいるとしたら、それはぞっとすることだ。
新しい弦、パッシォーネのG線C線が手に入った。(ピラストロ社のHPはこちら http://www.pirastro.com/homeset.html)
ガットなのに、硬く、しなやかさがない。早速張ってみると、まるで新品のスピロコアみたいにじゃりじゃりいうので、びっくりした。タングステン巻きのC線はスチール弦のように細く、スピロコアのタングステン(ヴォルフラム)に似た音だ。
ガットのはずなのに、ガットらしくない、はっきりとした「現代的」な音がする。いわば高性能ガット弦だ。値段もちょっと高い。下2本をパッシォーネにすると、上2本の音は良く言えば落ち着く、悪く言えば、伸びやかさが減る感じだ。
ピラストロ社の宣伝文句にあるように、確かに伸びにくい。オイドクサは2週間くらいかかって伸びていくから。新製品を張ってから1週間近くたち、オイドクサの柔らかく、丸い銀の巻き線のためにシフトの度にキュッキュッという感触が懐かしい。
まだ広いところでは弾いていないが、もし誰かに聴いてもらったら十中八九、パッシォーネがいいと言われるだろうなぁ・・・。
No.206(2008年4月4日)
村上春樹さんの著書「走ることについて語るときに僕の語ること」の中に、大変印象深いところがいくつもあったので、引用させていただきます。
「・・・小説家という職業に-少なくとも僕にとってはということだけれど-勝ち負けはない。発売部数や、文学賞や、批評の良し悪しは達成のひとつの目安になるかもしれないが、本質的な問題とは言えない。書いたものが自分の設定した基準に到達できているかいないかというのが何よりも大事になってくるし、それは簡単には言い訳のきかないことだ。他人に対しては何とでも適当に説明できるだろう。しかし自分自身の心をごまかすことはできない。そういう意味では小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている。基本的なことを言えば、創作者にとって、そのモチベーションは自らの中に静かに存在するものであって、外部にかたちや基準を求めるべきではない。」
「才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。・・・」
「集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家には-少なくとも長編小説を書くことを志す作家には-求められる。呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。・・・」
「優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは『たとえ何も書くことがなかったとしても、私は一日に何時間かは必ず机の前に座って、一人で意識を集中することにしている』というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに士気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。」
No.205(2008年3月31日)
シューマンの交響曲のスコアを買いに行った銀座のヤマハで、ロシアの作曲家カプースチンの楽譜を見つけた。チェロとピアノのための「ブルレスケ」と「ニアリーワルツ」、思いもかけず簡単に手に入ってうれしくなった。ジャズっぽいといえばわかりやすいだろうか、夏くらいに弾けたら、と思っている。
そのままふらふらと「銀一」というカメラ屋に入ったら、欲しいと思っていたバルナックのライカがかなり安く出ていたので、思わず見せてもらう。僕のDⅢはシャッターが500分の1秒までしかないので、1,000分の1があるⅢaは魅力的なのだ。安い理由はボディ背面に以前の所有者名が入っているからだそうだ。でもきちんと整備すると、結局お金がかかってしまうなぁ。お店の人にいろいろ教えてもらえて楽しかった。
少し散歩してから新宿へ。ここでもカメラ屋に入る。
以前手放して、そのことを悔やんでいるカメラが大量に中古で出ていて、心動かされた。以前は、一旦あるカメラが欲しくなると、どうしても欲しいので、手元のカメラをぽいぽい売っては買い、という行為を繰り返していた。手放したことを後悔しているカメラは本当に多い。買って売って買って売って買って、と同じ機種を3回買ったこともある。愚かである。
写真に夢中だった頃は、チェロはどうでもよくて、カメラのことや写真を撮りに行くことばかり考えていた。当時チェロがどんどん下手になっているのに気付いていなかったから、本当にヤバかった。ただ、何十年もチェロのことばかり考えていて、良い音楽ができるとも思えないので、それで良かったのだ、と思うことにする。
先日の江ノ島で撮った写真の現像ができてきた。
猫の写真を撮り始めたころ、出かけるたびに、なぜか個性的な猫に会えて、おもしろい写真が撮れて、僕は天才ではないかとひどい勘違いをして、ますますのめりこんだ。その頃を思い出すような楽しい猫たちに会えた。
このところ時間がなくて、「今週の一枚」は小さなデジタルカメラで撮ったものばかりだったが、久しぶりにフィルムからスキャンした画像を載せたいと思っている。
No.204(2008年3月24日)
何本か続けて新作の弓を見た。
特に最近見たものは、材料に透明感があり、木目も見事に浮き出ていて、ほれぼれするくらい美しかったが、どうしても音になじめなかった。
一方、2年近く弾いていなかった古い弓には、こんなにいいものだったか、と驚いている。一つには、新日フィル時代の忙しい業務でへたっていたのが、2年間の休息で生き返ったのかもしれないし、多分本当のところは、あの頃弓をしっかり握って弾いていたからだろう。振動を殺していた訳だ。自分の拙さでいい弓を死なせていたことになり、恥ずかしい。とにかく、手放さなくてよかった。音の新しい世界が見え始めて幸せである。
ピーター・ウィスペルウェイの弾くバッハの録音を聴くと、左手の指が指板に落ちる音がいい音で入っている。明瞭な演奏のためには、こんなに厳しい左が必要なのだろうか。
学生時代、倉田先生によく言われていたことなのに、結局身に沁みないとわからない、ということだ。情けない。ポッパーのエチュードを出してきてさらっている。トルトゥリエの録音には指の音がとてもはっきり入っていたなぁ。
僕の使う弦の下2本はピラストロのオイドクサだ。
楽器全体の響きが伸びやかになるので、気に入っているが、張力が低いので、これを使っている職業演奏家は多くないだろう。もう少し強くても、という状況は時々あり、でもオリーブでは強すぎて、響きや音色が暗くなるので気が進まない。
ピラストロ社のホームページを開いたら、ヴァイオリン用に出ているパッシォーネという弦のチェロ用が出る、とのことだった。日本国内にはまだしばらく入ってこないようだが、早く試してみたい。音の通りや安定性など、性能面でスチール弦が一番なことはわかっているが、楽器が自由にならないあの感じが好きになれないので、あれこれ苦労する。
オイドクサの太いゲージ(径)のものを注文し、新しい素材を使ったオブリガート、という弦も試してみたい、と思っている。
No.203(2008年3月8日)
3月2日、都響佐久公演の帰り、予定よりも早かったこともあって、長野新幹線の自由席車両に乗った。残念なことに、通勤電車のような混雑で、通路に立った。はじめぼんやりとしていたが、ちょうどいい機会と思い、先月横浜で弾いたバッハの録音をやっと聴いた。
つかまるもののない通路で、自分の録音を聴くのは、学校で先生に怒られて、廊下で立たされているような気分だった。もうちょっといいと思っていたのに・・・。
帰宅途中、HMVに寄り、ヴィーラント・クイケンの弾く「無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバ・リサイタル」というCDを見つけた。知らなかった曲ばかり入っていて、自由で素晴らしい演奏だ。
バッハももっと自由に活発に弾けばいいのだ、と気付き、早速少しさらう。
自分の演奏を聴くと、大体いつも道の遠さに茫然とする。けれど時々、目の前にあるのに、あるいはすでに手にしているのに、気付いていない何かを知ることもある。
翌日、久しぶりに江ノ島に出かける。
このところチェロに夢中で、毎日身の周りの半径3メートルくらいで生きていたから、外に出て日にあたり、波の音をきき、水平線を見、猫に遊んでもらって、生き返った。
写真ばかり撮っていた頃は、江ノ島に行くと、フィルムの3本くらいはすぐ使っていたのに、今日はぴったり1本。現像があがってくるのが本当に楽しみだ。
No.202(2008年3月4日)
一昨年、新作の弓をふとしたことで見つけた。それまで使っていた、名の通ったフランスの古い弓と比べて、高音の伸び、低音の広がり、強さ、あらゆる点でずっと良かったので、すぐ手に入れた。金で腕を買う、とはこのことだと思った。
よくさらい、よく仕事をする、ということは、楽器も弓も酷使する(よくこわれないな、といつも思う)。それでなくても弓は破損する可能性があり、使いすぎてへたるのも嫌だったので、その気に入っている新作をもう一本探そうと、少し前に思い立った。
その作家の弓を何本か見た。どれも申し分ない性能だが、音色がぴんとこない。
いろいろ比べるうち、眠っていた古い弓で弾いてみたら、なんだかとてもいい。あの時、音が前にいかない感じだったのに、今は響きもあるし、音色もいい。
楽器のセッティングはあまり変わっていないのに、楽器が変わったのか、弓が変わったのか、人間が変わったのか、本当に不思議だ。
No.201(2008年2月25日)
2月22日、北九州に入り、響ホールで、高橋さん礒さんとショスタコーヴィチのトリオのリハーサル。
響ホールで弾くのは久しぶり、2度目。こんないいホールだったっけ、と驚く。気持ちのいい残響に、がんばれよ、と背中を押される感じだ。中には立派な音楽専用ホールで残響も計算してあるはずなのに、どこか冷たい、試されるようなところもあるから、設計は本当に難しいのだろう、と思う。
23日、昨日のリハ、今日のゲネプロ、ともに録音して聴く。この1,2ヶ月の僕があるのは、この録音の機械のおかげだ。まだまだ自分の演奏を聴けていないとがっかりし、そして奮い立つ。
はじめから自分の音をばっちり聴ける人もいるだろう。でも、僕みたいな人間は、こうして耳と心と体の連係を訓練すればよいのだ。楽器をさらうようなものだ。もう若くはないのだから、なりふりかまってはいられない。
この日の演奏会にも多くの方々にお越しいただき、本当にありがとうございました。
チェロの人工ハーモニクスで始まるショスタコーヴィチの出だしはしびれた。本番中、1人だけで弾く最初の8小節が過ぎると、もう自分の仕事は終わったような気がしてしまい、いけないいけない、と気をひきしめる。でも、あっという間に最後のページの最後の段だった。
長いことチェロを弾いてきたはずなのに、こんなにおもしろいものだなんて知らなかった。
音楽を愛する人たちと楽しく話しもできて、本当にうれしい一日だった。
が、春一番が吹いた影響で帰りの飛行機が大幅に遅れ、それでも翌日朝から都響のリハーサルがあるので、深夜どうにか帰宅した・・・。
No.200(2008年2月22日)
2月16日、長崎市三和公民館での演奏会、多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。たくさん書いて頂いたアンケートも、とてもうれしく拝読しました。ブリックホールのスタッフの皆様にも、よくして頂き、本当に感謝しております。
この2年くらいよく弾いてきたブロッホのニグンと、ポッパーのポロネーズはこれで一区切りのつもり。
17日に帰京して、JTアートホールで翌日のチェロアンサンブルのリハーサル。
三和町公民館は新しいとは言えないホールで、どうしても響きはステージ上で完結し、客席に届きにくい感じだったが、そのタイトな感じは好きだった。一年ぶりのJTはよく響いてびっくりする。
よく響く場所でチェロばかりだから、中低音ばかりごうごう鳴って、ちょっと注意が必要だ。こういうところでは下2本もスチール弦を張った方がいいのか、と録音を聴きながら考える。響きにはずいぶん助けられるけれど。
2月18日の公演は、今回も盛況。本当にありがとうございました。
同じ楽器のアンサンブルでは、音色が同じなので必要な声部が浮き立ってくるのが、かなり難しい。ここにチェロアンサンブルの難しさの一つがあると思う。いくつかあった自分の出番、これまでよりは少しうまくいったと思うのだが。無事終演して、ほんの少し、一息つけた。
No.199(2008年2月21日)
自分の演奏をまめに録音して聴くようになってから初めて、シャフランの演奏(ベートーヴェンのソナタ)を聴き、その素晴らしさに鳥肌が立った。圧倒的な表現力と強靭な技術。
いったい僕は何をしているのだろうか。
2月12日からJTアートホールでのチェロアンサンブル公演のリハーサルが始まった。
練習の合間の休憩は、またいつもの調子で大変にぎやかだ。これも録音しておいたら本当におもしろいだろうと思う。
いろいろなチェリストと一緒に弾けるのは、本当に刺激的だ。音楽的、技術的なことだけではなく、どのように曲をつくっていくか、そのそれぞれの過程を見られるのだ。
録音をするようになって、弓を使うスピードがとても大切だと思っている。もっと速い弓が必要なのでは、と思っていたら、向山さんは少しの弓ですごい音を出している。いったいどういうことだろう。
No.198(2008年2月11日)
見附さんに頼んでいたエンドピンが届いた。
鉄パイプ製のエンドピンは、低音から高音まで音の出方にムラがない。響きも多いので、音がつながる。音は開放的で癖がない。癖がないから物足りない感じがして、他のエンドピンにすると、またすぐ鉄に戻したくなる。いいぞ、鉄。おまけにパイプだから軽くて取り回しがいい。
ピカール(金属みがき)でぴかぴかにして、横浜での演奏会に臨む。
2月9日、横浜、外交官の家での演奏会、悪天候にもかかわらず、多くの方にお越し頂き、本当にありがとうございました。
一昨年の京都以来、久しぶりに全曲を弾いたバッハの6番は、本番中に暗譜が不安でたまらなくなる、あの嫌な感じがなく、良い集中ができてうれしかった。そう、きちんとさらってさえあれば、指は動いていくのだから、余計なことを考えずに、体に心をまかせればいいのだ。さらってさえあれば・・・。
驚くほど静かに聴いてくださったことにも、助けていただいた。
10年ぶりくらいに弾いた、黛敏郎の”BUNRAKU”にもいろいろな発見があって楽しかった。能の浅見慈一さんとの話しでも、さまざまなことを教えて頂き、雪が降り始めて帰るのが少々大変だったけれど、うれしい一日だった。
No.197(2008年2月3日)
またエンドピンの話。
去年エンドピンを太いものに変更して、これまでの8ミリ径のコレクションは使えなくなった(近況報告のバックナンバー164を参照 )。その時見附さんに作ってもらった10ミリ径、チタンとカーボンと真鍮でできたエンドピンは素晴らしいのだが、真鍮だけでできたエンドピンの、もちっとした鳴り方が忘れられず、10ミリのものを弾かせてもらった。
今度はしならないし、音の重心も下がってご機嫌である。ラインナップに加えるべく、45センチの長さで注文した。
エンドピンの素材はカーボン、チタン、タングステン、ステンレス、鉄、木、など様々あるが、実は昔ながらの鉄もいい。10ミリ径の鉄だと重そうなので、パイプを使い、作ってもらうことを思いついた。
見附さんと相談して、パイプの肉厚は1.5ミリ、錆の心配はあるがメッキはしない、ということにした。できあがりが楽しみだ。
2月1日からの都響は、下野さんの指揮でチャイコフスキーの4番など。
オケがいい音で鳴ってうれしい。4番の交響曲は何度も演奏してきたが、いつもがちゃがちゃするだけで、あまり好きではなかった。今回はいろいろな景色が見えるし、とてもいい曲に思える。
No.196(2008年1月21日)
1月12日東京文化会館でのロビーコンサート、雨天にもかかわらず多くの方にお越しいただき、本当にありがとうございました。
これまで出演したこのコンサート、3回とも雨だったから、よほど僕の心がけが悪いらしい・・・。
当日本番前のリハーサルを録音して聴いてみた。自分の演奏を聴くことは、僕にとって、とても勇気のいることだ。でも技術の進歩で、本格的な道具を使わなくても、最近はかなりよい音質で録れるので、落ち込む量が少なくて助かる。
録音を聴くといろんなことがわかる。技術的に大変になると、耳が閉じている瞬間があり、それが大きな問題だ。つまり、大変だ、と思うと、耳元で鳴っている自分の音を聴けなくなっている時がある、ということだ。
ローランドという会社の作ったこの機械の、もう一つ優れているところは、再生音にリバーブをかける(人工的に響きを追加する)ことができる点だ。自分の演奏を聴くのがつらくなってきたとき、リバーブをかけると、また少し落ち込む量を減らしてくれる。
No.195(2008年1月14日)
年末年始は音楽番組が多く、ついついテレビを見てしまった。
チェロに限らず、いろいろな演奏家を見るのはすごくおもしろい。弓の使い方や体の使い方といったちょっとしたことが大きなヒントになる。今までに誰かに言われたり、気付いていたことの大切さを改めて意識する、ということもある。
少しエンドピンを長くして、楽器を低く寝かせ気味にすると、肩にまったく力が入らなくなる場所があることに気がついた。肩が胴体の上にとん、と乗っていること、力を入れなくても腕が動くことがよくわかる場所がある。
肩に力を入れずに弾くことは、非常に新鮮な感覚なので、どうやら今まで肩に相当緊張感があったらしい。肩の力を抜くなんて、当たり前のことで、これまできっと誰かに言われてきたことなのだろうけど、今新しい弾き方を身につけようとすることが本当に楽しい。